第47話/表 「 。」

「…………なん、だって?」


 ぐらぐらと、世界が揺れる。

 地震でもあったのか。自信が無かったのか。それとも――


「十五の、夏の夜だ。八年前だよ。漸く免許が取れたとはしゃいだ君が僕を後ろに乗せて、お兄さんのバイクで出掛けたんだ」


 海に行った。

 浜の上に横と書くような都市に住む僕らにとって、海は馴染みがある地形だ。もっとも、目の前に広がるのは濃い緑色に染まっているあくまでも工業用の港で、遊ぶには少し余所へ出ないといけなかったが。

 泳げない海が目の前にある環境ゆえか、僕らの中には海への親しみと、同程度の羨望とが同居している。だから、夜だというのに海へ行くことになったのだ。


 暑いし、渋滞を無視できるバイクで出掛けるのなら、悪くないと思った。


 そうして走り出した久野の運転は、中々様になっていた。少なくとも素人には見えないほどに。

 それが本人の資質、運動神経や反射神経に依るものだったのか、或いはこっそり陰で練習していたのか。久野の性格的にどちらでも有り得るし、どちらも正解だった気もしている。

 とにかく僕らは出掛けて、順調に湘南辺りへ向かっていて、そして


「動物が、飛び出してきた。猫か犬か、狸だったのかもしれないけど、結局解らなかったよ。それを君は避けようとして、そして制御を失った」


 従順だった鉄の馬は、あっという間に暴れ馬と化した。

 落ちないように久野に掴まるのがやっとの僕は勿論、免許を取ったばかりの久野ではどうしようもない。


「バイクは本来の機能を失って、速度だけを保ったままで対向車線に飛び出した。そして、走ってきた車と正面衝突した」


 酷い事故だったらしい。

 僕は意識を失っていたし、ガラスか何かで深く太股を切っていた。あまりの出血に、後で写真を見ただけでも吐きそうになった程だ。


「血が足りなくて危なかったらしいけど、君からの輸血で助かったんだ。そう、聞かされた、ん、だけど…………」


 揺らぐ視界の中で、久野が冷酷に首を振った。



 心臓を貫かれたような衝撃だ。

 視界の縁が、黒い。じわりじわり、不定形の闇が蠢いている。

 目眩がする。世界が、ブランコのように揺れている。

 


 恐らく、あの記憶は僕にとってはくさびのようなものだったのだろう。過去と今と未来とを結び、夢と現実とを隔てるための。

 大事なものだった。

 その後の僕の人生を決定的に決定する、戻ることの出来ない一方通行への入り口だった。

 あの記憶があったから、津雲日向は出来上がった。それが偽りだったというのなら、だとしたら、僕は。


「…………海には、行った、よな?」

「行った、かもな」


 すがり付くような僕の言葉に、久野はしかし容赦がなかった。

 楔を失ない、崩れ始める僕をあくまでも叩きのめそうとする。


「八年前だ、覚えてない。バイクに乗って出掛けた記憶はあるから、多分行ったんだろ。行って、何か馬鹿みたいにふざけて、それで終わりだ。そんな事故なんて記憶はないし、輸血? したことない」

「そんな、じゃあ、あれは……?」

。お前はただ、悪夢を見たんだ。それだけの話なんだよ」


 崩れかけたものは、一度崩してしまった方がいい。

 久野はそんな風に思っているのだろう、僕のヒビを、丁寧に粉々にしていく。


「出掛けた、二人乗りして羽目を外して怒られた。大した話じゃあ無いんだよ、津雲」


 僕はよろける。

 思わず触れた、左太股。大怪我をした記憶のある、その場所の感触は。






 /裏。







「先生、今日は何だか調子が悪そうですね?」

「…………あぁ、そうかも、しれません」


 夕焼け。

 赤い光が、辛い。

 頭が割れそうに痛む。


「大丈夫ですか?」


 少女が尋ねる。心底心配しているような仕草だ。

 そうなのか、心配しているのか、彼女は?


「夢のお話を聞いていただこうと思ったのですけれど、今日は止めた方が良さそうですね」

「ゆめ……?」

「えぇ、夢。


 僕は、のろのろと顔を上げる。

 夕日を受けてだろうか、いつもより上気した頬を揺らしながら、少女が笑う。


「成功です、きっと上手くいきます。私、夢の中でですけれど、言われた通りにしましたの」

「何を、したのですか?」


 嫌な予感がする。

 いつも不思議ではあったが穏やかだった夕暮れの部屋に、不気味な気配が満ちていく。


 僕の恐怖を知ってか知らずか、彼女は嬉しそうに楽しそうに微笑んだ。


「お忘れですか? 先生が教えてくださったから私、そうしたのです。夢の中で、私の枕の下に紙を置いて。

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