第28話 日焼けあと
「なぁ、美波って本当にすごいやつなのか?」
「そうね~」とマリーは楽しげに言った。「もしかしたら、わたしが思っている以上にすごいピッチャーかもしれないわ」
「ふうん……?」
雄吾は顔通話の画面から眼を離し、もうひとつの仮相ウィンドウに開いておいたILP公式サイトを見やった。
美波の今シーズンの個人成績が載っている。しかし、あまり芳しいものではない。防御率は5点台で、二ケタの黒星がついている。
「彼女の力はまだ見えていないのかもしれない」とマリーは言った。「本人でさえ気づいてないみたいだもの。さあて、どうやって引っ張っていこうかしら」
「楽しそうだな」
「ええ。リハビリも順調だしね」
そう言って微笑むマリーだが、見た目には以前とあまり変わっていない。雄吾が見舞いに行くときも、顔通話している今も、相変わらずゴーグルをしている。
けれど、その奥にある碧眼にはまぎれもなく新たな光が宿っているのだ。
マリーの機械化は、問題を抱える網膜を機械で代替しようというものだ。
光を視覚に変換する重要な器官である網膜は、瞳や水晶体を通って眼の奥に到達した光を最終的に受け止め、それを信号に変えてさらに奥の視神経に送っている。
その役割を、センサを備えた機械仕掛けの人工網膜に任せるのだ。
手術前の適合試験の段階で、マリーの視神経は機械からの信号にきちんと反応し、脳の視覚野もまた、その信号を「テーブルの上に縫い目がほつれたパールボール公式球がある」という具合に処理できるということがわかっていた。
手術後は、機械の侵襲とマリー自身の免疫に関するネガティブな反応が起こらないかどうかが慎重に確かめられた。
そうして眼底に残っていた医療マイクロマシンを引き揚げさせ、外部機器を取りはずしてから、すぐにリハビリが始まった。
通常、体内にいれる機械が炎症を引き起こすことはない。それだけの技術が今の世の中にはある。
しかし、マリーの抱える疾患がまったく予測不能の奇病だということを考慮し、当分は機械の起動を一日二回の三十分ずつに制限することになった。
マリーとリハビリスタッフたちは限られた時間の中、ほとんど真っ暗の部屋で白い色をさがす最初の取り組みを開始した。
その後じょじょに明るい場所に移り、いろんな色や形のものを見つける訓練をしているという。
「今日は病院の屋上から夕焼けを見たの。夕日を直接見たんじゃなくて、赤くなった空をね。宇宙に火の川が流れているみたいだったわ。下を見たら木々も赤くなってるの。こんなに寒いのにまわりはたくさんの暖かい色であふれてるんだなぁって。わたし忘れてたわ。何も見えずに寒さだけ感じていると世界は青と灰色の二色しかないように思えてくるんだもの。だからわたし忘れないうちに絵を描いて、さっきまでずっと描いていたのよ」
マリーは興奮気味に身振り手振りを交えて喋った。これだけ早口の英語だと雄吾には聞き取れない部分もあるけれど、マリーの感じた嬉しさや感動は目一杯伝わってきて、思わずいっしょに笑顔になった。
「ずっと?」
「そう。ずっと。たくさん」
マリーはゴーグルをちょっと横に向けた。描いた絵がそこにあるのだろう。
「これ、売れないかしら。機械の眼の女の子が描いた絵」
「じゃあ俺が買うよ」
「それはだ~め。うちが貧乏になっちゃう」
「変わらないよ。俺の部屋からマリーの部屋に移るだけだ」
「ふふ。そうね」
そこで朱里絵がマリーを呼ぶ声が聞こえた。もう寝なさい、と。
「ハ~イ。じゃあ雄吾、またね」
「うん。おやすみ」
雄吾は通信を切ったあと、真顔に戻り、呼び出し続けている朱里絵からの着信に出た。
「何?」
「ちょい、声変わりすぎでしょ」
