第48話/裏・表

「バクに、喰わせた……?」

「えぇ」


 少女が微笑みながら頷いた。

 その笑みは穏やかで、無防備で。してやったりという得意げな様子は無い。


 僕に対して、全く悪意が無い。


 それはそうだろう、少女がしたことは絵を枕の下に置いただけ。

 悪夢避けとして、他でもない僕自身が教えた単なるおまじないジンクスだ。悪意を見せる必要も、それを感じる必要すらない。

 いや、仮に彼女が僕に対して明確な悪意をもって接したとしても、その発露として僕を殺そうとしたとしても、罪の意識の欠片さえ必要ないのだ。


 


 夢は現実を侵さない。脳の奥底での電気信号でしかない夢は、現実どころか分厚い頭蓋骨を突破することさえ出来ない。

 少女が何をしても、それが夢の中である限り現実にはけして届かない。


 理性がそう考えるのと同時、僕の中で笑い声が響く。

 久野のものとも、所長のものとも違う、ただ相手を嘲るためだけの笑い声だ。所長のことを小悪魔と思っていたが、この声の主は明らかに悪魔的だ。


 ――では、彼女の語る夢と僕の見る現実悪夢との符合はどういうことだい?


 声は、僕の声で僕に告げる。


 ――いい加減、目を逸らすなよ。そろそろ気付いているんだろう?


 あぁ、解っているとも。

 声は、僕の声だ。心の奥底で感じ取っていた違和感が、とうとう具体的な形をとって目の前に現れたのだ。


 夢は現実を侵さない。

 侵すのは――


 これは夢だ。そして、詰まりは。


「何をした」

「……え?」

「何をしたって聞いてるんだっ!!」


 いつもの使い慣れない椅子から立ち上がると、僕は少女の前へと歩み寄る。

 足元で床が軋む。古びた木製の床は、僕の靴の下で不安定に揺れた。


 普段とまるで違う、有り得ない僕の態度に、少女は呆気にとられたようだ。呆然と、目の前に立つ僕を見上げている。


 その肩を、掴む。


 突然の狼藉と、それに伴う痛みに、少女は我に返った。

 短くか弱い悲鳴が、細い喉から盛れ出した。

 両手に伝わるのは、少女の体温。そして、ちょっと力を込めれば折れそうな程華奢な鎖骨。

 ……知ったことか。


「君は、いったい何者だ。僕に、いや、僕たちに何をしたんだ!」

「せ、先生、どうしたんですか? い、痛いです」

「良いから答えろっ!! それに、僕は先生なんかじゃ、」

「止めて、せん、先生……、!!」


 衝撃が、全身を貫いた。

 その呼び名は稲妻のように、僕の脳を打ち据えた。衝撃は閉ざされた記憶の扉にぶつかると、鍵のかかったそれを跡形もなく破壊した。













 病院で、入院していた時のことだ。


 あの時の僕は殆ど脱け殻で、ベッドの上で日がな一日窓の外を眺めていた。

 青く抜けた空を見ては飛べたら良いのにと願っていて、いつの間にかそれが口癖になっていた。


『飛びたくなるような空だ』

『え?』


 呟いた言葉に、幼い声が返ってきた。

 驚いて振り返ると、同じくらいに驚いた様子の幼女が一人、病室のドアから僕を覗いていた。


 真っ白な、ワンピースを着ていた。


『びょういんを、みてまわっているのです。どんなところなのか、みたことがないから』


 五歳かそこらだろうに、随分と大人びた口調だった。

 丁寧で、ハキハキとしていて、両家のお嬢様といった育ちの良さがこちらまで匂ってくるようだった。


 背筋を伸ばして、失礼しました、と一礼する彼女に興味を持ったのは、単なる気紛れだ。

 看護婦でも医者でも、警察でもない来客なんて久し振りだったから、少し話をしたいと思っただけだ。


『空を飛びたいというのは、単に現実から逃避したいだけだよ』

『けれど、ひとのな夢でもありますよね』

『難しい言葉を知っているね』

『脳は、おとなにもこどもにも共通してあるものです』

『そうかもしれないね』


 ませた言い方に、僕は頷いた。適当でいい加減な対応だ。

 どうでも良かったから、頷いただけだった。ただでさえ事故の相手やマスコミに騒がれているのに、争いは、もう嫌だった。


『ミトコンドリアにさえ意思はあるらしいし、子供にもそれくらいあるかもしれないね。君にあるかは、僕には解らないけれど』


 その反応の、何が彼女の琴線に触れたのか。


 どこか批判的に世界を見ていた彼女の目付きが、僅かに変わった。

 いや、周囲へと向ける目付きは変わらなかった――怒り、悲しみ、絶望、失意の色は薄らぐことは無かったが、僕を見るときだけは、それが消えていた。

 愛とか、恋とかそんなものではなく。

 まるで、


『おにいさん、お名前はなんとおっしゃるんですか?』

『僕は、津雲日向』

『日向先生』

『先生は、止めてくれないかな。他人になにかを教えられるような、高尚な生き方をしてないんだ』

『それは、わたしがはんだんすることでは?』

『そうかもしれないけれど』

『では、先生と』


 僕はため息を吐いた。未来永劫、そう呼ばれることだけは無いと思っていた呼称だった。

 それから、何が楽しいのかニコニコと上品に微笑む彼女に、僕はこう尋ねた。


『ところで、君は、誰だい?』













「彼方、ちゃん……?」

「はい、そうです、先生」


 僕を見上げる瞳には、昔と変わらぬ強い意思と鋭い知恵。そしてその上から、うっすらと涙が浮かんでいた。

 両手に伝わる体温、華奢な感触。

 彼女の肩が震えていることに、今更ながらに気が付いた。


「……これは、いったい……」


 慌てて、手を離す。彼女は気丈に僕を見ていたが、それでも僕から距離を取った。


「どういうことなんだ、僕は、どうしてここに……」

「…………」

「教えてくれ、彼方ちゃん。今、何が起きているんだ?」

「それは、もう直ぐ解ります先生。と言うよりも、


 彼女、彼方の言葉に僕は呻いた。

 彼女との記憶と共に甦ったことが、ひとつあった。そしてだとしたら、僕は答えを得たことになる。








 /表






「おい、津雲!!」


 乱暴に肩を揺すられて、僕は目を開けた。

 身を屈めた久野の、心配そうな視線が覗き込んでくる。


「くの……?」

「悪い、まさか、そこまで追い詰めるつもりはなかったんだけどよ」


 辺りを見回す。

 抜けるような青い空。銀に輝く塔みたいな研究所と、それを囲む山々。そして、久野。


 救いようの無い現実というやつが、目の前に広がっている。


「……そうか」

「でも、解ったろ? 夢は所詮夢だ。今は現実を何とかする時だ」


 不安そうに、自らも噛み締めるように言う久野に、僕は、微笑みを返す。


「そうだね。夢は、もう終わりだ」

「……津雲?」

「大丈夫。怪物を消す手を思い付いたんだ」


 少なくとも、片方は。


「行こう。目指すは寮だ」

「あ、あぁ」


 大地を踏み締めて、僕は歩き出す。

 もう、世界は揺れなかった。

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