生きぞこない☠ゾンディー

五速 梁

第1話 シー・ラブズ・ユー?(第一回)

                

「ああ、暑い。どこもかしこもサウナみたいだ。なあ、兄ちゃん」

 首にタオルを巻いた同僚の大垣が俺に言った。俺は黙って頷いた。


「そうですね。暑いっすね。やっぱりトタンで囲まれてるせいでしょうかね」

 俺はわざと眉根を寄せた。だだっ広い倉庫は言い換えれば金属の箱だ。戸口は開け放たれているが、入ってくる風などたかが知れている。


「まったく、ただでさえぶっ倒れそうなのに、こんな風通しの悪い所で働いてたら、夕方になる前に死ぬぜ」

 大垣は顎から滴る汗をタオルでぬぐった。拭いても拭いても、灼けた肌の上には新しい水滴が現れる。男の言う通り、このままここで働き続ければ遠からず脱水症状をおこすことだろう。


「兄ちゃん、部屋にエアコンはあるのかい」

「ないっすね。暑さには強いんで、扇風機でやり過ごしてます」

「ふうん……そういえば、あんまり汗をかいてねえな。今どきの若い奴はそういう体質なのかな」

 大垣が俺の額のあたりを見てしみじみと言った。内心、どきりとしたが苦笑いで受け流すことにした。いつものことだ。


「代謝が悪いんでしょうね。燃費の悪い身体なんすよ、きっと」

 俺はいつも使っている適当な口上を述べた。大垣はそういうもんかな、というように小首を傾げた。俺は作り笑いを片頬に残したまま、仕事に没頭しているふりをした。


「まあ、こういう仕事をしている以上、暑さ寒さを愚痴ってもしょうがないわな。……水分だけはちゃんと補給するんだぞ」

 俺は頷いた。俺の身体は実際のところ、ほとんど水分を必要としない。だが、男の気づかいはありがたかった。たしかに「普通の」人間であれば健康を害しかねない仕事だ。


「それにしても、皆さん、よくもまあこんなに飲むもんだなあ。人間の八十パーセントくらいは水分だっつーのも、うなずけるわ」

 コンベアから流れてくる大量のペットボトルを分別しながら大垣はしきりに感心した。

 たしかにそうだ、と俺は胸のうちで同意した。この大量の水分が血や汗となって人間を生かしている。すなわち、この大量の廃棄物がそのまま人間の生命維持活動の証なのだ。


 コンベアの先にあるコンテナが分別された廃棄物で一杯になったのを確かめると、俺は交換のために外に出た。コンテナの重量が両腕の筋肉を軋ませた。だが、こんなものはどうということはない。この仕事で最もきついのは、臭いだった。変質した糖分の匂い、繁殖した雑菌の臭いは、慣れない者なら一日と耐えられないだろう。