朱里絵の呆れ顔が大写しになったと思ったら、すぐフレームアウトして、うつらうつらと船を漕いでいる祖母が映し出された。朱里絵が肩を揉んでいるようだ。
「別にいいだろ」
「そりゃいいけどぉー。でも毎日毎日電話しなくたっていいんじゃない? そろそろマリーもそっち戻るんだから」
「えっ、いつ!?」
「まだ決まってないけどぉ、明日太陽の下に出てみるって」
「明日……」
「それで大丈夫なら、リハビリも次の段階に移れるんじゃないかなぁ」
雄吾は生返事をした。
「雄吾は明日学校でしょ」と朱里絵は画面に顔を近づけて言った。「もう寝なさいよ」
いわれなくても雄吾はすぐさまベッドに入った。しかしなかなか寝つけなかった。 翌朝かなり早く家を出た。登校中、ずっと空模様をたしかめていた。教室に入ってからも窓辺に行って外を眺めた。
今日はしばらくなかったような快晴だ。日差しが動くたび、新たに塗り替えられたように景色がコントラストを変えていく。
少し明るすぎるんじゃないかと雄吾は思った。
こんな日に限って太陽は、病み上がりのマリーをフル・ワインドアップで迎え撃とうというのだ。
「おい雄吾」と栗田が気づいて言った。「どっか行くん? ――お、おい!」
予鈴が鳴っている。廊下に飛び出すと、ちょうど河田教諭がやってきた。
「早退します!」
横を走り抜けていく雄吾の耳に、野太い笑い声が届いた。
「十五年ぶりの無断早退者だ!」
交通コーディネーターが学校にタクシーを呼び、小倉発のヘリに加えて天神ポートから病院までの足も確保してくれた。このAIサービスなしでは、何十キロと離れた福岡市のウォーターフロントに一時間そこらで着くなんてことはできなかっただろう。
けれど、
病院の前の花壇まで来て、雄吾はもう一歩も動けないと思った。身体を折り曲げ、膝に手を置き、荒く息を吸って吐いた。
この日ばかりは太陽が季節に勝っていた。汗で濡れた学ランの背に容赦なく日の光が降り注ぐ。霞む視界に、気持ち良さそうに光を浴びている花々が映る。
花壇の向こうに、きらきらと輝き揺れる金色の髪が見えた。
「マリー!」
雄吾は駆け出したが、だいぶ手前のほうで、重力に強いられたヘッドスライディングをかまし、振り向いたマリーと作業療法士をびっくりさせた。
「ユーゴ! ダイジョブ~?」
「おうおう全然全然!」
起き上がった雄吾のもとに、テニスボールが転がってきた。
マリーが左手をさっと振り上げた。
「投げて」
頭上に伸ばした左手を、マリーはグラブをはめているみたいに開け閉めした。
雄吾はテニスボールを握って立ち上がった。
マリーは鼻の上の区切りがないオレンジ色のサングラスをしていた。光の加減で一瞬浮き出たその瞳は、たしかに雄吾と視線を合わせていた。
「い、いくよ」
テニスボールが指先を離れてすぐ、あっと雄吾は声を上げた。神経質になりすぎて、あまりにも弱いボールを投げてしまった。
ひょろっと宙を泳いだボールはみるみる落下し、てんてんと跳ねてマリーの足元に転がった。
雄吾は息を呑んだ。呆気なくその瞬間はやってきた。
身を屈めてボールをひょいと拾い上げたマリーは、同じような気軽さでひゅんと投げ返してきた。
「うわっ」
雄吾が顔を明後日のほうに向けてもちゃんと捕球できたのは、マリーがちゃんと捕りやすいところに投げたからだ。
まだ信じられない気持ちで、手の中のボールとマリーとを見比べた。
「もっと強く投げて」
マリーの声とともに、あの芝生広場の情景が雄吾の眼によみがえった。
ようやく戻ってきたのだ、あの場所に。
テニスボールを投げ交わしながら、じんと眼の奥が熱くなった。
目尻をこすった雄吾の顔を、マリーの速球が容赦なくぶっとばした。
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