穏やかな庭園その1

 ―――翌日、昼。エウレシア領、王都アンバルシア中央区、王宮内庭園


 当然の事ではあるが、王宮内の庭園は一流の庭師達によって管理されている。近づいて木々や草木の一枚一片を覗き込めば、虫に喰われた形跡の1つなく、青々とした美しさを保つ為の手入れが行き届いている事を、知れるだろう。


 しかし、遠く離れてから眺めてみれば、まるで10数年も以前からそのままの姿でそこにあったかのような自然が演出されているのである。その管理は、まさに一流職人達の技術の結晶といえた。


 少しでもガーデニングに興味のあるものが、一度ひとたびこの庭園に立ち入れば、時間を忘れて整然と自然が内包されたこの景色を、目に焼き付けようとする筈だ。


 しかも、この庭園はそれだけに終わらない。エウレシア王国の紋章としても使われ、特別な花であるところの薔薇。それを春夏秋冬、その季節に応じた品種で楽しめるように、管理している薔薇園まで備えているのだ。徹底した温度管理は勿論、栄養管理や剪定せんていに至るまで、心血を注いだ手入れの賜物たまものであった。


 ただ、この庭園のあるじである女王ゼノヴィアは、この場所にはなんの思い入れも持ち得ていなかった。偶に訪れる来賓らいひんとの話題作りに重宝しているといえなくもないが、後はもっぱら健康を維持する為の散歩コースとしての使用か、なにも考えたくない時に立ち寄る程度である。


 そして今日、ゼノヴィアがこの場に訪れた理由は、後者であった。書庫で作業を進めるには、集中力がもちそうにない。自室でゆっくりと休息を取るには、時間の余裕がない。そういう中途半端な空白の時間を、この場所で紅茶でも飲みながら、リラックスする為の時間に当てようと考えたのである。


 ゼノヴィアが向かう先は、薔薇園の横に備え付けられた噴水。その傍に用意されたアンブレラ付きテーブル。疲れ気味の彼女には世界有数の庭園を見渡す余裕はなく、視線を落として、考え事をしながら歩いていく。


 考え事……否、悩み事といいかえた方が適切かもしれない。最近のゼノヴィアは大きな悩みを抱えていた。その原因は、最愛の家族の1人であるところの義兄マテウスに頼まれて、安請け合いをしてしまった彼女自身にもあるのだが、改めて思い返しても義兄の説明には不備があったように思うのだ。なにせ……


「あんっ……」


 男女問わず、聞く者の思考を搔き乱すような淫靡いんびな艶を帯びた声音こわねが、ゼノヴィアの耳朶じだを打つ。その時点で彼女には、この先に広がる光景に半ば予想が着いて、少し引き返したくもなったが、王宮の主たる自分が何故遠慮しなければならないのかと、気持ち歩幅と肩幅を広げて、靴音を鳴らしながら歩みを進める。


 そしてゼノヴィアが目指した先……噴水の傍には、彼女の予想通りロザリアの姿があった。ただし、そこに広がる光景には予想と現実との間に、大きなへだたりがあった。


「もうっ、駄目でしょ? こんな場所でママのおっぱいを我慢出来なくなったの?」


「だってママが焦らすんだもん。ママが悪いんだもんっ」


「ママ、我が儘な子は嫌いだなぁ……だからこれ以上は、メッ……よ?」


「ご、ごめんなさい、ママァ。ここではもうしないから、ボクっ、ママの言う事聞くから、嫌いにならないでぇ~」


 噴水のほとりに腰掛けるロザリア。彼女の前でローブの裾が芝生で汚れるのも構わずにひざまき、彼女の身体に両腕を回しながら、その豊満な胸にイヤイヤと顔を埋めて、谷間から上目遣いに見上げる老齢の男の姿があったのだ。


(えぇ~?? あれは確か……ベッカー学匠? えぇっ?)


