舎弟と兄貴②
扉を開けると、そこには汗だくの男が息を切らして、今にも倒れそうなほどにふらついていた。
俺はその男が一目で美濃洋介であることはわかった。そして、彼が俺の元を訪ねた理由も想像はつく。
「待っていたって……どういうことですか」
美濃は俺の発言の真意が分からず、辺りをきょろきょろと見回し、様子を探っている。
だらしなく伸びた金髪は汗のせいなのか、心を表しているのか、俺にはくすんで見える。身に纏う黒いTシャツは、首元が伸び切ってしまい、餌を待つ鯉のような開け方をしている。ジーンズは元々濃紺だったのだろうが、磨り減りが酷く、淡い水色に変色し、ところどころ破れて解れているのを見ると、何日も逃げ回っていたことが、容易に想像できた。背中に背負ったリュックサックは最低限のライフラインだろうか。
無精髭が伸びてはいるが、正しく顔を整えることが出来れば、決して不細工では無い。むしろ端正な顔付きと言っても差し支えないだろう。年齢の判別は難しいが、隣人として、彼の生活音を隣で聞かされていた身としては、恐らく二十代前半の大学生であると見ている。
「まあ、来ることは大方予想できたんでね」
「……え? 来ることが?」
「お宅のところに先日来客があってね。橘って言ったかな」
あの男の名前が出た瞬間、美濃はびくっと体を強張らせた。
「その人はすんなり帰りましたか」
「まあ結構怒っている感じでしたけど。俺のところにもやってきましたし」
「そうだったんですか」
美濃は顎に手をやり、考え込む仕草をした。
「あいつらがここで何を喋っていたのか確認したかったんですよね」
「……え?」
美濃の顔に動揺が見て取れる。
「あいつらがどこまで真剣に俺を追っているのか、知りたかったんじゃないですか」
「……すいません」
観念した美濃は頭を深々と下げた。
「恐らくこの前も遠くから眺めていたんじゃないですか。タイミングが良すぎるし、やたらと辺りを気にしているのは周辺にまだいるか気にしているのと、扉を気にしているんでしょう。じゃなきゃすんなり帰りましたか? なんて質問出ませんよ。分かってる人の聞き方です」
「そこまで見透かされていましたか」
「全部話してもらいますよ。扉も壊されたんだ。それくらいのことはしてもらわないと」
別に美濃の助けになろうとは思っていない。ただ俺の小遣い稼ぎにはちょうどいい案件だと思っただけだ。
美濃はぽつぼつと身の上話を語り始めた。
自分から聞いておいてなんだが、他人の身の上話など、全校集会で語る校長の話と同じくらいつまらない。俺が聞きたいのは、結局のところ俺の力が必要が否か、だ。
要約すれば、美濃は危ない業者と繋がっている橘から覚醒剤など日本では禁止されている麻薬を買っていた。しかし、聞けば美濃の年齢はまだ二十歳。使えば金は消えていく。当然の摂理に気付くには、年齢というより知性が幼すぎた。気付けば貯金が底をつき、金に困ったところを橘たちが見逃すはずもない。それから美濃たちは買う側から売る側に変わった。今では橘との仲介役を担い、売買をするところまで落ちぶれていったらしい。
この先の深い闇を知った美濃は同じ仕事をしていた工藤という男と一緒に逃げることにした。
しかし、もう後戻りをするには沼地に足を踏み入れすぎていた。戻ることは叶わない。足が搦めとられ、もがけばもがくほど、沈んでいく。
美濃の自宅を見に行ったのは本当に偶然だった。早く遠くへ逃げる必要があったのに、気付けば自宅付近を徘徊していた。帰省本能というより、自分の行動範囲の狭さが生んだ結果かもしれない。そして橘と一人の男が自宅を襲い、隣の自宅まで押しかけているのを目の当たりにした。
そこで美濃は、賭けに出た。隣の部屋の住人が橘とどのような会話をしていたか、確認がとれれば、もしかしたら裏をかけるかもしれない。そんな確証も意味ない浅はかな考えで、美濃はまだ橘が潜んでいるかもしれない自宅に足を踏み入れた。
「……なるほど、わかりました」
俺は欠伸を一つして、美濃に右手を差し出す。
「美濃さん、今いくら払えます?」
俺の唐突な質問に美濃はぽかんと口を開けたまま呆けている。
「金額の話ですよ。お金」
おーかーねー、と一文字ずつゆっくり発音し、ついでに「Repeat after me?」と発音を促す。美濃はわかりますよ、それくらい、と口を尖らせる。
「どうせ売買で蓄え、隠し持っているお金がたんまりとあるんでしょう。じゃなきゃあ、逃げるなんて行為に意味は全くありませんもんね。逃げ切れる力はないが、逃げ切れるだけの金はある。よれよれのシャツもぼろぼろのデニムも、よく見ればなかなかのブランド品だ。腕時計もウン十万でも手が届かない代物でしょう。そんなものが一バイトの小遣い稼ぎで、稼げると信じろというのが無理な話でしょう。美濃さんは知性は欠片も無いが、決して馬鹿じゃない。絶対負けるとゲームに気付かずに参加はするけど、負けるつもりはさらさら無い。そういう人だと僕は思うんですけど。まあ嘘はついてもバレるんだから、概算で構いませんが、ある程度正確にお願いしますね」
彼の性格については半ば適当だった。彼が本当に知性の欠片も無く、馬鹿であるなら仕方がない。ここで彼との縁は切れる。ただそれだけの話だった。
「わかりました」
美濃は何を悟ったのか、持っていたリュックサックから通帳を取り出し、金額を俺に突きつけた。
俺が予想していた金額よりも二割増といったところか。
「上等です。それでは美濃さん、逃げ切れるだけの金があることはわかりました。あと、あなたに足りないのは逃げ切れるだけの力です」
「逃げ切れるだけの力……」
美濃は無意味に手を握って開いてを繰り返す。
「そうです。その逃げ切れるだけの力を俺が貸しましょう」
「あなたは一体……」
値踏みするように俺を見つめる美濃に対し、俺は小さい声で呟くように告げた。
「――俺は、単なる人殺しです」
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