第3話 シー・ラブズ・ユー?(第三回)
「後ろの方、窮屈じゃない?廊下の彼、まだ入れるよぉ!」
頭にバンダナを撒いた猫背の男性が、ステージ袖から声を張り上げた。
『ロストフューチャー』のステージは観客が廊下にはみ出すほどの盛況ぶりだった。
『グレイトフル・サッド』は雑居ビルの地下にあるキャパ数七十ほどの小さなライブハウスだ。バーを兼ねた店内は空調の効きが悪く、開演を待つ客の熱気がこもっていた。
開演時間はすでに過ぎていたが、メンバーの準備が整わないのか客電は落ちず、店内は明るいままだった。間を持たせようと喋り続けている猫背の男性は店長で、俺も面識があった。客層は圧倒的に十代の若者が多く、髪を赤やブルーに染めた客も少なくない。
俺のような中年は目立つかと構えていたが、よく見ると社会人風の男女もちらほらと見受けられた。
明るいうちに、もう一度探してみるか。
俺は携帯電話を取り出すと、大垣からもらった姪の写真を表示した。
名前は稲本彩音。写真で見る限り、育ちの良さそうなお嬢さんだ。俺は改めて会場内を見渡した。写真の制服姿の少女がどんな風に「化けて」いるのか皆目見当がつかない。客電が落ちてしまったらおそらく探し出すのは困難だろう。終演を待つしかなさそうだった。
「お待たせしました。『ロストフューチャー』です!」
店長が叫んだ。同時にステージの袖から背の高い四人組が姿を現した。パンクバンドらしく全員がぼろぼろのシャツとデニムに身を固めている。
「はい、廊下のドア閉めてーッ」
最後尾の観客がドアを閉めるのと同時に、客電が落ちた。次の瞬間、ドラムのカウントを取る音が聞こえ、大音量のロックが耳を聾した。
俺はヴォーカルの若者に視線を固定した。銀色に染めた長髪の間から切れ長の目が覗いている。なるほど、女の子にもてそうなクールな風貌だ。客席は一曲目から床を踏み鳴らし、極彩色の頭を激しく振っている。歌詞はよく聞き取れなかったが、どうやら失恋を歌っているらしい。攻撃的なサウンドとのギャップが逆に面白く、気づけば俺も盛んに床を踏み鳴らしていた。
三曲ほど演奏した後、小休止が挟み込まれた。ヴォーカルがミネラルウオーターをあおり、演奏時とはうって変わった気さくな口調で話し始めた。
「ネットのニュース見てるとさあ、最近、暗いニュースが多いじゃん。俺らからすると恵まれてる奴らがさ、つまんない犯罪に走ったりするの、なんか悲しいよね」
俺はヴォーカルの眼差しを見て、ぎょっとした。口調こそ砕けたものだったが、カラーコンタクトの奥の瞳はまるで死者のそれのようにうつろだった。
「俺もこの地下の店から飛び立っていった先輩たちを見てさ、いつかあんな風になれるかな、そしたら身も心も満足すんのかな、とか思ってたんだ。だけど最近、上りつめるばっかりが人生じゃねえなって気もするんだ。のぼりつめてもさ、心が死んでたら意味ねえだろ?別に地下が地獄で地上が天国って決まってもいないし。だから考えちまうんだ。上行って死ぬか、ここでみんなと生きるかをさ」
会場がわいた。どうやら最後の言葉に次の曲のヒントが隠されていたらしい。
『デッドアライブ・ロック!』
ヴォーカルが叫び、ドラムがカウントを刻み、再び音の奔流が会場を呑み込んだ。
パンクだけにビートは単純だったが、ところどころにクラシック音楽風のフレーズが混じるのがユニークだ。単純なビートの中に時折変拍子が混じるなど、かなり自由な音づくりをしているバンドのようだった。
俺は音の波に身を任せながら、ヴォーカルの表情を目で追っていた。声量の豊かさと相反するように、眼差しは終始うつろなままだった。
あの青年の兄が、本当に女子中学生殺しに加担したのだろうか。
生と死を話題にするなど、かなりセンシティブなところはあるようだが、バンドをやるような人間は多かれ少なかれ、そう言ったことに敏感なものだ。それだけで兄の事が音楽に反映しているとは言い切れない。
