四章【舎弟と兄貴】In 2001

舎弟と兄貴①

 死ぬことに恐怖はない。恐怖があるとするならば、それは何も守れずに命だけ落とすことだろう。抱えている全てのものが俺の手から砂のように隙間を縫って零れていく。それだけはしないと心に決めていた。


 腕っ節だけは一丁前で、気に入らないことがあれば、全て力で解決していた俺は、手を出してはいけないアンタッチャブルな部分にまで手を出してしまった。いわゆるパンドラの匣のようなものだ。開けてはならぬ。触れてもならぬ。それには必ず理由があるにも関わらず、俺は単なる好奇心だけで、それに触れた。結果は火を見るより明らかである。俺はその時、浦島太郎の童話を思い出した。開けてはいけないと言って渡された玉手箱を浦島太郎が開けてしまったように、俺は触れるなり後悔したからだ。あの時の教訓はここで活かすべきだったのか、と柄にもなく悠長なことを考えていたが、現実逃避にもならず、事態はまるで好転する気配はなかった。

 俺は窓一つない壁から床、天井までもコンクリートで覆われた部屋の中央で鉄製で無骨な椅子に座らされ、フェンスの上部に侵入禁止などで用いられる二本の有刺鉄線で胴体と両腕、そして両足が縛られていた。

 ここがどこなのか、全く見当もつかない。気付いたときには、視覚が遮断され、体を何か布のようなもので巻きつけられ、車に連れ込まれ、運ばれた。工場の生産ラインのようなスムーズさがあった。手慣れた手付きで、それだけを何度も繰り返しやっていることがわかる。そんなやり口だった。運ばれている最中は、腹を中心に殴る蹴るの暴行を受けた。ううっと呻き声をだすと、うるさい、と怒鳴られた。そしてまた殴られる。声は男だったはずだが、意識は朦朧としており、定かではない。ただ、目が見えない以上、腹筋の入れ具合が分からず、腹筋の緊張が解ける隙を突かれては殴られるので、呻き声はどうしても我慢できなかった。すると、今度は口の中に何かを押し込まれた。綿のようなもので、喋りづらく、涎が綿に吸い込まれ、次第に息苦しくなった。しかし、おかげで殴られても呻き声は出なくなった。

 なぜこんなことになったのか。薄れ行く意識の中でそこから記憶を辿ることにしよう。

 あれは一ヶ月ほど前のことだ。やることもなく、どこを行く宛もないので、部屋でうたた寝を決め込んでいると、どん、と爆発音に近い音が部屋に飛び込んだ。

 その理不尽な挨拶の仕方に怒りを覚えたが、とりあえず俺の知り合いにこれほど不躾な輩はいない。それなら応対する義理もこちらにはないわけなので、俺はもう一度、目を閉じた。

 扉を叩くリズムをBGMに一眠りをすることも悪くない。そう思いながら、睡魔に身を委ねようとした時、とうとう蓄積された疲労が限界に達した扉が弓のようにしなり、俺の部屋の中に倒れ込んだ。

「……いるじゃねえか」

 ゆっくりと扉がなくなり開放的となった入り口から顔を出した剃髪の男が、俺を見つけるなり、低い声で呟いた。

 サングラスをかけており、男の表情は窺い知れない。適度に剃られた髭との相性は似合っていることこの上ない。柄物のシャツに身を包み、スラックスに巻かれたベルトはバックル部分が拳大もあった。ヤクザの印象を街なかでアンケートをとり、人物像を描けばおそらくこの顔が出来上がる。言うなればテンプレートというやつだ。

