衛星三部作
ケー/恵陽
衛星軌道上の彼
話したいこともいっぱいあったのに。
――シュウならもういないよ。火星に行ったらしい。
突然私の目の前から姿を消した修二郎。
――先週、タイタンに行くかもってぼやいてたけど。何も聞いていないのか。
どうして私の前から消えたのか。皆の前から消えたのか。
――そんなに走ってもトリトンじゃあ、追いつけないと思うよ。
私はまだ、答えももらっていないのに。
久米修二郎は転星生だった。
隣の席になった私とシュウはすぐに仲良くなった。物腰柔らかなシュウは他の皆と打ち解けるのも早かった。他の星の話を地球から出たことのない私達に面白可笑しく話してくれた。
「ミン、どうして此処にいるんだ」
「リヨン!」
学校の階段を最上階から駆け下りていた。リヨンが私を見咎めて驚いた顔をする。
「シュウが昨日いなくなる前に、ミンに会うって言ってたんだ。てっきり一緒に行くものだと思ってた。会ってないのか」
私の方こそその言葉に目を瞠る。
「リヨン、シュウに会ったの? 何処で会ったの? どうしてシュウは急にいなくなっちゃったの? 教えてよ!」
リヨンの腕を掴んで揺すると、彼は私の手の上に手を重ねた。まるで暴れる子どもを落ち着かせるような仕草だった。
「昨日の夕方、学校から帰る途中で会ったんだ」
リヨンが私の向こうに視線を動かした。
「あの大きな橋があるだろう。ステーションに繋がるあの橋の真ん中に立ってたんだ。僕は親父に用があって偶々通りかかったんだ。そこでシュウは夕陽を眺めてた」
リヨンが私の手をゆっくりと腕から外していく。
「ステーションに……」
「でも中に入ったのは見てない。僕がステーションから出た時にはもういなかったから」
私の顔を見て、安心させるようにリヨンは微笑した。
「ミン。シュウは言ってたよ。ありがとう、ミンが居てくれたから自分は久米修二郎でいられたって。言っていたよ」
「それ、どういう意味よ」
「ミンはシュウをどれだけ知っているのかな」
リヨンが僅かに眉を顰めた。暫く私とリヨンは見つめ合っていた。何も知らない人から見れば恋人にでも見えたかもしれない。
「場所を変えよう。シュウの秘密の場所をミンは知っている? 行った事ある?」
私の手をとって、リヨンが階段を降りる。思えばシュウのことを私はほとんど何も知らなかった。もしかしたら私の知らない所ではリヨンの方が親しかったのだろうか。
シュウは転星生だった。何処からの?
シュウは転星生だった。どうして地球に?
シュウは転星生だった。何故一人だったの?
「シュウの秘密の場所、行った事ないだろう。其処に行けばシュウがわかるよ、ミン」
「秘密の場所って、もしかして第二棟の突き出しのこと?」
第二校舎の棟の三階の窓から突き出した二階校舎の上に出ることが出来ると、シュウが以前話していた。行った事はない。けれど陽気な空の下でまどろむと最高に気持ちがいいと話していた。
「リヨン、シュウと仲良かったんだね」
シュウがお気に入りの場所を知っているのは私だけだと思っていた。
「馬鹿言わないでくれ」
振り返って心外そうに声を荒げたリヨンの顔は、心底不快そうだった。
「僕はシュウと親しくなんかない。寧ろあまり好きじゃなかったんだから」
一度降りた校舎を別の場所にある階段からまた上る。
「嫌い、だったの?」
親しくないと言ったリヨンの言葉に驚いた。だってシュウは誰にとってもやさしくて、柔らかくて、好かれていると思っていた。
「……どちらかと言えばね。秘密の場所を僕が知っているのは、そこは僕の秘密の場所でもあったからだ。シュウは何故か時々来て、僕が聞いてもいないのにぽつりぽつりと呟いていくんだ。初めは何のことかわからなかった」
三階の廊下を南に向かって私とリヨンは進んだ。引っ張られて私はやや小走りだ。
「ここだよ」
件の窓に辿りつくと、リヨンが軽々と乗り越える。思わず身を乗り出して下を覗こうとすると顔の横にリヨンの顔があった。
「此処、結構高いんだよ。ほら、手を貸して」
私の手を取って、窓の外へと導く。足が着くことを確認すると私は顔を上げた。リヨンが空を指差した。