最後の曲が終わり客電が点くと、憑き物が落ちたように客席の動きが収まった。俺にとってはここからが本番だった。俺は出口の近くに陣取り、高校生ぐらいの少女に的を絞って探し始めた。
CDを購入するか、楽屋に行くか。いずれにせよ、注意していれば見覚えのある顔に行きあたるはずだ。だが、店を出る若い女の子の中に、写真と同じ顔はなかなか見つからなかった。
――おかしいな。たとえメイクしていたとしても、ある程度わかりそうなものだ。
ひょっとすると見落としたか。焦り始めた時、ふいに廊下の方から声が聞こえた。
「えーっ、ユキヤ、帰っちゃったの?」
俺は思わずターゲットを探すのを忘れ、声のしたほうに目をやった。声の主は戸口の脇に立っていた少女だった。少女はピンクの髪に穴をあけた網タイツという古典的なパンク・ファッションだった。カップルで来ているらしく女性の傍らにはキャップにサングラス、口ひげといったパンクと言うよりストリート系を思わせる小柄な人物がいた。
「そうなんすよねえ。あいつ、メイクも落とさないで、ソッコー、出てっちゃったんスよ」
関係者らしい若い男が、なだめるように話しかけていた。
「んー、もうっ。せっかくプレゼント持ってきたのに。……わかった。帰る」
女性はへそを曲げたらしく、口を尖らせそっぽを向いた。彼氏と思しき人物は女性に何か話しかけると、ふいに戸口の方を向き、携帯電話のカメラを構えた。
どうやら会場の様子を撮影しようというつもりらしい。俺は再び会場を出てゆく人波に視線を戻した。
おかしいな、と俺は思った。すでに半分以上の観客は会場を後にしており、残った観客は店長と話をしていたり、居残り組と言った風情だ。
見たところ居残り組の中に女子高生を思わせる風体の人物はいなかった。仕方ない。外に出よう。そう思い、出口の方へ踵を返しかけた、その時だった。
「痛っ」
小さな叫び声とともに、すぐ近くで人影がよろめいた。と同時に乾いた音を立てて俺の足元に何かが転がってきた。見ると、転がってきたのはサングラスだった。俺は反射的に拾い上げ、落とし主と思しき人物を見た。そしてその顔を見た瞬間思わず声を上げていた。
「君は……」
俺は思わず絶句した。大垣からもらった写真の子に口ひげを加えた顔が、そこにあった。
「かっ……返せよ」
口髭の人物……稲本彩音はそういうと、俺の手からサングラスをひったくった。何と声をかけようか。躊躇しているわずかの隙に彩音はくるりと身を翻し、廊下へと姿を消した。
「あ、待ってくれ」
俺は彩音を呼び止めようと駆け出した。その直後、俺の手首を何者かが捉え、強い力で引き戻した。
「彩音さんをつけまわすのはやめろ」
振り返ると、背の高い筋肉質の男性が立っていた。先ほどステージで演奏していた『ロストフューチャー』のドラマーだった。
「つけまわしてなどいない。むしろガードしてくれと頼まれたんだ」
「なんだって?適当なことを言うな」
ドラマーの男は手首をつかむ指に力を込めた。思い込みの激しい奴だ、と俺は思った。
「悪いが、離してくれないか。手首が折れそうだ」
「大袈裟なことを言うな。彩音さんたちが店を離れるまで、このままでいろ」
俺は音をあげた。どうやら話し合いで解決することは諦めたほうがよさそうだ。
「暴力はやめてくれ、でないと……」
俺は手首の「粒子」に働きかけた。少々、荒っぽい方法だがやむを得ない。
「うわっ!なんだっ」
ドラマーの男が俺の手首を離した。解き放たれた腕がだらりと下がり、ひじの先から振り子のようにゆらゆらと揺れた。一時的に腕の骨を解体したのだ。
「お……折っちまったのか?」
ドラマーの男がおろおろと不安げに俺を見た。それはそうだろう。強く握ったぐらいでいちいち骨が折れていては生きてゆけない。
「心配ない。すぐに治る」
あっけにとられているドラマーの男をその場に残し、俺は会場を飛び出した。廊下にもロビーにもとっくに二人の姿はなかった。が、俺は悲観してはいなかった。