「いますけど、何か用ですか」

「用があるから来たに決まってんだろ。そんなこともわからねえのか」

「用があってくるなら、それなりの礼儀ってもんもあるだろう。そんなこともわからねえのか」

「なんだと」

 一触即発の空気が漂うが、俺も折れる気はない。何も非が無いのであれば、こちらが怯む必要は無いのだ。

「橘さん、今はそんなことよりもあいつを探さないと」

 後ろから声がしたかと思えば、男――橘の舎弟と思わしき小柄な男が宥めている。

 橘はそうだな、と呟き、嘆息を吐いた。

「……お前、美濃洋介という男の居場所を知っているなら教えろ」

「……美濃洋介?」

「しらばっくれんじゃねえぞ」

 橘は、凄みを利かせて俺に話しかける。

「お前がここで嘘をついても、俺たちはどんな手を使ってでもあいつを見つけ出す。その時、お前の嘘も明るみに出れば、ただじゃおかねえってことを肝に銘じろ」

「……銘じたとしても知らないのは知らない」

「お前は隣人とコミュニケーションの一つや二つ取らないのか。悲しい人生だなあ」

 蔑むような目でこちらを見下すのを尻目に俺は微かな記憶を手繰り寄せた。

 このアパートの隣の部屋には絵に書いたような世間知らずの若造が住んでいた。いつも夜中までどんちゃん騒ぎを繰り返し、俺以外の隣人から多くのクレームが入っていて、よく口論になっていたのを記憶している。直接的なコミュニケーションは無いが、薄い壁のため、声はもちろん酒の匂いなどが混じった悪臭が漂うことも少なくなかった。あの臭いは恐らく何かの薬物だろう。

 そうか、あいつが美濃洋介だったのか――。俺はようやく合点がいった。

 確かに最近はめっきり音がしなくなり、臭いも消えていたので、不思議には思っていたのだ。

「あいつが美濃洋介だったのか……」

 そう呟いた瞬間、橘が俺の腹に蹴りを入れた。不意打ちを喰らった俺は壁まで転がっていく。

「……やっぱ知ってるんじゃねえか」

「居場所のことじゃねえよ。隣に住んでる男が美濃洋介という名前だということも知ったのは今だ」

 激痛が走る腹を押さえながら、俺はそう吐き捨てた。

「ふん、まあいい。あいつをどこに匿おうがこっちはすぐに見つけるがな」

 よほど俺の態度が気に喰わないのだろう。どうしても橘は俺を共犯に仕立て上げたいらしい。俺もヤクザ相手によくこんな口の聞き方をしているなあ、と感心するが、所詮ガサ入れするような輩はその組織の中でも恐らく下っ端だ。こいつらがどれだけ腹を立てたところで上層部に吸い上がることはないだろう。それよりもドアを壊されたのだ。怒るのも無理はない。

「わかったらさっさと帰ってくれ」

「ふん、どうせ隣の部屋が美濃洋介の部屋であることには変わりねえんだ。また顔出してやるよ」

「余計なことをせずに仕事に集中したほうがいいんじゃないのか。後ろの子分の方がよっぽど職務を全うしてるぜ」

「……何だと」

「悪い悪い。これ以上はお互い腹を立てる発言が続くのは目に見えているから辞めておこう。俺もヤクザ相手に一人で立ち向かおうとは思わない。今回はドアを蹴破られて虫の居所が悪かったんだ。許してくれ」

 俺は頭を下げた。無意味な論争を続けるよりも、早くドアを直したかった。このままにしておけば、蹴破られる心配こそ無いものの、自生活をオープンにするほど、社交的な人間ではない。

 橘は俺の謝罪にようやく溜飲を下げたのか、ふん、と鼻を鳴らして、子分と一緒に部屋を後にした。

 ようやく静かになった。俺は早速電話をかける。

「もしもし、大家さんですか? ちょっとドアが……」

 電話の向こうからは怪訝な声しか聞こえてこない。

 橘たちが帰った二日後、また俺の扉をノックする音が部屋に響いた。あの時破壊された扉の弁償代は高く付き、今月の出費はかなり厳しい。おかげで、ノックに対して機敏に反応するようになってしまった。それもこれもあの男のせいだ。

 此度の間隔の速いノックは、当人の焦りを意味しているのか忙しない。

 最初はこの前のヤクザを想像したが、あの男のことだ。今度はノックもせずに蹴破ってくるに違いない。俺はスコープから外を覗き、ノックの主を確認すると扉を開けた。

「待ってましたよ――美濃洋介さん」

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