 だが、俺にしてみればちょっと臭うかな、程度の臭気でしかない。なぜなら俺の嗅覚はこの手の臭いを、ほぼ感じとることができないからだ。

 特異体質と言えば確かに特異だろう。しかし俺の特異さは嗅覚だけではない。ほぼ存在すべてが特異と言ってよかった。この仕事を選んだのも、特異な体質を生かせるからだ。


「そういえば兄ちゃん、バンドやってるんだって?」

 倉庫に戻り、空のコンテナをセットしているとふいに大垣が尋ねてきた。

「ええ、まあ……ほんの遊び程度ですが」

「楽器は何やってんの?ギター?」

 大垣はギターを弾く真似をした。意外に指遣いがさまになっていた。


「ベースです。プレシジョン・ベースっていう楽器を弾いてます」

「ふうん。まあその辺は知らんけど、ようするにロックか何かをやってるわけだ」

「そうですね。どちらかというと古いタイプのロックですかね」

 俺は曖昧に答えた。ブリティッシュとかアメリカン・ハードとか細かいことを言ってもたぶんわからないだろう。かえって面倒くさい奴だと思われるだけだ。


「いいねえ。……あれだろ?ライブハウスとかでやると、高校生くらいの女の子がキャーキャーいうんだろう?」

「いやあ、いいませんね。お客はむしろ俺らより年上のおじさんが多いです。ビジュアルもほとんど普段着に近いですし」

「へえー。……もてたくてやってるんじゃないのかい」

「もてたいですよ、普通に。でももてるために好きでもない音楽をやっても意味ないでしょう」

「たしかにな。……ちくしょう、俺も何かやっとけばよかったなあ」

 大垣は再びギターを弾く真似をした。チョーキング風に指を動かして見せたところをみると、ロックは嫌いじゃないのだろう。


「でも、夏の練習は地獄ですよ。エアコンのあるスタジオなんて借りられませんからね」

 俺はわざと辟易したような表情を作って見せた。実のところ、俺はさほど地獄でもない。他のメンバーがそう言っていたのだ。気の毒だが、こればかりはどうしようもなかった。


「ところで兄ちゃん、K区にある『グレイトフル・サッド』っていうライブハウス、知ってるかい?」

頭の中で昨日しくじったフレーズをそらんじていると、唐突に大垣が話題を振ってきた。


「知ってますよ。一回だけ出演したことがあります。地下にある狭い店ですよね」

「そうそう、そう言ってたな。……いや、実はね、高校生になる姪が夜な夜な、そこに入り浸って困ると妹から打ち明けられてね。一度、覗いてみようかと思ってるんだが、若い人たちの中に入っていくってのがどうにも億劫でね」


「あそこは出演者も観客も年齢層が低いから、腰が引けるのはわかりますよ。深夜でなければさほど心配することはないんじゃないですかね」

「俺もそう言ったんだがね。出演者がまともでも、会場に来ている素行のよろしくない連中と友達になったら困るってんだな。旦那とは別居中だから、年ごろの娘を叱れる人間がいないってのも不安に輪をかけてるんだろう」


「その、別居中のお父さんにライブに潜り込んでもらったらどうすかね」

「うん、それも言った。実際に注意もしたそうだが、中学時代、母親に散々甘やかれたあげく、いきなりほったらかしにしていたオヤジが現れて説教しても効果なし、さ」


「ふうん。叔父さんの方が効きそうだってことですか」

「まあ、俺はこういう柄だし、確かにガツンと言うのには慣れてるよ。……ただし、ガツンと言うのがはたして効果的なのか、逆効果なのかはわからん。俺には子供がいないからな」


「そうですね。ガツンと言った結果、逆にガツンと殴られたら目も当てられませんからね」

「確かにな。……まあ、ようするにそういう時代だってことだな」

 大垣が力ない口調で行った。実際、反抗期の娘を連れ戻すのに他人の手を借りては逆効果だろう。いかに親たちの腰が引けているかということだ。


「とりあえず、仲間の前で恥さえかかせなければ、意外に素直になるかもしれませんよ。あの年頃にとっては他愛ないプライドが何より大事ですからね」

「そうか。……そうだな。言われてみれば俺もそんな感じだった気がするよ」

 大垣は懐かしそうに目を細めた。この男にはまだ、少年の心が残っているようだ。この調子なら案外、すんなりと連れ戻せるのではないか。


「うまくいくといいですね。……ちょっと、スチール缶のコンテナを交換してきます」

 俺は大垣に言い置いて、その場を離れた。肉体労働をしている連中には音楽好きが多いが、今の現場で音楽の話が出たのは初めてだ。俺はちょっとうれしくなった。


倉庫の外に一歩踏み出すと、凶暴な直射日光が肌を刺した。数メートル離れた場所に積んである青いコンテナからは、臭気が濃密な瘴気となってたちのぼっているように見えた。


もうあと二十分もすれば、俺たちが分別を終えたのを見越したかのように、回収トラックが戻ってくる。暑さで眩暈がしようが悪臭で窒息しようが、俺たちに手を止めるという選択肢はない。確かに時給がいいだけの事はある、と俺は思った。


