患者と医者⑤
現場に向かい、患者の様態を確認する。二十代とおぼしき男性が手術台の上に横たわっていた。私は男性を見てぎくりとした。肩口から腹部にかけて鋭利な刃物で斬りつけられてできた裂傷は、医者の私から見ても痛々しい。深い傷ではあるが、幸いなことにまだ微かに息が残っている。しかし、その絶え絶えな呼吸も傷から溢れる血液の量を考慮すれば、時間もまた僅かにしか残されていないだろう。
私は気持ちを切り替え、治療に集中する。切り裂きジャックの事件が未だに未解決事件であり続けるのは、被害者が完全に息を引き取ってから見つかっていることもあるのだろう。ここで治療が成功し、彼が息を吹き返せば、切り裂きジャック連続殺人事件解決の糸口に繋がるかもしれない。そうすれば、この平凡で当たり障りの無い県に戻るのではないか、とも考えた。もちろん切り裂きジャック以外にも凄惨な事件はこの地方でも起きているが、それに比類しない規模となったこの事件は、悲しいかな目立たないこの県を最悪の格好でPRする形となってしまった。岐阜で生まれ、岐阜で育ち、岐阜で働く身としては、地元としての愛着は否応にある。故郷と呼ぶべき場所が殺人事件の街と世間から冷たい視線を浴びているのは、居心地の悪さがあった。若い頃なら思わなかったことを感じるこの感性も、年月を重ねた結果だろうか、と苦笑する他無いが、こんなことを羽田さんに悟られれば、水面に広がる波紋のごとく、病院中に知れわたることとなるだろう。私は気を引き締め、何としてもこの患者を助けたい、そう決意した。
しかし、決意で人の命が救えるなら、この世の死因は全て老衰になることだろう。誰しも不意に訪れた不幸はどうにかして振り払いたいのは、至極当然の思考である。そしてそのために私たち、医者がいる。しかし、それでも限界はあるものだ。今回の治療もその一例たるものだった。三時間もの長い治療の甲斐もなく、男性は息を引き取った。運ばれてきたときの現状を見れば、こうなることの方が確率は高かったのだが、やはり救う立場となるとそれなりに堪える。
手術室を出て、近くのソファにどかっと音を立てて座った。看護師がこちらの顔色を窺いながら、先程の被害者の情報を教えてくれた。その情報を聴いた私は止めどない後悔と悔恨が入り交じった複雑な感情が心の中に拡がっていく。
「患者のご家族に連絡してくれるか」
「わかりました。村田さんは休まれますか?」
疲れた私の顔を察してか、心配そうな声を上げる。
「私も一人連絡しないといけない人がいるから」
「一人……?」
看護師は訝しげな目を私に向けた。
「この患者の死を伝えなきゃいけない人が家族以外に一人だけ、ね」
疲れた笑いを看護師へ向け、その場を後にした私は、とある場所へと向かった。
私が向かった場所は、市内のはずれにある木造二階建てのアパートだった。
門の前に立ち、アパートを見上げると、アパートは老朽化が進み、塗装色は剥げ落ちている。通路の天井に設置された電灯はところどころ消えており、点いているものも申し訳程度の光度だった。アパートの入り口に立てられている街灯がぼんやりと吹きすさぶ風の音が聞こえてきそうな風貌で晒されている。
調べた住所からすればここで間違ってはいない。入り口を潜り、ポストで名前を確認する。二階の角部屋が目的の部屋だった。階段を上がると、ぎしぎしと音を立てて、踏板が少し沈むようにしなる。そんな道のりを経て辿り着いた玄関のチャイムを鳴らした。壁が薄く、チャイムの音が部屋から漏れでている。
「……なんだ?」
玄関の扉を開けた美濃さんは、私の顔を見るなり、ぶっきらぼうな言葉を発した。
「夜分にすいません。少しお話がしたくて」
頭を下げ、謝る。玄関にはぼろぼろのスニーカーや何年も履いていないことがありありとわかる革靴が散乱していた。
頭を上げた私は深呼吸を一つして、気持ちを落ち着かせる。
「この前はいろいろとご無礼をすいませんでした」
「別に儂は無礼だなんて思っとらん。それが言いたいだけなら、気にしとらんからとっとと帰ってくれ」
「……今日、一人の男性が救急で運ばれてきました」
「……は?」
突拍子もないことを話し始めた私に、美濃さんは呆けた表情を浮かべた。無理もない話だ、と半ば同情しながらも私は話を続けた。
「その患者は肩口から腹にかけて、刀傷のような切創痕がありました。――そうです。切り裂きジャックの被害者です。切り裂きジャックの被害者は基本的に息絶えて見つかるケースばかりで、今回命を繋ぐことができれば、もしかしたら解決の糸口になるかもしれないと、そう思っていたのですが、結果としては救うことが出来ませんでした。原因は幾つかありますが、大きく二つ。一つは出血の量が多すぎたこと。この病院に運び込まれた時点で、肉体の損傷が酷すぎて、対応が間に合いませんでした。もう一つは、私のメンタルによるものです。緊張の類いですね。しかし、それは切り裂きジャックの被害者だから、というものではありません。それ以外で、それ以上のものが私の心に巣を作り、根を張ってしまったのです」
「それ以上のもの?」
「私は彼を見たとき、思わず、ぎくりとしました。文字通り心臓が飛び出そうになりました。なぜなら、私はその被害者の人となりを知っていたからです」
美濃さんは黙って聞いていた。目を瞑り、時折うんうん、と頷くなどをして、反応を示していたが、心情までは読み取れない。
「私には息子がいまして、五年前に自殺で他界しています。そしてそれは虐めが原因でした。親の私が、息子が自殺するまで追い込まれていたことに気づけなかったことは恥ずかしい限りですが、それ以上に犯人――虐めの首謀者が許せなかった。本当に殺してやりたいと思った。結局当時は思い止まりました。決して億劫になったからではありません。殺せば、息子のもとへその犯人が連れていかれるわけです。会いたくても会えない私たち家族を差し置いて、何故そいつを息子のもとへ送ってやらねばならぬのだ。そう思ったわけです。だから殺しませんでした。医者として出来うる全てを使って生きさせようと思ったわけです。息子のもとに行くのは私たち家族が最初であるべきだと」
気付けば私は泣いていた。大粒の涙を流し、体がわなわなと震えている。
「しかし、その願いも今日叶わなくなりました。結局どこまでいっても私たちは苦しめられる運命にあるようです」
私は自虐的に笑ってみせた。しかし、美濃さんは眉一つ動かさなかった。
「今回の切り裂きジャックの被害者が、彼だったんです。美濃洋介――あなたの息子さんがね」
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