第22話 マリーの反抗期
「ただいま~……」
家の中は灯りがついておらず、誰もいないようだった。
よく晴れた休日のおやつどきだから、恋人たちはカフェにでも行っているのかもしれない。
「ああ疲れた」
雄吾は肩を揉みながらバスルームのドアを開けた。
薄闇の中に白く浮かび上がるものが見えた。
金色の髪がきらきらと輝いた。
そこにいるのがマリーだと雄吾が気づいて、誰かいることにマリーが気づいて振り向くまでの間に、雄吾は二度まばたきをした。
「うわっ!」
あわてて閉めたドアにぴたりと背中をくっつけた。
「ごごごごめん! 気づかなかった!」
「ダイジョブヨ~」
マリーがドアを少しだけ開けた。
「先に入る?」
「いや……あとでいい」
「そう」
ドアが閉まった。雄吾は走ってダイニングに行った。
水を一気飲みし、はぁ、と大きく息を吐く。
落ち着いてくると、さっきのマリーの様子に違和感をおぼえた。
なんだか顔も声も表情が乏しく、考えごとに憑かれているような感じではなかったか。
そしていちばん気になったのが、その身体。
左肩に、黒々としたあざが見えたような……
雄吾はそれとなく様子を見てみた。やはりマリーはどこか変だった。
そして夕食のときに突然、こんなことを言った。
「わたし、明日センセイのとこ行かない」
食卓の空気がぴたっと静止したようだった。
固まった朱里絵の手から落ちた箸がカチャンと音を立てた。
雄吾はマリーの眼を見ようとしたが、伏せたまぶたと睫毛のかげりでよく見えなかった。
するとヴィクトルが落ち着いた声で、やわらかく訊いた。「どうしたんだ、急に」
「だってきっと、この前と何も変わらないもの」
朱里絵が腰を浮かせて何か口走りかけたのを、ヴィクトルは手を向けて制した。
「わかった。……診察はまた今度にしよう」
◇
マリーは部屋に入ってすぐゴーグルをかけた。
机に向かい、あの不思議な女性からもらった名刺をAIに読ませる。
「カノエ・マナカ」と機械音声がイヤホンに流れた。
「カノーさん……」マリーにはそうとしか発音できない。
名刺の下のほうに記載された連絡先を指でなぞる。しかし今日もまた電話をかけることはできそうにない。
「ウェブサイトへのリンクがあります」と機械音声が続けた。「ジャンプしますか?」
「ノン」とマリーは答えた。
〈フェアライン〉のオフィシャル・サイトは隅から隅までチェックしてある。【about us】のページに書かれた文章をAIに読ませ、軽く百回は聞いた。そらで思い出すことだってできる。
『今日、世界人口の約20%が、なんらかの機械化をその身に施しています。にも関わらず、機械化を施したアスリート――全アスリート中6%にも満たない――は
マリーはため息をついた。
「リンケージにつないで」
デバイスはマリーの声に応えて、机の上に仮相ウィンドウを開いたはずだ。
可視板(visiboard)を手元に引き寄せ、その上に指を置く。
形状記憶素材で自在に凹凸を作り出すビジボードは、トップページのレイアウトを表面に反映し、すべての文字を点字に変換して浮かび上がらせた。
リンケージ(rink-age)は、月も含めた全世界的規模で展開する会員制のUNSだ。
その中にパールボール専用のエントリがあり、競技者と指導者、愛好家やメーカーが相互に交流できる場が設けられている。
選手の競技データを管理している世界パールボール連盟との共同事業なので、リンケージの競技者専用個人ページには、生涯に渡る
ただ、これはときに困りものだ。十五歳以下の全州大会であるカナディアン・カップでベストナインに選ばれてはじめてマリーはそのことに気がついた。
W杯優勝三回のパールボール伝統国カナダでは、州対抗戦で活躍した選手がメッセージボードに千件のコメントをもらうのは珍しいことではないらしい。
けれど、マリーにとっては狂っているとしか思えないものだった。
インド洋の小さな島国で競技をはじめたマリーには、ホームランに得点以外のものが付いてくるという頭がなかったのだ。
すぐに記録関係を非公開にしたが、騒音は大きくなるばかりだった。
