藤間少将の使命

杉井流 知寄

第一章 少将のお言葉

第一話 世間話


「魔王ってご存じですか?」

 唐突な言葉に、アルフレッドは言葉を失った。

 ここは共和国軍東方司令部。

 机を挟み、目の前に座る黒髪の美女は、敵国である帝国軍の少将。東洋人に多い黒髪が艶やかで、金色にも見える薄い茶の瞳もつぶらで可愛らしく、深い緑の軍服がよく似合っている。

 名を藤間尋。階級は少将。

 それだけ美女は、短く己を紹介した。

 そして他愛ない世間話でも始める調子で、最初の話題が『魔王ってご存じですか?』。

 全くの想定外の話題に、アルフレッドの頭は真っ白になった。わざわざ訪ねて来るぐらいだから、一体何の話だろうかと、待ち構えていたのに拍子抜けだ。

 にこにこと微笑みながらとんでもない事を口にする尋は、可愛かった。

 艶やかな黒髪を一つに高く結い上げ、首を傾げる仕草をすると肩に黒髪が落ちる様子は何とも言い難い。顔立ちも幼く、柔らかな笑みはそのままふんわりと蕩けてしまいそう。

「ご存じ無いですか?」

 語りかけてくる声は心地良くアルフレッドの耳を揺らした。

 おおよそ軍人とは思えない、柔らかな微笑み美人だ。ずっと見ていたい。

「大佐殿?」

「は、あー……ええと、」 

 にこやかに問われ、アルフレッドは我に返る。

 しかしなんと切り返していいか困り、アルフレッドは何も言えなかった。まずい、言葉が何も思いつかない。

 無論魔王という単語は知っている。あれだ、この世界の支配を魔界から狙っているという、お伽話やマンガとかゲームに出てくるラスボス的な。大抵勇者様に倒される。しかしここは作戦会議室。しかも帝国軍からの休戦協定の話し合いの場。マンガやゲームが出てくる場ではない。

 黙ったままのアルフレッドを促すように、尋は続けて言った。 

「魔界の王様のことですよ、この世界を狙ってる。ご存じない?」

「はぁ……」

 ますますもって、なんとも言い難い。

 後ろに控える部下達の戸惑ったざわめきが背中越しによく分かった。アルフレッドも同じ気持ちだ。ここは真面目に「あれですよね、マンガとかによく出てくる……」と言った方がいいのか、それとも常識人ぶって「何を馬鹿な事を言っとる!」と怒鳴るべきなのか、迷う所だ。

 ああ、可愛いのに。

 内心深く息を吐きながら、しかしそんな事はおくびにも顔には出さず、アルフレッドは向こうの出方を窺った。

「どうも馴染みがないみたいですね、まあ魔王なんかあっても嫌ですけど。じゃ、そこから説明しましょう」

 黙ったままのアルフレッドに、のほほんと、ごく普通に尋は『魔王』とやらについて説明し出した。戸惑う共和国側の反応なんてお構いなしに。

「魔界という、もう一つ別の世界があるのはご存じですか? 以前はそんなに交流というか、我々の世界との繋がりは薄かったんですが、あれですよ、三百年前の大戦があったでしょう? あれがどうにもいけない。あれがきっかけで二つの世界にあった溝が少し埋まってしまったんです。おまけこの長い長い第二次世界大戦で積もりに積もった負の感情。やつらにとって、負の感情はご馳走なんですよ、すごいご馳走」

 ぺらぺらと、淀みなく尋は説明した。

 歌うように。

 アルフレッドに口を挟む隙間はない。ただ尋の説明とやらを聞いていた。

「ご馳走を前に、奴らはこちらへ来ようと必死です。こちらは豊かな世界で、あちらの世界は希薄な世界。これまで何度も、こちらへ侵攻しようと、小競り合いは起こってました。けれども、今回は特別です。復活しちゃうんですよね」

「復活、ですか」

 尋の説明が一息ついたところでようやく口を挟めば、それは間抜けな繰り返しの確認だった。

「はい、復活しちゃうんです、魔王」

「はぁ……」

 尋は気にした風もなく穏やかに肯いたが、アルフレッドはやはり生返事しか返せなかった。

 魔王。

 復活。

 なんのゲームだと聞きたい。

 しかし分かっている、そんな事とても聞けない。繰り返すがここは共和国軍東方司令部。おまけに相手は帝国軍少将様。舐めた口を聞けば後でどうなるか……いや、話の内容的に、むしろ舐められているのはこちら側か?

