患者と医者④

 あれから美濃さんは宣言通り、治療のために病院を訪れることは無かった。患者の意思で病院へ来ない以上、医者の私は何も手出しをすることはできない。私も気に留めないように努め、業務に励んだ。正直に言えば、来てくれなくてほっとした自分もいた。事実を知った今、彼にどう接していいかわからなかったからだ。

「そういえば」

 患者の波も落ち着き、一息ついていたところ、羽田さんが私に話しかけてきた。目尻に皺を寄せ、口元は笑いを噛み殺しているのがありありとわかる。こういう時は何か新しい噂を入手した時だ。

「村田さん、知ってます?」

「君がどんな噂を仕入れてきたのかは、私には興味がないんだけど」

「そんなこと言わないでくださいよ」

 両手をぶんぶんと振り回す姿は、三十路を越えた女性がする仕草ではないな、とげんなりする。しかし、どこか憎めないのが不思議だった。

「私の一個下に田宮さんっているじゃないですか」

 私は彼女の年齢を知らない。十年以上働いていることは知っていても詳細までは興味の範疇にも入らない。その自分基準はどうにかならないのか、と言いたいところを胸のうちでぐっと堪えながら、「ああ、田宮さんね」と相槌を打つ。

 田宮さんも羽田さんと同じベテランの領域に入る看護師の一人だ。羽田さんのようにゴシップ好きの明るい性格ではなく、どちらかといえば物静かで、こつこつと仕事をこなす、匠に近い印象を私は持っていた。

「で、その田宮さんがどうかしたの?」

「あの人のお兄さんが失踪したらしいんですって」

「……失踪?」

 日常会話ではなかなかお目にかかれない単語が飛び込んだ。そんな物騒な話、こんな休憩のひとときにしてもいいのか、と思わず周囲を見渡す。どこかで誰かが聞いていないか、と臆病になる。

「失踪とは穏やかじゃないねえ」

「そうなんですよ。田宮さんのお兄さん、自動車メーカーの開発部門にいたらしいんですけど、急に連絡がとれなくなったみたいで」

「それ、どこから聞いたの?」

 素直な質問を投げる。

「そりゃあ、田宮さんから聞きましたよ」

 私、こう見えても相談とかされたりして、意外と頼られるんです、と付け加えた。

「田宮さんは、羽田さんに相談した時、忠告めいたものを何か言ってなかったかな」

「誰にも言わないでね、っていうのが忠告にあたるのであれば、それは言ってました」

 はあ、と深いため息が漏れる。

「だとしたら何で言っちゃうのかね」

「人間だもの」

 そういう答えを望んでないんだけど、と心の中でぼやいてみせたが、「あ、そういう答えを望んでないんだけど、みたいな顔してる」と羽田さんが言ったときは驚いた。

「でも、失踪なんて物騒な事件が身近にあったもんだねえ」

「まあ今は切り裂きジャック連続殺人事件で世間を賑わせてますからねえ。もしかしたら田宮さんのお兄さんもその被害者かもしれませんよ」

「君が言うと本当になるから、あんまり冗談でも言わないでくれよ」

 私は真剣にお願いをした。羽田さんは何のことか理解が及んでおらず、言葉の理解が乏しい幼児のようにきょとんとした表情をしてみせた。

 羽田さんが何の想いもなく、ふとした拍子に飛び出す発言は何故かすぐに現実となって現れる。これが漫画やドラマの世界だったら一つの物語が作れそうなくらいにほぼ確実に、だ。三年ほど前に、病院の改装工事中に、羽田さんは「壊した壁から骨とか出てきたら病院だけにホラーですよね」と不謹慎極まりない発言をして、こっぴどく怒られたのだが、実際に掘り起こした土の中から骨が出てきたときは全員の度肝を抜いた。それはただの動物の骨だったわけだが、もし羽田さんが「人骨」と表現していたら、と思うと今でもぞっとする。それ以外にも、まだ精密検査をしないといけない患者の病名を言い当てたり、明るく振る舞っていた患者の精神状態を見抜いたのか、病院内での自殺を食い止めたりと、武勇伝というべきか、疫病神というべきか悩ましい伝説を持っている彼女の発言は常に慎重に聞かないといけない。

「でも、切り裂きジャックの事件に失踪なんてあったかな」

 さすがに地元で起きている事件のため、私もそれなりに知識は持っていた。医者という仕事柄、テレビや新聞くらいしかすることのない高齢の患者からこの手の話を聞かされることもしばしばある。

「まあそうなんですけどね」

 羽田さんはまだ納得はしていないようでぶつくさと独り言をぼやいている。

「さあ、もうすぐまた忙しくなる時間だから持ち場に戻ろう」

 私は壁に掛けてある時計を見ながら手をぱん、と叩いた。

 羽田さんも渋々ながら、はあい、と返事をする。

「あ、でも」

 部屋を出る直前、羽田さんは扉に掛けた手を止め、私の方へ振り返った。

「まだこの病院ではありませんけど、もしかしたら切りつけられた切り裂きジャックの被害者が、この病院に運ばれる日も近いかもしれませんね」

「だから、そういうことは……」

 私は嗜めようと声のトーンを落としたが、もう彼女の姿は無い。はあ、と深いため息を吐く。本日何回目のため息だろうか、このまま体の空気がため息によって全てはきだされてしまわないか、とさえ思えてくる。

 彼女の言葉を思い出す。

 そういうことをあなたが言うと現実になるんだよ。

 嫌味を吐こうとするが、彼女はもう部屋を出ており、代わりに救急の連絡が届いた。内容を聞いて、うんざりとした気持ちになる。

 私は身支度を整え、羽田さんが出ていった方向を睨む。

 舌打ちのひとつでもしたくなるが、やはり漏れでるのは深いため息だった。

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