アメリカ生まれのヴィクトルの家系から受け継いだ珍しい苗字はよっぽど目についたのだろう。マリー・ラヴァリエールの名は、カナディアンリーグ公式サイトの特集記事に載り、月と地球の百ヵ国以上で刊行されている『スカイ』発表の15歳以下
この一連の出来事は長らくマリーに苦みを味わわせてきた。
しかし最近になって、当時の記憶を噛みしめたマリーはその意外な甘さに驚いた。
認めるしかない。あのときの自分は、注目されるのを楽しんでいたのだと。
職業としてのパールボールを意識しだしたのも同じ頃だ。ランキングやネットニュースやグーグル検索の波に乗って、どんどん広がっていく自分のサムネイル画像の先に、プロ選手への道が続いているような気がして、夢中でその方角に駆け出した。
止まることなんて、考えられなかった。
手術のあと、取り替えた新しい眼がときどきかすむことがあった。
それでも誰にも言わず、検査に行くのも避けてきた。そうして陽だまりのグラウンドで何イニングも過ごした。
今の自分の状態を考えれば、まさしく自殺行為だったとわかる。
そう、わかったはずなのに、自分はまた
“あなたはばかよ”
ルーの泣き声が耳にこだまする。
けれど、やっぱり立ち止まっていられないのだ。
こうしているあいだにも、夢はどんどん遠くに行ってしまう。
メッセージボードには、今まで渡り歩いてきた国々の友だちから、たくさんの励ましの言葉が寄せられている。
しかし今、マリーが受け取りたいのは別のものだった。この手に生きている感触を思い出させてくれる、そんな力強いボールがほしかった。
ビジボードに指を這わせながら、マリーはさっきより長いため息をついた。
何日も前からずっと練習相手を募集しているのに、誰からも真剣な連絡をもらえずにいる。
指先に意識を集中し、点字に変換された文章を懸命に読み取ったところで、この手につかめるものは何もないのだ。
いや――マリーは首をすっくと伸ばした。
インスタントメッセージが一件ある。
一時間で消えてしまうものだ。マリーはすぐに中身を確認した。
名前らしきものと、電話番号らしきものがあるだけで、ほかには何も書かれていない。
スパムメールの典型的な手口だとはわかっていた。
けれど、ほかに選択肢はない。
◇
雄吾はキッチンであくびを噛み殺した。
仕事でこんなに疲れたことはなかった。真中にバッティングピッチャーまでさせられたせいだろう。
洗い機がやっと止まったので、食器を棚に片づけていく。
時折、リビングにいるヴィクトルと朱里絵の会話が聞こえてきた。
「マリー、大丈夫かしら……」
「我々はサインを見落としていたのかもしれない。いま思えば、あの子が目隠しをはずしているのをほとんど見なくなった」
「きっとこわいんだわ」
「私は今でも、あの子なら打ち克てると信じている。しかしそこに父親としての甘えがあったのかもしれない。こういうときこそ家族で支えなくては」
「そうね。私もなんでもするわ。どんなにお金がかかったって……」
「まずはハートだよ。それがなければ何もはじまらない」
「うん……」
雄吾は二階に上がった。途中、気にかかってマリーの部屋に寄ってみた。
ノックしようとしたところ、かすかに声が聞こえた。
ためらいより好奇心が勝った。そっとドアノブをまわしてみる。
マリーが机に向かっているのが見えた。
「うん。明日、高台の公園に来てほしい……」
電話をしているのかと思ったが、違った。音声入力だ。
端末眼鏡をかけて見てみると、マリーの前方に仮相ウィンドウがあり、UNSのチャット画面になっている。
「……ありがとう! 見ず知らずの人に、こんなお願いを聞いてもらえるなんて思わなかったわ」
雄吾はそこでミスをした。こらえきれず、あくびをしてしまったのだ。
マリーが振り向いた(やばい!)。ドアをしめる。
マリーが廊下に顔を出したとき、雄吾は暗がりで息を殺していた。
それでなんとかしのぐことができたが、マリーが見えないのを利用したことで自己嫌悪の念がわいた。
それにしても、と雄吾は自室で考えた。マリーは誰と連絡をとっていたんだろう?
大きなあくびが出た。もう頭がまわらない。
ベッドに倒れ込むと、そのまま眠りに落ちた。
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