第23話 ひまわりの決心

 吸い込んだ空気のおいしさで、マリーは朝を実感した。


 階段を一歩一歩のぼっていく。この先にあるのは高台の公園だ。

 背中に負った山登りのような荷物に詰め込んだのは、キャッチャーミットと防具一式。これがけっこうな重さなので、手すりを使うことを自分に許していた。


「あと半分です」ガイドAIの声が骨伝導イヤホンから聞こえた。

「わかってるわ」とマリーはつぶやいた。

 そこで足音に気づいた。うしろから速いリズムで近づいてくる。

 マリーは立ち止まって端に寄った。先に行ってもらおうと思ったのだが、足音はすぐそばで止まった。


「手を貸そうか?」

 女の子の声だ。年齢は自分とそう変わらないくらいだろうか。声の出どころからすると、自分より背が高いようだ。

 マリーは日本の女性相手に見上げることはほとんどなかったため、ゴーグルをどの高さに向けるか決めかねた。

「アリガト。でも、ダイジョブヨ」

「心配しないで」声がずいと迫ってきた。「あたし、福岡のエースだから」


 日本語が達者とは言えないマリーだが、ゴーグルの翻訳機能のおかげで彼女の言うことはおおよそ理解できる。しかし、彼女のその言い分はよくわからなかった。

「……ん?」と笑み半分、困惑半分に首を傾げる。

「ふふーん、驚いたでしょ?」女の子は勝手に嬉しそうだ。「じゃあ行こっか」

 いきなり腕をつかまれ、マリーは仰天した。

「何するの!」と思わずバベル言語で怒鳴り、手をはらった。

「何って、パールボールするんじゃないの?」


「え……?」

 女の子はまた近づいてきた。「昨日連絡したでしょ。あれ、あたしだよ」

 マリーはあっと口を開けた。「あなたが?」

「うん。証拠見せよっか?」

 一瞬唖然としたが、気を取り直して答えた。「わたし、見えないのよ」

「大丈夫」と言う女の子は悪びれた様子もない。そればかりか、またしてもマリーの腕を勝手につかんだ。「あたしがちゃんとお世話するからね」

 そう言うわりには扱いが乱暴だ。

 マリーは階段をのぼるのと同時に、彼女にバランスを崩されないようにしなければならず、よけいな負担が増えただけだった。

“急に引っ張らないで! って言いたいけど……”

 あからさまな態度はとれない。やっと見つけた練習相手なのだ。

「わたし、自分で歩くわ」とマリーは控えめに提案した。

「いいから任せて」と女の子。「あたし、いつも家族の面倒みてるし、上手だから。仕事で障碍者施設に行ったときも褒められたんだよ」


 一瞬、ゴーグルの翻訳間違いかと思った。

「……障碍者?」

「うん」と自慢げに答えた彼女は、マリーの顔が強張っていることにまるで気づかないようだ。

 絶句したマリーはどんどん公園の奥に引っ張られていった。


 どこかはわからないが開けた場所に着いたようだ。そこで女の子はマリーの手にふたつの物を握らせた。

 おもちゃのバットとボールだ。

「バットのこの部分をね、ボールのこのへんに、ばしんって当てるんだよ」

 女の子は得意げに説明している。マリーを背後から抱きすくめるようにし、構えをとらせたあとでマリーの手からむしるようにボールを取り上げた。

「ここにボールを置くからね。ここだよ」

 目の前にティースタンドがあるようだ。

「いくよー!」

 蜘蛛みたいな大きな手をマリーの手の上に重ねてバットを握り、ゆっくりとスイングの動きをさせた。ぽこ。

「じょーずじょーず!」

 ぱちぱちぱちぱち。


「…………」

「じゃあ今度はひとりでやってみよっか」女の子はうきうきした様子で続けた。「はい、ここにボール置くよ。わかる? ここ。そうだなー、ちょうどへそとあそこのあい――」

 フルスイング。

 気持ち悪い打感だったが、見えなくなるくらい飛ばしてやったという確信はある。

 女の子が言葉を失っていることが、それを何よりも雄弁に物語っていた。




 眼が覚めたとき、雄吾の頭には昨日の疑念が残っていた。眠りの霧が晴れた今、そのかたまりは思いのほか大きく、深刻なものに感じられた。

 すぐにマリーの部屋に行き、そっと中をのぞいてみたが、誰もいないようだった。ピアノ部屋もしんとしていた。一階も見てまわったが、リビングにヴィクトルがいるだけだった。