 こういう割のいい仕事を若い奴らは「割に合わねえ」と言ってやろうとしない。年を取ってよぼよぼになってからは買いたくても買えない苦労ってものがあるのに。


俺は溜りに溜まったスチール缶のコンテナを手際よく台車に積んでいった。中身を広場の中央にある巨大な金属製のコンテナに移さねばならない。もっとも嫌な作業の一つだ。


アスファルトの裂け目に引っかかる台車を根気よく押してゆくと、饐えた臭気が強く鼻先に迫ってきた。同時に都心ではあまり見ない馬鹿でかい蠅がひっきりなしに目の前をよぎってゆく。蠅自体はどれだけ飛ぼうと平気だが、視界を遮られるのはどうにも不快だ。


 大量のスチール缶を巨大コンテナに移し替え、倉庫に戻ると大垣がにこにこしながら出迎えた。怪訝な顔をしている俺に大垣は、分別の方が早く片付いたから次のトラックが来るまで事務所で休んでいていいそうだ、と首に巻いたタオルで汗を拭きながら言った。


 事務所は二階建てのプレハブで、二階の奥が従業員たちの休息スペースになっている。俺は団扇を手に窓際に陣取った。大垣は扇風機のぬるい風を背に、缶コーヒーをあおった。


「さっきの姪の話だがよ、妹の話だとどうもお気に入りのグループがいて、そこのボーカルと親しくなりかけてるっていうんだよ」

「そうなんですか。なんていうバンドですか」

「ロストフューチャーとかいうバンドだ。その中でヴォーカルをやっている男と、姪が最近、ネットでやり取りを始めたらしくて、かなり気を揉んでいるらしい」


「素行がよろしくないとでも?」

 不良っぽい男に憧れる女子高生にとって、女癖の悪さはある種のフェロモンとも言える。

「いや、そうでもない。真面目とまではいかないようだが、いたって普通の青年だ」

 大垣はタオルで頬を擦って見せた。ネットという点が問題なのかもしれない。


「実はな、ここだけの話、そのヴォーカルには兄貴がいて、そいつが数年前に犯罪をおこしてるらしいんだ」

「兄がですか。……弟の方は無関係なんじゃないですか?」

「まあ、そうなんだが……噂では弟も現場近くに居合わせた可能性があるという。もちろん、犯罪そのものには関与していないだろうし、実際、パクられたのは兄貴だけだったんだが……何しろ事件の内容がいただけない」


「どんな事件なんです」

「中学生の女の子が、大学生の男に山中で殺された事件があったろう?」

「あっ……」


突然、俺の脳裏に黒々とした陰惨な映像が現れた。テレビで観たのか、どこかの雑木林を空撮したらしい映像だ。鑑識と思しき人間が動き回っていて、重苦しい音楽が流れている……そんなイメージだった。


「その主犯の弟分が、ヴォーカルの兄貴だってわけだ。妹は姪からバンド名を聞いて、すぐ検索をかけたらしい。それでありとあらゆる噂をチェックしたところ、数年前のトピックが引っかかったってわけさ。そんな探偵まがいの作業をしておきながら、本人に問いただす勇気がないってところが今どきの親だなって思うんだがね」


 批判的な言葉を吐きつつ、灰皿に煙草を押し付ける大垣を見ながら、俺の意識は別の場所をさまよっていた。どこか遠く、思い出せずにいる過去から不意に声が聞こえた。


―――どうして、助けてくれなかったんですか。


とっくに麻痺したはずの感情が、胸の奥からこみあげてくるのを感じた。それは苦々しい後悔だった。これは、この気持ちはいったい、なんなのだろうか。


「おい、兄ちゃん、気分が悪そうだな。大丈夫かい」

 大垣に声をかけられ、俺ははっと我に返った。いかん、また得体のしれないフラッシュバックだ。どうしてこうもこの「事件」に俺は反応してしまうのだろう。


「そんなわけで、単にいかがわしい場所への出入りをやめさせるだけじゃなく、そのヴォーカルとの付き合いにも釘を刺すことを要求されてるってわけだ。まったく気が重いぜ」

 大垣の口調は次第に愚痴めいたものに変わりつつあった。俺は思い切って口を開いた。


「その役目……俺にやらせてもらえませんか」

「兄ちゃんが?……なんでまた、急に」

「いえ……俺もバンドをやってるんで、もしかしたら説得できるんじゃないかなと思って」  大垣がふむ、と唸った。やがて、窓の向こうからトラックが停まる音が聞こえてきた。