 アルフレッド達共和国と、尋達帝国は長きに渡って争いを繰り返していた。それが先程尋が口にした第二次世界大戦。もう五十年以上も続いており、アルフレッドにとって戦争は日常だった。

 そしてもう一つ、尋が言った世界大戦。

 三百年前の世界大戦。

 先の文明が滅び大陸の一つが沈んだ要因と言われる、まさしく大戦。残った大陸の六割もこの大戦で汚染され、現存する人の居住可能な地域は極めて少ない。

 ここ、共和国の東方司令部が置かれている中華平原も、三百年前は緑豊かな大草原が広がっていたと言われているが、現在では荒れ果てた荒野がただ続いている。汚染濃度は低いものの、作物は育たない。

 東方司令部は、東の最前線。と言えば勇ましいが、ここは辺境の荒野であり、戦略的価値はほぼない。ただ軍を置いて、領有権を主張しているに過ぎない。

 乾いた大地に、軽微な汚染。

 適度に過酷な環境であり、新兵の訓練や兵器の実験に持って来いだ。

 帝国の基地もあるにはあるが、それは遠く離れている。

「ここからが本題なのですが、休戦しませんか? この地域限定で構いません。魔王が復活するという緊急事態に人間同士でごちゃごちゃやってる場合じゃないでしょう。よろしくお願いしますよ」

「……あー……」

 アルフレッドは唸った。

 とんでもなく馬鹿げた話だが、もしそれが本当ならば確かに一大事だ。

 一大事ではあるが……。

「何を馬鹿な事を!」

 鋭く甲高い声が、微妙な空気の流れる作戦会議室を切り裂いた。

 アルフレッドの後ろに控える部下の一人、タチアナ・ホーヴァ―少尉だ。

 金髪碧眼の、まだ少女と言ってもいいようなあどけなさが残る、小柄な女性だ。

 貴族制が廃止された共和国にも、華家という貴族のような位置にある特別な階級がある。法的にはなんら一般庶民と変わらないが、彼らの社会的地位は非常に高い。

 タチアナはその名家の出で、ホーヴァ―一族は優秀な軍人を多く輩出している。

 家が代々軍人の所為か可愛い顔して彼女の気性は荒く、また華家特有のエリート意識が強い。

 そんなタチアナだったから他国とはいえ、自分の階級よりもはるかに高い階級の人間に対して全く物怖じしなかった。

「そんな魔王復活などと言う世迷い言で休戦など、馬鹿も休み休みに言え!!!」

 ああ言っちゃった。

 アルフレッドは室内の空気が急降下するのが分かった。

 軍にとって、上下関係は絶対である。

 上官が命令すればどんな無謀な命令でも従わねばならない。そこに例外はあってはならない。でなければ軍という組織は意味を成さない。国の為に誰もやりたくない事をするのが軍という組織だと、アルフレッドは叩き込まれた。

 だから、いくら敵国とはいえ、仮にも少将殿にたかが少尉の小娘がこんな暴言を吐けばただでは済まない。そもそも帝国は厳格な身分制度がある国で、きっと若くして少将である尋はやんごとなき身分に違いない。