「オハヨウ」コーヒー片手にヴィクトルは微笑んだ。「今日はふたりとも遅いな」

「ふたりって、マリーのこと?」それ以外ない。朱里絵はいつも遅いから。「朝練に行ったんじゃないの?」

「そんなはずはない。今日はマリーのチームメイトたちは遠征に行っている」

「でも、部屋にいなかった」

「まさか」ヴィクトルは眼を丸くした。

「俺、捜してくる!」

 雄吾は玄関から飛び出した。




「よし、と」

 防具を着け終えたマリーは、近くにいるはずの今日のパートナーに向かって声をかけた。

「ねえ、あなたは準備できた?」

 返事がない。

「ねえ!」

「はいぃ……!」

 あの女の子の声だ。

 けれど、その姿をマリーは思い浮かべることができない。

 ピッチャーらしい長身細身のイメージが消えてなくなり、「おびえ」という感情だけがそこにいて、震えながら返事をしたような感じだった。

 ちょっときつく当たりすぎたかもしれない。でも言うべきことは言っておかないと。

「ちゃんと返事をしてちょうだい。どこにいるかわからないでしょ」

「はい……」

 マリーはふぅと息をついた。目の前にいるのが本当に約束の子なのかどうか、疑いはじめている。


 昨日メッセージをくれた女の子のプロフィールにはこうあった。

 ミナミ・レイ。ユース所属のプロの卵。

 紹介文はそれだけで、記録関係も交友リストも全部非公開になっていた。

 パールボールが上手いというだけで無用の注目を浴びたくない、そんな人間がつくったアカウントにふさわしい装いだと思えた。

 マリーにも多少経験があっただけに、何の根拠もなしにそう確信してしまったのだ。


 もしかして、一杯食わされたのだろうか。

 眼の見えない女の子にいたずらしようと企む、たちの悪い輩の手口にのってしまったのか。

「とにかくはじめましょう」と気を取り直して言った。

 彼女が紹介通りの選手なのかどうかは、投げさせてみればわかる。

「はじめるって、何を……?」今度は「戸惑い」が返事をした。

「決まってるでしょ、ピッチングよ」

「む、無茶だよ、そんな」

「ダイジョーブ」

「コントロールミスしたらどうすんの!?」

「あなた、プロの卵なんでしょ」マリーは挑発するように言った。「構えたミットに投げ込むくらいのことはできて当然よね?」


「うう……」

 ぶつぶつと何か言い始めた。

「ほら、早く」マリーは両手を軽く前に伸ばして方向を示した。「わたしの向きはこっちでいい?」

「……うん」

「じゃあ、適当なところから投げてみて」マリーはそう言って座った。「それと、投げる前には声をかけてちょうだいね」

「……わかった」

 足音が遠のいていく。

「帰っちゃダメ!」

「うえっ!?」

 図星だったらしい。

 ため息の気配があった。

 マリーは急かすようにばしんとミットを叩いた。

「サァ、コイ!」

 ややあって、「いくよ」と声がした。

「そうそう」マリーはやや腰を上げてミットを構えた。「それでい――」


 ぱしん、と革の鳴る音が響いた。


 何が起きたかわからなかった。マリーは自分の左手の感触が信じられず、恐る恐る右手をミットの中に入れた。

 ある。

 ボールがすっぽりとポケットに収まっている。

「捕れた……」

 ゴーグルの奥で、マリーは何度も眼をしばたたかせた。

「今のどおー?」

「も、もう一球投げて!」

 マリーの返球は高さと方向に気をつけたので、ちゃんと相手に届いたようだった。

 スローイングは自分の感覚に頼ることができるから、視覚がなくてもある程度こなせる。

 けれど、キャッチングはそうはいかない。

 どこにミットを持っていけばいいかわからないし、構えたところにボールが来ても、手でしめるタイミングがわからないから、いったん入ったボールが飛び出てしまうのが関の山だ。