「ちっ、思ったより早く来たな。やれやれ、煙草一本、吸わせちゃあくれねえ」

 大垣は忌々しげに煙草をもみ消すと、立ち上がった。俺は戸口に足を向けつつ、

 ―――余計なことを口走ったかな。


と、先ほどの尻切れに終わった会話を反芻した。大垣の後に続いてペラペラのドアをくぐろうとした途端、外から怒号のような声が響いてきた。


「わざとやったんだろう!このうすのろが!」

 声の主は、三十代のベテラン従業員だった。ギャンブル好きで、いつも血走った眼をしている剣呑な男だった。


「そんなわけないじゃないですか。それに、ちょっと掠っただけでしょう。作業スペースの近くにバイクを停めるからこんなことになるんです」

 間延びした口調で弁明しているのは、先月入ったばかりの若い運転手だった。どうやら、トラックが倉庫に接近しすぎて、年嵩の方が所有するバイクを倒してしまったらしい。


「てめえ、俺に説教する気か」 

 年嵩の声が更なる怒気をはらみ始めた。何の作業をしていたのか、片手にハンマーをぶら下げている。馬鹿な真似をしなけりゃいいが、と俺は胸のうちで呟いた。


「お前ら、仕事中になに、いきり立ってんだ。喧嘩なら終業後にやってくれないか」

 大垣が二人の間に仲裁に入った。年は近いが、この中では最も勤続年数が長い。大垣の説得に、年嵩は若い従業員の胸ぐらをつかんでいた手を離した。気が付くと二人の周囲に騒ぎを聞きつけた仲間が数人、集まり始めていた。


「けっ、自分の不注意を棚に上げて被害者面かよ。今度やったら二度とハンドル握れないようにしてやるからな」

 大垣が「やめないか」とたしなめた。捨て台詞とはいえ、見過ごせない言葉だった。


「ほーら、怒られた」

 若い従業員が調子に乗って年嵩を挑発した、その時だった。年嵩のハンマーを持った手が動いた。同時に俺の身体も反応し、若い従業員を突き飛ばしていた。


「ぐっ」

 年嵩のハンマーが俺の肩を直撃し、強い衝撃を感じた。……が、痛みはほとんどなかった。

 振り返ると、ハンマーを持った年嵩が呆然と立ち尽くしていた。凶相が拭われ、憑き物が落ちたような顔に変わっていた。


「大丈夫ですか?」

 たちまち数人の従業員が俺を取り囲んだ。殴られそうになった若い従業員は、尻餅をついたまま、あっけにとられたようにこちらを見つめていた。

「たいしたことありません……それより、武器を振り回すのはフェアじゃないですよ」

 俺は年嵩の男に言った。男は毒気を抜かれ、意気消沈した様子だった。


「とにかく、急いで病院に行ってレントゲンを撮らないと」

 いつの間にかやってきていた主任が言った。携帯電話を手にしているのは、救急車でも呼ぶつもりだったからかもしれない。

「いや、大丈夫です。少し休んだらすぐ、仕事に戻れます」

「馬鹿なことを言うんじゃない。今日はもう帰っていいから、とにかく病院に行きなさい」


 俺はおとなしく従う事にした。だが、実際にはその必要はない。ハンマーで殴られたぐらいでは痛くも痒くもないのだ。なぜなら、俺は一度死んだ人間―――ゾンビだからだ。


               〈第二話に続く〉

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