 ルートヴィヒ・ベッカー。最近は補佐に回る事も多いが、議会に参列した経験も豊富な名誉学匠の1人である。ラーグ領南部の出身らしい厳格な立ち振る舞いが多く、それに似合う、まるで老戦士を思わせる程の大柄な男なのだが……


「ふーん、そっかぁ。良い子のルーちゃんは、ママの言いつけを守れるんだ?」


「うんっ。ボク、我が儘言わないよっ? ママの言いつけもちゃんと守れるよっ? えらいっ?」


「えらい、えらいっ。良い子なルーちゃんは、ママ大好きよっ?」


 ロザリアはそう告げると同時に、ルートヴィヒの頭を包むように優しく撫でて、額にキスを落とす。そうされた瞬間、普段は吊り上っている薄い眉はへの字に垂れ、ギョロリと見開かれていた筈の両目は、トロンと溶け落ちたかのように穏やかになった。


 苛烈な物言いが目立つ上に、感情的になりやすい性格で、議会中にゼノヴィアの事を小娘呼ばわりした事もあった男だったのだが……


「ボクもママの事、だ~いすき~っ」


(ええぇぇぇ~~…………)


 決して見たくもなかった光景を見せ付けられているにも関わらず、目を離す事すら忘れてドン引きしていたゼノヴィアの視線と、少しだけ顔を上げたロザリアの視線が一瞬交わる。


 しかし、それも束の間、ロザリアは何事もなかったかのように、ルートヴィヒの頭を抱えて、背中を撫でてやりながら、彼にされるがままで全てを受け止めていた。


 ロザリアはとうの昔にゼノヴィアがそこに立っている事に気付いているのだ。それこそ、それ以前。ゼノヴィアが足音を強く鳴らした瞬間から、近づいてくる事すら知っていた。その上で、ゼノヴィアを揶揄からかうように、見せ付けているのである。


 それに気付いたゼノヴィアは、カッと怒りを覚えた。そんな感情を抑えつけて、もう1度彼女達の死角に姿を隠すと、ケホッケホッと、大きな声で咳払いをしながら、改めて近づきなおす。


「こ……これは、これは、女王陛下……休憩、ですかな?」


「ごきげんよう、ベッカー学匠。そうですね。紅茶でも頂こうかと思いまして……」


 再びゼノヴィアがロザリア達の前に姿を現した時、ロザリアは噴水に腰掛けたままだったが、ベッカーは彼女から随分と離れた場所に立っていた。しかし、名誉学匠の証であるローブは所々皺が残っていたし、膝には芝生が付着ふちゃくしていたし、なによりも彼の額や頬には、ロザリアのルージュと同色の唇の痕が、薄っすらと残っていた。


 これ以上どう話題を広げればいいものか……ゼノヴィアとベッカー。お互いが気まずくなっていた所を、ロザリアは我関せずと、楚々とした様子でベッカーへと歩み寄り、その頬に噴水で少しだけ濡らしたハンカチを押し当てる。


 それと同時に背伸びをして、彼の耳に口を寄せてコッソリと耳打ちをすると、クスクスと肩を揺らしながら微笑みを浮かべた。


「ハハハッ……では、私達はこれで。女王陛下……咳込んでいたご様子ですが、体調管理には気を付けるように」


「……忠告、感謝します」


 心の内では、アナタがたの所為でしょうっ! と、罵声を浴びせていたのだが、そんな本心もなんとか堪えて、別の言葉へと変換してみせたゼノヴィア。彼女は、はやく2人揃って何処へなりとも消えてくださいと願っていたのだが、ロザリアはゼノヴィアの隣まで歩みを進めると、そこで急に立ち止まった。


「ベッカー学匠。私は女王陛下とご一緒させてもらおうと思います」


「マ……ロザリアさん。貴女は、まだワシとの話が終わってない筈ですが?」


「続きは今晩にでも、ゆっくりと……ねっ?」


 ぽってりと突き出た自身の唇に指先を触れさせながら、男の脳と下半身を、理性という鎖から捩じ切ってしまいそうな婀娜あだめいた顔つき浮かべる。それだけでベッカーはモゴモゴと口ごもり、最終的には寂しそうな表情を浮かべながらも、彼女の言いなりとなった。


「女王陛下? 私、今日の気分はローズヒップかカモミールなんです」


 ベッカーを見送ったロザリアは、2人きりになった瞬間に、厚かましくも嬉々とした表情でゼノヴィアにそう告げるのだった。

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