 ところが、マリーはそれから三球連続でボールを捕まえた。

 驚くべきことだった。マリーがキャッチングできたことがではない。

 彼女が、マリーの構えたミットのポケットを、寸分違わずちょうどいい強さで射抜いたことがだ。

 優れたミットの特性――ポケットに正確にボールが当たれば、自然としまるようになっている――が働いた。それが原理だ。理解できる。

 しかし、この左手にある感触は、到底わかるものではなかった。まったく未知のものだった。

「すごい! 捕れてるじゃん!」

 無邪気な声音がマリーをいっそう混乱させた。

「あなた、いったい――」

「マリー!」

 雄吾の声が向こうから飛んできた。




「何やってるんだよ!」

 走ってきた勢いもあったが、雄吾はマリーの防具姿を見た途端、頭に血が上っていた。はじめてこんな怒り声をマリーに浴びせた。

 マリーはうろたえたようだった。

「ユーゴ……」

「医者にも行かないで、やることがこれかよ! 治したくないのか?」

「馬鹿言わないで!」マリーは立ち上がった。「わたしが一番治りたいと思ってるわ! どうしてそんなこと言うのよ!」


 マリーは無茶なほどの勢いで体当たりしてきた。押し止めようとした雄吾ともども倒れ込んだ。

 ふたりは同時に上体を起こしたが、先にマリーがミットで雄吾の横っ面をはたき、右手も振りまわしてきた。雄吾はその手をつかまえ、ミットでまた叩かれたあとで左手も押さえた。ふたりは唸りながら腕を押し合った。

「……なんで、もう一度手術を受けないんだよ?」と雄吾は言った。

 マリーの力が弱まった。

「無駄だって、決まったわけじゃないだろ? こんな危ない練習をするくらいなら、いっそのこと手術したほうが――」

「こわいのですよ」

 誰かの声が雄吾を遮った。

「取り戻した光を、また再び失ってしまうことが」


 いつの間にか、すぐそこにひとりの女性が立っていた。

 頭の左右にお団子を作ったヘアスタイルで、チャイナドレスに軍もののジャケットという奇妙な格好をしている。不思議な雰囲気の持ち主で、顔立ちは十五歳にも、三十五歳にも見えた。

「カノーさん……?」

かのえです。庚まなか」とその女性は穏やかに言った。「お久しぶりですね」


「カノーさん!」

 マリーがなおしてくれないので、庚まなかと名乗ったその女性はがくっとずっこけそうになった。

「わたし、決めました」とマリーは言った。「機械化手術を受けます」

「機械化!?」

 雄吾と、そこにいたもうひとりが、声を揃えて仰天した。

「待てよマリー、自分が何言ってるかわかってんのか?」

「そうだよ! そんなお金があったらあたしに分けてよ!」

 ん? と雄吾は隣と顔を合わせた。

「あ、おまえ!」

 サンフラワーズのお騒がせ女、美波零。


「なんでスタッフさんがいるの?」と美波はきょとんとしている。

「ねえ聞いて、ミナミ!」マリーは近くにある人型のオブジェに向かって言った。顔がマカロニのようになっているやつだ。

「あたし、こっち」

 あっと振り返ると、マリーはどたどた走ってきて美波の胸に飛び込んだ。

「わたし、あなたの本気のボールを受けたい! だから待ってて、ちょっとのあいだだけ!」

「マリー……」

 美波の血色の悪い顔に、ぽっと赤みがさした。


「ちょっとのあいだで済むかしら」庚まなかが苦笑して言った。「ともあれ、まずはご両親とお話をしなければいけませんね。――よろしいでしょうか?」

 庚まなかが振り向いた先に、ヴィクトルがいた。

 複雑な表情を浮かべて歩いてくる。

「パパ……?」

 驚いた様子であちこち見まわしているマリーを、ヴィクトルはじっと見つめた。

「ここだよ」というヴィクトルの声にマリーは振り向いた。「さぁ、家に帰ろう」

「パパ、わたし――」

「話はあとだ。センセイたちとジュリエにも加わってもらう」ヴィクトルはきびすを返して、背中越しに庚まなかを見た。「あなたにもお話をうかがうことになるでしょう」

「喜んで」と庚まなかは応じた。

 雄吾は何か言おうとした。しかし入る余地はどこにもなかった。




 家に帰ると、ヴィクトルはリビングの重像機レイヤーを使って館山夫妻を呼び出した。そして彼らと朱里絵を含めた三人に、手短に状況を説明した。

 一番困惑していたのは、館山だった。

「マリー、君は……本当に、機械化手術を受けたいのか?」

「はい」とマリーはしっかりした声で答えた。

 館山は腕組みし、ううむと唸った。「たしかに、機械は病気にならない。しかし……」

「私は反対です」とちえみが静かに言い差した。「焦る気持ちはわかりますが――」

 マリーは不意にソファから立ち上がり、ゴーグルをはずした。

 大人たちは驚きの表情を浮かべた。事故以来、マリーが昼間に裸眼を晒すことはなかったからだ。

 マリーの蒼い双瞳には、強い意志が宿っているようだった。


 声のなくなったリビングの様子を、雄吾はキッチンから見ていた。

 隣で美波がお菓子をばくばく食べているので、気が散って仕方がない。

「どうなっちゃうのかなー?」と美波は食べるついでのように言った。

 雄吾にもどうなるかわからなかった。ただ一つわかるのは、マリーがたしかに何かを見つめているということだけだった。

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