第57話/裏 舌戦。
全て。
全ては彼女から始まった。
空を飛ぼうとした彼女の、宇宙人に囲まれた彼女の悪夢から始まった。
僕なんかに救いを求めた彼女の、些細な夢から始まったのだ。
そして、だからこそ。
終わりは、彼女の中にある。
「僕に、何もされていない?」
「えぇ、勿論です。当たり前じゃないですか、先生」
彼女は優雅に微笑んでいる。
水のように優しい微笑み。現実から目を背けた笑みだ。
「……僕の口調、なんか変じゃないかな?」
「いいえ? 昔から、先生はそうでしたよ。穏やかで、冷静で、どこか冷めてらっしゃいました」
「…………」
子供は良く見ているものである。
確かに彼女と出会った頃の僕は、久野を喪ったばかりでぼろぼろの有り様だった。病院から出たら警察に捕まり、無軌道な愚かさの償いをさせられるのだと思っていたから、云わば処刑を待つ罪人のような心持ちでしかなかったのである。
それでも、その後に比べれば大分マシな心境ではあったわけだが。
まあ、とにかく。
これではっきりした。彼女は、世界を正しく認識していない。
僕の夢――というより彼女の領域にお邪魔していた時の記憶では、僕は彼女に過度の慎みをもって接していた。
名家の御令嬢として、或いは美の化身として。僕の吐く息が彼女を汚してしまうのではと戦々恐々といったところだった。
今、僕の態度は、昔馴染みに対するそれである。
何年か振りに田舎へ帰り、昔良く遊んでいた近所の子供と再開した、そんな程度の相手として彼女を見ているのだが――彼女はその変化をおかしいとも思っていない。
気が付いていない様子でさえ、ある。
僕の変化に、異常に、ちらりとも目を向けた様子がないのだ。
「…………」
理由を、僕は理解出来る。
彼女は、認識しようとしていない。変わっていると、気付かないようにしているのだ、敢えて。
ここは、彼女の領域だ。彼女が願い、夢見た通りの世界を彼女が創造した筈だ。
だから、目を背けている。
気付いてしまったら、もう戻れないのだから。
ここは想像上の世界、認識で成り立つ空間。
その認識が狂えば、楽園は砂上の楼閣よりも遥かに容易く崩壊する。
彼女は、そのことを確りと理解している。だから僕の変貌に目を背け、空間の奇妙さを許容しているのだろう。でないと――崩れてしまうから。
彼女は、ここを護るつもりだ。
非現実的で、過去にすがり未来へと向かわず現在に停滞しているだけの、継ぎ接ぎで無理矢理辻褄を合わせたこんな世界を。
これが、現実への最後の扉。開かずに錆び付いた鍵。
僕は鍵を持ってない。だから、開けてもらうしかない。彼女にドアを開けてもらわないといけないわけだ。たとえ、僕が彼女にとっての狼になろうとも。
そしてそのための
「……昔」
「え?」
「さっき君が言ったことだよ、彼方ちゃん。昔から僕はこんなだったと、そう言ったよね?」
彼方ちゃんはソファーに腰掛け、行儀良く両手を膝の上で併せると、軽く首を傾げながら穏やかに微笑む。長い黒髪が微かに揺れ、上品な甘い香りが漂った。
お決まりの構図だ。彼女が大切だと思ったのは、こんな時間なのだろう。
なら、それに乗るしかない。彼女の領域で彼女を打ち倒すには、彼女の流儀で勝つしかないのだ。
打ち倒す、そう、打ち倒すのだ。
虚偽で塗り固められた彼女の鎧。それを粉々に壊さなくては、僕らは前には進めない。
僕は、意識的にゆっくりと部屋を歩き、僕用の席に就く。
木製の書き物机だ。良くあるスチールデスクをデザインそのままで木製にしたような、不思議な代物だ。
新しいものを、古い素材で作る。
これもまた、彼女の見ようとしない矛盾だ。世界に溢れているのは、こんな昭和チックな道具ばかりではないことを彼女は知っていて、けれど見たくないからこんなものを作り上げている。
僕なんかよりも、よほど世界を創る才能がある。いや、彼女は僕なんかよりもあらゆる面での才能を持ち合わせているのだ。
ここで、過去に埋もれて良い存在じゃあない。どうあっても、彼女を押し上げなくてはならない。僕は決意を新たに、表情だけはにこやかに、彼女と向かい合う。
「昔。僕と君とは、どこで出会ったんだい?」
「ここでです。黒織学園。私は生徒、貴方は先生です」
「成る程ね」
僕は心の中でだけ舌打ちする。うまく逃げられた。
僕と彼女の戦いは詰まりこういうこと、【矛盾探し】だ。
ここは彼女の意識が作り上げた世界。だからこそ、ここを崩すには彼女自身がおかしいと思うしかない。
今のは、彼女に一ポイントだ。
僕の攻め手を、歪んだ認識のままに受け入れてしまった。
「ここはいつも夕方だね」
「そうですか? まぁ、授業が終わってから来るので、時間が遅くなるのは仕方がないですよ」
「授業か、難しいかい? 昨日はどんな授業を?」
「簡単です。本に書かれていることを、彼らはただ話すだけですから。自分で読んだ方が、理解は早いと思います。昨日は……授業の内容は覚えてません」
「覚えてない?」
「聞いていませんでしたから。自分で本を読んでいる方が有意義だと言ったでしょう、昨日は……流体力学を読んでました。私、空を飛びたいのです」
少し恥ずかしそうに、彼女は自分の夢を語る。
その夢見る瞳は、自分で創り上げた現実を見詰めたきりだ。
――どうする?
練り込まれた世界の設定は、堅い。崩す隙が見当たらないほどに。
攻めあぐねる僕は、舌を無くしたように黙り込んだ。
雀のように押し黙る僕に気分を害した様子もなく、彼女は優雅に頬笑んでいる。彼女の創り上げた現実は、下手くそな論理では打開できそうにない。
窓の外に目を向ける。
夕暮れの向こうで、暗雲が立ち込め始めているようだ。
雨が降るかもしれない、或いは嵐が。
その時ふう、と彼女がため息を吐いた。
物憂げなその態度に、思わず僕は身を固くする。彼女が僕との会話に飽いて聞く耳持たなくなれば、最早どうしようもない。
幸いにも、彼女は僕の愚鈍さに呆れ返ったわけではないようだった。いや、彼女は――とっくに世界に呆れ返っていたのかもしれないが。
何処か遠くを眺めたままで、彼女は、呟くようにこう言った。
「他人の言葉なんて、何の意味があるのでしょうね。彼らが何を言っているのか解りませんし、彼らも、私の言っていることを理解出来なかったでしょう」
「…………え?」
「誰も、私とは話が出来ませんでした。これまでは、先生以外は」
最後の単語と共に僕の方へ微笑んだ彼女を見て、僕の中で全てが繋がった。空を飛ぶ夢、宇宙人の街の夢、そして、所長の罠。
「そういう、ことか」
僕は思わず呟いた。取り戻した記憶と、示された情報とが組み合わさる。場に出た捨て札と手札から、
全ては、彼女から始まったのだ。終わりは、彼女の中にある。
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