二人が辿った道筋が目に見えない軌跡となって残っていたからだ。ゾンビは嗅覚が鋭い。よってごく短い間であれば、臭跡をたどって後を追う事ができるのだ。
俺の嗅覚には、先ほどとらえた二種類の臭いが残っていた。同じ臭いが店の中から外へと、細い二本の糸のように続いていた。俺はライブハウスを飛び出すと、臭跡を追った。二本の糸は建物を出てすぐ右手に折れ、雑居ビルの連なる通りをまっすぐ伸びていた。
この道筋なら、走ればいずれ追いつくな。
俺は雑踏をくぐりながら二本の糸を追った。排気ガスや酔っぱらいの臭いなど、幾層にも折り重なった夜の臭いが何度となく俺の足を止めそうになった。何度か角を曲がったところで、俺の鼻は一軒の雑居ビルに糸が吸い込まれていることを確認した。
「エレベーターに乗ったな。おそらくまた地下だ」
俺はテナントの表示を見た。先ほどバラバラになった腕の骨はいつの間にか修復されていた。ひととおり入居している店名に目を走らせると、俺は饐えた臭いのするケージに乗り込んだ。
確かめるまでもない。バーや小料理屋ばかりのテナントの中で、二人が行きそうな店は一つしかない。地下のクラブだ。
エレベーターを降りると、俺は突き当りの黒いドアに向かって足を進めた。
『アッドナイン』と彫り込まれたドアを押し開けると、下腹に響くような大音量が耳を聾した。店内は暗く、どこが受付かもわからなかったが、俺は構わず奥へと進んだ。
「いらっしゃいませ。お客様、会員証を」
店員が近づいてきたが、俺は構わず闇の中を進んで行った。エレベーターから続いている糸が、フロアの中央で体を揺らしている二つの影へと吸い込まれていたからだ。
「やあ、また会ったな」
俺は小柄なほうの人影―――彩音に声をかけた。次の瞬間、彩音は硬直したように動きを止め、振り返った。
「あんた……さっきライブにいた」
「そうだ。君のお目付け役を頼まれて来たんだ」
俺はポケットに手を滑り込ませた。実は同僚から彩音を見つけたら渡してくれと頼まれた物があったのだ。それは、喘息の薬だった。彩音は喘息の発作を持っていたのだ。
「おっと、そこまでだ」
いきなり、どすの効いた声が背後から浴びせられた。俺は思わずポケットから手を出し、振り返った。二つの人影が射すくめるような目でこちらを見ていた。
「なんですか?」
俺は問いを放った。一人はドレッド・ヘアでレインボーカラーのアロハをまとっていた。もう一人は異様に背が高く、巨大なアフロヘアにレイバーンのサングラス、口ひげを蓄えていた。
クラブだからどのようないでたちの人間がいてもおかしくはないが、身長の極端な差と言い巨漢のファッションの古さといい、人目を惹くには十分すぎる風体だった。
「現場を押さえたってことだよ。脱法ハーブ密売のな」
「脱法ハーブだって?」
俺は思わず声を上げていた。クラブに怪しい密売人が出入りするのは珍しいことではないが、これはとんでもないいいがかりだった。
「そう。ここが女子高生に薬を売る売人たちのたまり場だっていう噂は以前からあったんだがね。常連の身辺を洗ってもそれらしい証拠が出てこなくて困ってたんだ」
そういうと、ドレッドヘアがポケットから何かを取り出した。警察手帳だった。
「よしてくれ。ドラッグどころか風邪薬だってもってやしない。俺は人を探しに来たんだ」
言ってからしまったと思った。風邪薬はないが、喘息の薬がある。見つけ出されてあれこれ問いただされたら厄介だ。
「ほおーう、人を探しにね。……お嬢さんたち、このお兄さんはご家族か何かかい」
ドレッドヘアが彩音に問いを振った。予想通り、険しい表情のまま、彩音はかぶりを振った。
「……だとさ。じゃあ、学校の先生か何かかな?」
俺は正直に言う事にした。ただし「親御さんから頼まれた」などといういかにも作り話っぽい答えを、この旦那たちが信じるかどうかは甚だ疑問だった。
「俺は……」