 名誉毀損とか、侮辱罪で今から銃撃戦が始まっても、おかしく無い。

 だが、タチアナの暴言は共和国軍側の心理の的を得ていた。

「ほ、ホーヴァー少尉、」

 宥めようとしたアルフレッドだったが、宥める言葉が上手い事思いつかない。むしろその暴言は自分が吐くべきだったか? なんて反省してしまう。

 なんたって『魔王復活します。だから休戦しましょ』と、提案されたら、ふざけているのか、としか言い様がない。

 だがしかし。

 アルフレッドは唐突に別の可能性に思い当たった。

 『魔王』というのが、何かの隠語である可能性に。臆病者のチキンと言うように、亀を鈍足だと揶揄するように。

 しかし、あっけなく、アルフレッドが必死に数秒で考えた別の可能性は打ち砕かれた。

「ああ、構いませんよ。それが普通の反応ですよね」

 魔王という単語に、共和国側がなじみ無いのは想定内だったようだ。尋は笑ってタチアナの暴言を肯定した。

 ひとまずアルフレッドは安堵した。己の常識が間違っていなかった事と、隠語ではなかった事に。

 しかし、その柔らかな微笑みのままで紡がれた言葉は辛辣だった。

「でもね、馬鹿にしてるのは貴方の方ですよ。この私がわざわざ貴重な時間を費やして、馬鹿話をする為にここに来たとでも? それこそ馬鹿にしてますよねー。ね、そうは思いません?」

「っ!」

 言葉を失うタチアナ。

 それはその通りだった。

 少将と言えば指揮官クラスの軍人だ。こんな辺境に飛ばされる階級ではないし、単独で敵国の司令部にのこのこ、お土産まで持参して来るような階級の人間ではない。

「部下の非礼は詫びよう」

 アルフレッドはすぐに謝罪の言葉を口にした。

「しかし、その魔王復活などという話を突然されてもすぐに信じる事はできない。突飛な話であることは、貴方も重々承知しているのだろう?」

「確かに。でも時間がないんですよ、間が悪い事にね。ゆっくり話し合う時間はないんです。ご理解して貰いたい所なんですが、我々の望みはただ一つ、魔王復活まで我々のやる事に手を出さないで欲しいんです。それだけ。簡単な話でしょう? ここはそんなに激しい戦場ではないですし」

「それはそうだが、しかし……」

 アルフレッドは所詮、大佐である。作戦を独断で決める権限はもっていない。

 休戦の提案を受け入れるには一度本国に報告して、本国の決定を待たなくてはならない。

 だがしかし。

 ……まあ、見ない振りぐらいならできるかな。

 アルフレッドは考えた。

 尋の言うようにここは戦闘の激しい激戦区ではない。むしろ辺境だ。確約はできかねるが、そういう振りもできなくはない、と。

「ちょっと、目をつぶってくれれば良いんです。ね、簡単でしょう?」

 尋が返事を迫った時、

 

 ぐぎゃぁぁぁぉおおんっ!!


 今まで聞いた事も無いような、獣の咆吼が轟いた。

「何事だっ!」

 アルフレッドは立ち上がり、報告を求めた。

 一人の兵士が転がるように駆け込んで来る。

「ほ、報告します! ば、化け物が突如我が陣地内に進入しました! 剣や砲撃では歯が立ちません!」

「なんだと!?」

 剣が効かないとは、どういう事だろうか?

 おまけに砲撃も効かないのならば、この砦の装備では対抗するべき手段がない。

 もう一つの手段である魔術は、この砦では用意されていない。

 三百年前の大戦で失われた『機械』という技術に代わり、新たに生まれた『魔術』。超自然の力を利用する技術である。

 魔術は剣よりも銃よりもずっと強力な火力を持つが、魔術を扱える魔術士の数は少ない。おまけに一人前の魔術士を育てるには時間がかかるし、魔術の素養を持つ人間の数も多くはない。

