第59話/裏 降り注ぐ赤。
「…………」
「落ち着いた?」
ひとしきり叫び終えた彼女に声をかけると、彼方ちゃんは小さく頷いた。
瞳は真っ赤に充血し、腫れているけれど、そこには意思の強い光が浮かんでいる。どうやら、現実を受け入れる気になってくれたらしい。
「彼方ちゃんは、どこまで思い出したかな?」
「……恐らくは、全部です」
「そう」
僕はため息を吐いた。仕方がなかったとはいえ、彼女には辛い思いをさせてしまった。
窓の外からは、雨の気配が漂ってくる。あの独特な、湿気の匂い……。
「周囲の誰もが、私を理解してくれなかった」
ぽつりと、彼女が呟いた。「私も理解しようとはしなかったので、おあいこと言えばそれまででしょうけれど。……先生、ケーキを分けるのに分数を使おうとする幼稚園児を、どう思いますか?」
僕は首を振った。何しろ僕の感想は『別に』だ、彼女が期待する返答とは思えない。
それだけで彼女は何かを察したようだ。諦めたように肩を落とすと、彼方ちゃんは話を続ける。
「まぁ、先生でしたら気になさらないでしょうけれど。質問を変えましょう。分数を持ち出す幼稚園児を見た保母さんはどう思いますか?」
「……別に」
「…………」
「人によるんじゃないかな」
僕は苦しい言い訳をした。「教える手間の無い子だって、喜ぶ人もいるんじゃないかな?」
「先生?」
「……解ったよ、僕が悪かった。そうだな……気味悪がったりする、かな?」
「…………」
予想される答えを返したのに、彼女の反応は芳しくなかった。
何やら複雑そうな顔で僕を見詰める彼女に首を傾げると、彼方ちゃんはもう一度ため息を吐いた。
「……そうでした、先生はこんな人でした……」
「彼方ちゃん?」
「何でもありません。そう、その通りですね。けれどもそれは、私の人生を思えば比較的良識的な反応と言えました。妙な顔をしたとしても、彼女たちが求められていたのは、ただ子供たちを一定時間預かることだったのですから」
極端な話ではあるが、ご尤もだ。幼稚園とは勉強を教える場所ではないのだから、子供が勉強が出来ようと出来まいと、そんなことは関係ない。
大人しいかどうかしか、関心はなかっただろう。何も問題を起こさず、数時間過ごしてくれる子供かどうかだけが、彼女たちの評価基準である。
「父も、良く思ってはいなかったでしょうけれど、そこまで私を嫌ってはいませんでした。将来的にはプラスになる、その程度の認識だったでしょう。それは私が幼かったこともありますが、何より、母の影響が強かったと思います」
「お母さんの?」夢の中で赤子の彼女を抱き上げていた女性だろうか。
「えぇ。優しい人で、その、個性を尊重する余裕を持った方です」
思い出を語る彼女の顔には、安らかな微笑みが浮かんでいる。僕に向けられていた親愛と信頼の笑みとはまた方向性の異なる、けれど同じくらい優しい笑みだ。
けれどもその笑みは、直ぐに翳った。
「小学校に入った頃、状況は悪くなりました。とても、とても悪く」
「……いじめに、あったのだね?」
「単語にされると酷く安っぽく感じますがね、えぇ、その通り。学校とは勉学を学ぶ場ではありますが、何より協調性を学ぶところです。私には、それがなかった」
突出することが駄目なのではない。
突出していることを、それが危険だと周囲に悟られることが駄目なのだ。
彼女は知識も知恵も持っていたが、恐らく賢くはなかった。要領よく振る舞うということを、出来なかったのだから。
「鉛筆が盗まれ、上履きが隠され、体育の時間には着替えが捨てられ、午後の何時間かを体操服で過ごさなくてはならなくなりました。何人もの子供たちが私を囲んで口汚く罵り、時には直接的に暴力を振るわれるようになりました」
「………………」
「折悪く母が死に、その結果、家からも私の居場所はなくなりました。父は私を疎ましく睨み、毎日追い出すように私を学校へ、禿鷹の巣へと送り出しました。生まれた頃は、あんなに喜んでいたのに」
「子供の頃の事を、覚えているのかい?」
「知識を溜め込むのは得意でした。目が見えるようになった三歳頃からの記憶は、すべて頭に入ってます」
それはすごい、と思う反面、それもまた排斥の理由にされただろうと僕は予想する。
あぁ本当に、彼女は才能を持ちすぎた。
「先生と会ったのは、その頃です。お母さんが具合が悪くて入院していた先の病院で、貴方をお見掛けしました。空を見上げて、飛びたくなるような空だ、なんて子供みたいなことを呟いている貴方を」
「あの時は、僕は……」
「貴方は、私を変な子供だと扱いませんでした。頭のおかしい、化け物のように扱う事をしなかった……貴方だけは」
違うのだ。
僕はただ、周りがどうでも良かっただけだ。どうでも良くて、どうでも良くて、どうでも良かっただけなのだ。
何しろ僕はやがて退院して、そして法の裁きを受けると思っていたのだから。
直ぐ死ぬと思っていたのだ。他人の事情など、斟酌する余裕はなかった。