口を開きかけた俺の背後で、フロアを蹴る音が響き渡った。
「あっ!……畜生、逃がさんぞ!」
ドレッドヘアが俺を突き飛ばすようにして飛び出した。俺はドレッドの背中を目で追った。目線の先に、人波を押し退けて非常口の方へと移動する二人の姿があった。
「トム!そいつの身柄を確保しておけ。絶対に逃がすんじゃないぞ!」
ドレッドヘアが肩越しに言い放った。次の瞬間、俺の腕がまたしても万力のような力で拘束された。見上げると、アフロの巨漢が口元から白い歯をのぞかせて俺を見ていた。
「あいにくと、ここから出すわけにはいかないな。これも職務なんでね」
トムと呼ばれた巨漢は嬉しそうにそう言うと、俺の身体を自分の方に引き寄せた。
「どうするつもりだ。あのドレッド・ヘアが戻ってくるまでここにいろってのかい」
「まあ、そうだな。……もっとも、お前さんがちょっとでもむずがったりしたら、俺の一存でパトカーまでご同行願う事になるが」
俺が観念したと思ったのか、巨漢は急に鷹揚な口調になった。
「勘弁してくれよ……ここをどこだと思ってるんだ」
俺は腕をつかまれながら、同時にゾンビ特有のアンテナで建物の周囲を探った。こういった繁華街には、必ず心強い味方がいるものだ。特に、飲食店の周囲には。
「どこって、クラブだろう。クラブに警官がいちゃまずいのか。お前たち犯罪者には寛容でも、警察には冷たいってのは差別じゃないのか」
気の利いた冗談だとでも思ったのか、巨漢はさもおかしそうに言い放った。俺はさらにアンテナを張り巡らせた。トイレ、ごみ箱……いいぞ、満員御礼だ。
「そうじゃない。ここは踊る場所だ。こんな風に拘束されていいはずがない」
「ふん、捕縛された立場でよくそんな口が利けるな。お前は王様か何かか?」
……よし、来い。ここに集まって来い。俺は手首からそれとわからぬようにある物質を分泌した。ゾンビの必殺技の一つと言ってもいい。分泌物は巨漢の毛穴から体内に入り込み、瞬く間に奴自身の体臭と混じりあうはずだ。
俺の身じろぎを反抗と取ったのか、巨漢は俺に向けて歯茎をむき出した。そのまま睨み合っていると、ふいに店内がざわつき始めた。どこからともなく低いうなりのような音が聞こえてきたからだ。
「な、なんだこの音は」
巨漢は俺から視線を外し、周囲を見回した。俺の視線は、天井近くのダクトを捉えていた。いら立ち紛れに舌打ちを繰り返す巨漢に向かって俺は言い放った。
「王か……そうだな、そういえば王様かもしれないな」
巨漢が俺を睨み付けた。次の瞬間、ダクトから真黒な塊が煙のように店内に溢れ出した。
「王は王でも、蠅の王だがな!」
黒い塊は、まるで巨大な黒いアメーバのように形を変えながら空中を泳いだ。塊が蠅の群れだと気づいた利用客が悲鳴を上げながら逃げまどい始めた。やがて塊の動きを追っていた巨漢の目線が、自分の胸元で止まった。
「な……なんだ、おい。なんだって、俺の周りに集まってくるんだ」
ふいに俺の腕をつかんでいた力が弱まった。俺は反動をつけて巨漢から離れると、踵を返した。背後から巨漢の怯えきった声が追いかけてきた。
「や、やめろ、誰か助けてくれえっ」
ぶうんという不吉な羽音の重なりがフロア全体を揺さぶった。俺はためらうことなく非常口をめざした。怯えきった客の間をすり抜け、店の奥から従業員通路に飛び出すと、階段へと続く暗がりの中に二人の臭跡が細長く伸びているのがわかった。
階段を上がって地上に出ると、俺は窮地を救ってくれた友たちに向かって語りかけた。
よし、もういいぞ。そいつは食糧じゃない。だましてすまなかった。
俺は腐った段ボールで埋め尽くされた裏路地を、ゴミをかき分けながら進んだ。表通りに出ると二人の臭跡は左手に折れ、そこからネオンの連なる雑踏の奥へと伸びていた。他の臭いと混同しないよう注意しながら進んでゆくと、交差点を三つほど超えたところでふいに臭跡が二手に分かれた。
別々に逃げたのか?