「すぐに出る! クレスタ大尉は俺と来い」

「はっ」

 長身の赤毛の男がアルフレッドに続く。

 名をジョン・クレスタ。タチアナと違い、平民からの叩き上げ軍人である。軍学校を出たアルフレッドとも違い、まさしく一兵卒から昇り上がった人物である。

「ホーヴァ―少尉は藤間殿の護衛を」

「はっ!」

 むっと不満なのが顔に表れているが、根っからの軍人体質の彼女は任務には忠実だ。

 素直に敬礼した。

「いえ、護衛には及びません。それよりもアレは私に任せてもらえませんか?」

 しかし、当の尋がアルフレッドの申し出を断り、優雅に立ち上がった。

「は? 何をおっしゃって――」

「アレが魔物、魔界の住人ですよ。声を聞けば分かります。普通じゃないでしょ、あんな叫び声」

 尋の言葉にしん、と室内は静まり返った。アルフレッドも何も言い返せない。

 言われなくてもあの鳴き声の主がそこらにいる獣だとは誰も思っていない。剣も銃も効かないなんて、普通ではない。

 だが魔界の住人となると話は別だ。

 魔界。

 そんな世界、果たして実在するのか? 共和国ではそんな話全く聞いた事がない。マンガやゲームの中を別にして、だが。

「それは……そうだが」

 アルフレッドは躊躇う。

 魔界の住人云々よりもずっと、汚染による生物の異常進化と考えた方が納得がいく。

 大戦で汚されたのは大地だけではなかった。生物もまた然り。汚染された大地で生きた結果なのか、それとも直接汚染された生物の子孫なのか、ともかく異形の生物は存在する。辺境にはそういう生物が多い。アルフレッドだって、それなら見た事がある。剣や砲撃が効かないのは初めてだが。

「遠慮はいりませんよ。私の実力も知ってもらう良い機会ですし、ね」

「しかし……」

(そもそもですね、敵国のあなたに勝手に動かれるとまずいんです)

 戸惑うアルフレッドを全く気にかけず、尋はすぐ後ろの窓に近寄った。

「失礼しますよ」

 一言だけ断ると、尋は窓を開けた。

 景色を楽しむ為、大きめに作られた引き違い窓。開けることがほぼ無かった為か、尋が動かすと、ぎぃっと、小さく耳障りに軋んだ。

 窓枠に足をかけ、身を乗り出し、尋は言った。

「それじゃそういう事でよろしくお願いしますね。手は出さないで下さいよ」

 顔だけアルフレッドの方に向け、笑顔のままで更に付け加えた。

「邪魔なだけですから」

 そう言いたい事だけ言い捨て、尋は窓から飛び降りた。

「なっ!?」

 タチアナはその挑発的な言葉を聞き、再び激高する。

「貴様!!!」

「ホーヴァ―少尉!」

 腰の銃に手を掛けすらしたタチアナだったが、アルフレッドの声に我に返る。

「っ! ……しかしっ」

「君の気持ちは分かるが、ここは彼女の言う通りだ。まずは彼女の実力を見物させてもらおう」

「……了解いたしました」

「各部隊に連絡! 化け物の対処は藤間殿に一任するように」

「はっ」

 アルフレッドの指示を受け、ちりぢりに散っていく部下達。

 作戦室の窓の向こうは荒野がただ広がっている。その向こう側は帝国軍の領地。

 アルフレッドは窓辺に寄った。

 窓からは外の様子がよく見えた。

 鉛色の空、近いうちに雨が降るかもしれない。雨は貴重だ、こんな荒野では尚更。

 少し離れた所に、魔物の姿が見えた。門を超えた敷地内にはまだ入っていない。門の前で、挑むようにこちらを睨み付けている。待ち構えているようでもある。

 紫の、犬のような獣だ。狼だと思わずに、犬だと思ったのは、大きな鉄の首輪をしているから。大きさは、外に並んでいる戦車よりも大きい。

「さて、お言葉に甘えて、見物させてもらおうか」

「文字通り、高見の見物でありますな」

「……そうだな」

 ジョンの言葉に、何故か奇妙な脱力感を覚えながらアルフレッドは肯いた。

 窓の下では、尋は駆け寄るでもなく、のんびりと歩いて紫の犬に向かっている。その緊張感のなさにも、アルフレッドの気力は削がれた。

 まるで風刺画だ。

 猛々しく怒る巨獣に、ニヤニヤと茶化しに行く小人。

 オチは忘れてしまったが、くだらないのに決まっている。全く心に残っていないのだから。

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