彼女はそれを知らずに、僕を信じた。
いや、聡明な彼女の事だ、気付いてはいたのだろう。気付いていて、それでも尚僕を信じることにした。すがることにしたのだ。
時に無関心さは、優しさよりも柔らかく傷を包むものである。
「別れた後、私はそれなりに我慢しながら日々を過ごしました。周りの大人も子供も、相変わらず私を憎んでいるようでしたけれど、その日々も終わると信じていたのです。時間が全てを解決すると、無邪気に信じていました。けれど……違った。何もかもが」
「なにも、かもが?」
「時間が経ち、中学校になった私は、それはそれは期待していました。周りの大人たちも入れ替わりますし、何より子供たちが成長することを期待したのです。私が突出していたのはあくまでも過去の話であり、周りがそれに追い付いてくれると信じたのです。ですが、そんなことはなかった。彼らは――より悪辣になっただけでした」
僕はため息を吐いた。
さもありなん、といったところだ。仔猫は成長しても、ネズミをいたぶることを止めはしない。ただ効率的になるだけだ。
「そして私は、もう一つの勘違いに気が付きました。私は突出していたわけではなかったのです。彼らは、私を理解していじめているわけではなかったのです。彼らは――私と同じ存在ではなかった」
「宇宙人の夢……」
「話が通じませんでした。私の言うことを周囲は聞こうともしませんでしたし、周囲の言うことは、私にとっては言語の体を為してさえいませんでした。私と同じ知性を持った存在とは、全く思えなかったのです。彼らはそう、正に宇宙人でした」
違いこそが、人が彼女を拒む理由。
だがその差異は、時間が埋めるにはあまりにも深すぎた。
深すぎて、遠すぎて。あまりの断絶さにとうとう彼女は絶望した。
「それでも二年間は堪えました。けれど、十四歳になった夜、父は私を睨み付けながらこう言ったのです。『新しい母が出来る』と」
「…………」
「父はやり直すつもりなのだと、私はようやく理解しました。新しい母、そして、新しい子供。私という間違いを、あの人は、無かったことにしたかったのです」
「そんなことは……」
「先生、あの美しさを見たでしょう? 私が生まれたときの、あの美しい世界。あれを、あの男はもう一度見たかったのです」
そんなことは、ない。
子を憎む親がいるだろうか、子をやり直したいなんて思う親が、いるのだろうか。
綺麗事を言うのは簡単だ。だが、それでは彼女には響かない。それに、それは僕の答えだ。彼女の答えじゃあない。
答えは、彼女自身が探すしかないのだ。
「諦めた私は、もう無理だと思ってしまった私の足は、無意識の内にあそこに向かっていました。病院へ、先生、貴方と出会ったあの場所に」
知っている。「…………」僕は、そこで彼女を見たのだから。
空を飛ぶ彼女を。
「えぇ、その通りです。先生、私は、世界を諦めた。だから、飛んだ。屋上から、あの日のように飛びたくなるような空へと飛び立ったのです。落ちたのは、そのついでです」
そうだ。
彼女は、自殺を図った。僕は見ていた、覚えている。
落ちた彼女は幸いクッションのお陰で即死は免れた。しかし、無傷とはいかなかった。出血した彼女の命を助けるために、必要なものがあったのだ。
輸血。
僕は今や、全てをはっきりと思い出していた。
これは、僕のではなく彼女の手術なのだ。彼女に、僕が、輸血をしているのだ。
所長の最後の罠。それは、生存者が一人だけだということ。
僕の勝利は、詰まりは彼女の敗北、彼女の死。手術は失敗することになる。所長の言葉の通りに。
僕は、勝ってはならない。勝たせるべきは、彼女の方なのだ。
人生を諦め、死を選んだ彼女を、自分の意思で生かさなくてはならない。現実への帰還を促さなくてはならないのである。
そんなこと、出来るのか。
これほどまでに世界との溝を感じてしまった子供を、それでも生きたいと思わせることが出来るのだろうか。
子供は純粋で、簡単に希望を持ち、だからこそ大人より容易く絶望する。人生の良さをまだ知らないから、苦しみに膝を屈してしまう。
どうするか。
考えながら僕は窓の外へと視線を向けた。夕暮れに照らされた真っ赤な雨はいつの間にか激しさを増し、ザアザアと音を立てて降りしきっている。
「…………ん?」
待て。僕は違和感に顔をしかめる。
おかしい、何故、これほど激しい雨の中で夕日が射している?
「まさか……」
僕は窓に駆け寄った。外は穏やかな夕暮れで、雨雲の気配はない。
雲がなく、雨だけが降り注ぐ。いや、これは、雨ではない。夕日で赤く染まったのではない。
降っているのは、元から血のように赤い液体だ。
「まさか、こっちにも来たのか、怪物!!」
僕の叫びに気が付いたかのようなタイミングで。
窓にベッタリと、真っ赤な手形がへばりついた。
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