記者と政治家②
「またあの事件を調査していたのか」
編集長はわたしのデスクに積まれている雑誌を一冊手に取ると、ぱらぱらとめくり、ため息を吐く。
「まあ、無理はさせないようには見ているつもりですが……」
先輩は軽く頭を下げる。
「まあ、うちの雑誌はマニア向けみたいな風潮もあるから、どんなものでもネタになるのであれば、決して無駄になることは無いだろう。だけど君が調べているそれは今となっては、味がしないガムを噛み続けていることと同義だからね。何か進展に繋がるようなものが見つかったかな」
「いえ……まだ何も」
私は歯切れ悪く答える。
「それが見つかる可能性は?」
「……」
答えることすらできなかった。
「まあ、こいつの志望動機でもあるわけですから。仕事に支障が出るようでしたら、必ず止めます。今は残業の手当ても無しでやっているので、それで勘弁してください」
「まあ、うちは構わないけどね。それよりも例の案件。しっかり頼むね。これは大ネタに化ける可能性が高いんだから」
編集長は先輩の肩をぽん、と叩き、自席へと戻っていった。最後に残した嫌味も、編集長なりの労いの言葉であることはわかっている。今のままでは確かに泥沼の中に落とされた宝石を手探りで掬うようなものだ。時間を掛ければ見つかるかもしれない。けれど、そのかもしれないに懸ける時間など職場は与えてくれない。
「さあ、今は仕事だ。今日からはお前にも手伝ってもらうぞ」
先輩は、私のジャケットを放り、外へと向かった。私もそれに続き、足早に外へ出る。
「でもわたし、先輩のでかい案件を現場で手伝うのって初めてですよね」
車内で助手席に座るわたしは、先輩から手渡された資料を読みながら、高速道路を運転する先輩に話しかけた。
「まあ、この案件はかなりでかいからな。素人のお前の手ですら欲しいってことだよ。ある程度の下調べは事前に済ませてあるから、素人記者でもへまをしなければよっぽど問題ない仕事もある。だが、お前が今まで調べてきた小ネタと一緒に考えるなよ。これはSCOOPが創刊史上、最も世間を賑わせた『切り裂きジャック連続殺人事件』と同等かそれ以上のネタに化ける案件かもしれないんだ。少しのへまが没ネタとなり、更には身の危険にも繋がる。覚悟を持って掛かってくれよ」
先輩はこちらを見向きもせず、淡々と説明をした。わたしもそれを知っていたので、運転席には目もくれず、資料の読み込みを続けた。
――切り裂きジャック連続殺人事件より大きなネタ。
この言葉は過去の事柄に対して比較をした場合に設ける使用方法だ。そしてその通り、切り裂きジャック連続殺人事件は過去の殺人事件として、特番で挙げられる程度の視聴率稼ぎでしかテレビの画面に映らなくなった。
そう、切り裂きジャックは街の住民が戦々恐々としているなか、忽然と姿を消したのだ。
それが今から十五年前の話である。そして今も尚、切り裂きジャックは捕まっていない。どこかでのうのうと、平然と、我関せずと、暮らしているに違いない。それが悔しくて仕方がなかった。
その悔しさは単なる正義感などの薄っぺらい感情論ではない。切り裂きジャックに対する深い憎悪に他ならなかった。
正直に言えば、わたしは父との触れ合いの記憶がない。なぜなら、わたしが生まれる前に父は切り裂きジャックに殺されたからだ。父はわたしがこの世に生まれた年にこの世を去った。そのため、母は父と切り盛りしていた店を一人で背負い、女手一つでわたしを育ててくれた。その母はいつの時も、父の話を聞かせてくれた。なかなか子宝に恵まれず、苦しい時を過ごしたが、父はいつでも笑顔で、優しく、鈴木という名字の如く、木々から漏れ出る太陽の温かさとどこまでも響き渡る鈴の音のような爽やかさがあった、と少女のように語る姿をわたしは毎日のように眺めていた。だからなのか、わたしは父に会ったことがないのにかかわらず、父と共に暮らしてきた感覚が不思議とある。あるのに、その実感が得られないもどかしさがこの恨みと繋がっているのだと思う。わたしが愛する母が愛した父に愛されたかった想いが溢れてくるのだ。
切り裂きジャックが姿を消した今、その想いをどこへぶつければいいのか。わたしは、そのぶつける先を求めて、このSCOOPの門を叩いた。どこの出版社でも良かったわけではない。SCOOPが最も切り裂きジャックに対して真剣に向き合っていた印象があったからだ。感覚によるものだが、SCOOPの記事を読んで、心を震わされた。それ以外の理由など、わたしには不要だった。警察ではそれこそ、自由に動ける位置まで昇格するのに時間が掛かりすぎる。記者という職業はわたしにとって転職とも言えた。
面接の時にも編集長に想いの丈をすべてぶつけた。それを知っているからこそ、ああいう小言を役職上、言うことはあっても、決して強く止めることはしない。本当にありがたかった。先輩も編集長から話は聞いているらしく、時折、当時の状況を教えてくれる。
「まあ、気の済むまでやってみればいい。仕事に支障が出なければ、の話だけどな」
先輩は口癖のように、わたしに言って聞かせた。
わたしは先輩の優しさに甘え、仕事には全力で励み、合間を縫っては、切り裂きジャックの情報を探す。
そんな生活が五年――。
一素人記者が活動できる限界にきているのかもしれない。諦める、という言葉は絶対に使わないが、マスコミも街の住民も失った興味を調べて何になるのか、自問自答を繰り返す日々が続いていた。
きっと編集長も先輩もわたしの様子を見て、気分転換に違う仕事を与えてくれたのかもしれない。先輩の言う通り、気分転換にしては些か大きい案件だ。リフレッシュができるかは疑問だが、一度切り裂きジャックから意識を外すことで見えることもあるかもしれない。そう言い聞かせることにした。
五年間、雑誌の一面に大きく飾れるほどの記事をメインで書いたことは無く、細々とした記事しか書いたことのないわたしにとって、これはこれでいい経験になることは間違いない。わたしは、ふん、と鼻を鳴らし、資料を読み続ける。
「今回のターゲットは政治家なんですよね」
「ああ、かなりの大物政治家だ」
「うちにしては珍しいターゲットじゃないですか」
SCOOPの専門は猟奇殺人であり、政治家のスキャンダルはカテゴリーエラーではないか。
「まあな。まだ雲をつかむような状態だから、完全にクロとは言えない。今回はその糸口を掴む地道な作業だ」
「さっき下調べは大方片付いたって……」
「それはターゲットの動きのことだ。そしてこれからが本番だ。一素人のお前が一人前の記者になるための卒業試験だと思ってくれればいい。ターゲットの足取り相手に近づく必要があるため、バレたら終わりだが、今回は遠めの観察も仕事に入っている。どちらになるかは上が決めるが、そういった仕事をやってもらうから、頑張れよ」
先輩はアクセルを離し、スピードを緩める。
「そうこうしているうちにもうすぐ着くぞ」
車は『東京』と書かれた看板を潜り、インターを降りる。
「もうすぐ現官房長官――源田智和の住むタワーマンションだ」
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