第2話
少し遠くのコンビニで健太は煙草とコーラを買って、パピ子はミネラルウォーターを買った。
腕時計は健太の部屋に置いてきたので、パピ子は携帯で時間を確認する。時刻は六時の五分前だった。店を出て、健太の部屋に向かって歩き出す。
全く肌寒くなく、むしろ蒸し暑い日だった。日は依然として傾いてもいない。そもそも夏真っ盛りの八月なのである。二人は暑さを嫌って手も繋がず、伸ばせば届く距離を保ちながら並んで歩くだけだった。
「伊藤を倒しに行こうぜー」
後ろから声変わりのしていない少年の声がした。振り返ると、自転車集団が二人に近づいていた。五台が並んでいる。八月の夏休みなのである。少年たちの顔は日に焼けてて汗ばんでいた。
パピ子と健太は路肩によけて、それをやり過ごす。パピ子は追い越していく小さな背中を見つめた。自分にもあんな時期があったな、と。
「何だか可愛いよね、ああ言うの」
「馬鹿にしてんだろ?」
隣にいる健太は言う。別に棘のある言い方じゃなかった。健太自身も馬鹿だな、と思っているのだろう。
「そんな事ないよ、別に。本当に本心から可愛いな、って思って」
「ふ~ん。そう」
「信用してない?」
「してない訳じゃないけど」
蝉の鳴き声が聞こえる。蒸し暑さだけを増す夏の音だった。風は暖かく、一服の清涼というには程遠い。自転車集団は角を曲がり、もう見えなくなっていた。
「明日、どっか行こうか」
健太が言った。「どっか出かけようよ、久しぶりに」
そんな彼に、どういう魂胆だろうか、と、一瞬疑ってしまうパピ子がいた。このまま土曜の夜を通過して、また何をするわけでもなく二人で日曜日を無駄に潰す、そういう休日を過ごすものだとばかり、パピ子は思っていた。
「意外!」
だから彼女は素直に思ったことを口にした。そんな彼女の行動を今度は健太が意外だと思う。
あまり広くない道路だった。歩道と車道にはガードレールもない。ただ白線が引かれているだけだった。だが別に危なくはない。やってくるのは小学生が乗った自転車くらいなものだ。大きなタンクローリーどころか乗用車も来ないような不便な道路に二人はいる。そんな黒い道路に二人の影が落ちている。
「なんだよ、じゃ家に居ても良いんだけど」
照れ隠しなのだろう。歩みを止めずに健太は言う。
「えー。行こうよ」
「ったく。素直じゃないな」
ここで彼は一旦、足を止めて、煙草を取り出す。
「歩き煙草はやめてよ」
「あ、ごめん」
二人でいるときは歩き煙草は止める、そういう約束があった。彼は抜きかけた煙草を箱に戻した。
「そういえば禁煙はしないの?」
「出来ないよ、俺には」
「あ、そう。やっぱりやる気ないんだ」
「まあな」
「まあな、じゃないわよ」
「なんだよ。明日、どこ行く?」
二人は角を曲がる。もう健太の部屋は近かった。
「急だと困るな」
特に頭に思い浮かぶ場所はなかった。
「ないの?」
「健太は?」
「俺もそうだな――」
「特にないんだ」
パピ子は冗談っぽく口の端を緩める。
「後楽園!」
からかわれた風に思ったのか、健太は勢い良く答えた。
「馬券買うんじゃないでしょうね?」
「もう馬は止めたよ」
春先に十万円負けていた。単勝一.二倍の馬に賭けて、簡単に二万円勝とうとして全てを失っていた。もちろん日曜日午後のそのレースはパピ子も健太と一緒になって見ていた。二万円勝ったら、おいしいものを食べて行こう、そういう話ばかりしていたのも、レースが始まる前までだった。
「負けたもんね」
「うっせーな。じゃ明日、後楽園でいい?」
「いいよ」
「他に行きたいところないのか?」
「あったらまた明日になったら言うよ」
「あ、そう」
「今、そんなあたしが面倒臭いと思った?」
「思ってないよ」
「嘘。だってなんか視線が一瞬、下向いたもん」
「面倒臭いな」
「やっぱり」
「それじゃないから」
健太の部屋があるアパートがもう見えた。いつの間には陽が傾いている。二人の影が伸びる。みんみんと鳴く蝉の音は依然としてそんな夏の夕暮れに響いていた。
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