「ひろい……」
青い空は広かった。窓から見た四角の空じゃない。全面に広がる空。
「僕が最初に見つけたんだよ。シュウは僕の後を追って知ったらしい。シュウは、クレシダから来たんだ」
「クレシダ?」
聞いたことのない名前に私は首を傾げた。
「天王星の衛星の一つだよ。まだあまり知られていない。僕も詳しくは知らない。だけどクレシダにはもう人は誰もいないらしい。地球の人間がコロニーでしか住めなくなったように、クレシダも人の住めない星になった」
クレシダ、なんて聞いたことがない。ウンブリエルやオベロンなら知っているけれど。
「シュウが生まれた時すでにクレシダは汚染がひどくて、ほんの幼い頃にしか居た記憶がないって言ってた。地球に来たのは人を捜しに来たんだって言っていたよ」
リヨンが地面に座り込み、私もその傍に蹲った。
「シュウの名前、知ってる?」
空に視線を置いたままリヨンが訊ねたのから、私も空を見ながら答えた。
「久米修二郎、だよね」
「うん。そう名乗ってたけど、違うらしい」
「ち、違う?」
私の空への視線は数秒しか持たなかった。
「名前は持ってないってさ。言っておくけど、シュウが言ったんだよ。久米修二郎はシュウを育ててくれた人の名前なんだって。シュウはその人を捜して色々な星を巡ってる」
「ちょっと待ってよ。シュウの名前は? 本当の名前は?」
私の当然の質問にリヨンは首を振る。
「だから持ってないんだって。持ってても憶えてないんだって。だから捜し人の名前を名乗っていた。ミン、彼がこの場所を気に入っていたのは理由があったんだ」
リヨンはまだ空を眺めていて、私は渋々ともう一度空に目を向けた。遠くにステーションが見えた。宇宙を飛ぶ舟が空に向かってその頭を向けていた。
「ステーションにくる舟が見える」
一隻の舟が空から降りてくる。
「シュウはその人の舟が来ないか見ていたんだ。ミンがやさしくしてくれたから、嬉しかったって僕に言ったよ。もしも最期に会えたら一緒に連れて行くって。だからてっきり……」
「そんな。私は何も聞いてなかった。何も言ってくれなかった」
シュウと昨日話した時、何も変わるところなんてなかった。
「ミン」
リヨンの目が漸く動いた。私に目を合わせ、足元に複雑な表情で動かした。
「シュウは此処に居た。ずっと待ってた」
ミン、ありがとう
「多分、昨日中。そして今朝行ったんだ」
俺を好きになってくれて、ありがとう
「僕が会ったのはその前なんだろうね」
俺を久米修二郎にしてくれて、ありがとう
「シュウはコーディリアに行ったよ」
今度会う時は、俺としてミンに会いたい
「もう一回天王星付近を捜すんだってさ」
ありがとう さようなら
「ミン……泣いてる?」
足元に書かれた言葉を、シュウはどんな気持ちで書いたのかな。私が一度でも此処に来れば変わっていたのかな。どうして直接会って、話してくれなかったのかな。そうしたら私はシュウに付いて行ったのに。
リヨンの指が躊躇いがちに私の涙を拭う。困ったようにリヨンの瞳が揺れていた。
「シュウが僕にだけ話したのは、きっとミンのことがあったからだよ」
ぼたぼたと落ちる涙を止められない。そんな私の顔をリヨンが空に向ける。青い空の向こうには舟が飛んでいるのが見えた。
「ミン。シュウはこうも言ってた。幸せにしてあげてくれ、って」
リヨンの顔が近付いて、私の涙を舐めた。
「リ、ヨン?」
「ごめん。シュウが直接言わなかったのは、僕がミンを好きだったからだ。でも、シュウのことわかるだろう」
リヨンの心臓の音が聴こえる。私はリヨンの腕の中にすっぽり収まっていた。
シュウの遺した言葉は私への好意に溢れていた。何も知らない私をシュウは待っていてくれた。何も気付けなかった私にシュウは、やさしかった。
「シュウに、答えをもらってなかったの」
「答え?」
私を抱きすくめたまま、リヨンが訊ねた。
「私、振られたんだ」
涙はまだ涸れない。
空は広く、青く。
涙の色をしていた。
シュウは、もういない。
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