俺は立ち止まり、左手の路地を見た。臭跡の一つが暗い路地の奥に吸い込まれていたからだ。もう一本はそれまでと同じようにまっすぐ、前方に向かって伸びている。
こっちに行ってみるか。
俺は体の向きを変え、路地に足を踏み入れた。雑居ビルの間の、私道と言っていいような狭い空間だった。ゴミ箱や台車、乱雑に積まれたビールケースの間を縫って進むと、いきなり目の前にうずくまっている人影が現れた。どうやら咳き込んでいるらしかった。
「君は……」
俺の短い呼びかけに、人影が頭を巡らせた。彩音だった。付け髭が取れ、結い上げていた髪がほどけて肩に落ちていた。
「稲本彩音さんだね」
彩音は逃げ出すそぶりを見せず、俺を睨めつけたままうなずいた。
「あんた……誰」
「俺は泉下という者だ。あんたの母親にたのまれて、探しに来た」
「どういうこと?別に連れ戻されるようなことした覚えがないんだけど」
彩音が咳き込みながら言った。俺はうなずいた。確かに今の所、夜遊びといえるような行動は取られていない。そうなってからでは遅いのだ。
「何もしていなくても、危険なところに出入りしているだけで親は心配する」
「何が危険かなんて、わかるもんか。そんなに……子供が……信用できないかな」
彩音が言葉を継ごうとするたびに、咳が容赦なく邪魔をした。
「そうだな、こいつを忘れずに持っていくくらいしっかりしていれば、親御さんも他人に探しに行かせたりはしなかったかもな」
俺はポケットから喘息の薬を取り出した。彩音はそれを見て、目を丸くした。
「もしかしてあんた、わざわざそれを届けに来たの?」
「そうだ。ライブ中に発作が起きたら困るだろう」
彩音は黙り込んだ。演奏中に発作に見舞われる場面を想像したのだろう。
「で?そいつを受け取ったらおとなしく……帰ってくれるの?それとも……私を連れて帰らないと契約不成立?」
「さて、どうしようかな。とりあえず、この薬を飲んでくれたら考えるよ」
俺は彩音に向かって薬の入ったケースを差し出した。彩音は素直に受け取ると、ふたを開けて中身を確かめた。
「水が欲しいんだけど」
彩音がか細い声で要求した。俺が「ミネラルウォーターでいいか?」と訊くと、彩音はこくりと頷いた。
「待ってろ。コンビニで買ってきてやる」
俺は彩音に背を向けると、表通りに引き返した。たしか次の交差点の手前にコンビニがあったはずだ。俺は速足でコンビニに向かうと、適当な飲料水を購入して路地に引き返した。彩音のいたあたりまで進んだところで、俺は異変に気づいた。
彩音。どこへ行った?
彩音の姿が、かき消すように消えていた。同時に、俺の脳裏にある映像が浮かんだ。彩音に薬を手渡すとき、腰のあたりにピンクの筒が見えたのだ。
ペットボトルホルダー。
……畜生、一杯食わせやがったな。俺は地団太を踏んだ。いつでも薬を飲める状態でありながら、薬を受け取った時点で彼女はあえて、俺を遠ざけるためにわざわざコンビニまで飲料水を買いに行かせたのだ。
俺は再び彩音の臭跡を追い始めた。表通りに出てすぐ、ガードレールの所で彩音の臭跡はぷつりと途絶えていた。こうなったら万事休すだ。
タクシーを拾ったのか。……やれやれ、たのむからおとなしく家に帰ってくれよ。
俺は彩音を追う事を潔く諦めた。と、にわかにもう一人の少女の行方が気になりだした。俺は路地を引き返し、反対側の表通りに舞い戻った。運よく、もう一人の少女の臭跡はまだかすかに残っていた。
俺はもう一つの臭跡を追って駆け出した。彼女の臭跡の上にかぶさるように野生動物を思わせる臭跡が残っていた。間違いなく、あのドレッドヘアの臭いだった。
おそらく彼女が彩音を逃がすためにおとりになったのに違いない。
子供が、小賢しいことをしやがって。
俺は臭跡を追って、路地から路地へと駆けた。不思議なことに、どうか捕まっていませんようになどと俺らしくもない願掛けまでしていた。気が付くとネオンが途切れ、俺は暗い袋小路に入り込んでいた。
この先だ。間違いない。
十メートルほど先に、緊張した二つの臭いを感じた。歩を進めてゆくとやがて、向き合った二つの人影が俺の前に現れた。しもた屋のシャッターを背にした少女と、いまにも手錠をかけかねないドレッド・ヘアが俺のすぐ前方にいた。
「ずいぶん、走らせてくれたな。少しはこっちの年齢を考えてくれよ」
ドレッド・ヘアが手をつきだし、少女の肩をつかもうとした。と、背中に回されていた少女の手がすっと身体の前に出た。その手に握られている物を見て、俺は叫んだ。
「やめろ。そんな物を使っちゃいけない」
二人の顔が同時にこちらを向いた。次の瞬間、少女が俺の方に向かって駆け出した。
「逃がすか!」
ドレッド・ヘアが叫んだ。次の瞬間、少女は手にした物体を追手に向けて突き出した。
「うわっ」
赤い光が放たれ、ドレッド・ヘアが呻いて顔を覆った。少女が手にしていたのはレーザー・ポインタだった。動きの止まった追手を振り切るように、少女は俺の隣をすり抜けると、あっという間に闇の中に姿を消した。
「畜生、ふざけやがって」
暗がりの中に、怒声がこだました。俺は踵を返し、袋小路を飛び出した。直後に、数メートル先の歩道で少女がタクシーを呼び止めているのが見えた。
これ以上追っても仕方がない。俺はひとまず安堵すると、人通りの多そうな区画に向かって全速力で駆け出した。
〈第四話に続く〉
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