第43話/表 逃亡。
「津雲っ!」
「っ!?」
抑えた、けれども鋭い声と共に肩を揺すられて、僕はほんのわずかであったが平静を取り戻すことが出来た。
落ち着いて、落ち込むことが出来た。
いつの間にか膝をついていたらしい。
思ったよりも床が近くにあり、それよりも近くにスミス氏の首があった。
首から上だけだというのに、手応えは固く筋肉質だ。
早速濁り始めている水晶体の奥には、折り重なる死体を見たときと同じ無機質な絶望が浮かんでいる。
自らに迫る運命に絶望したわけではないことは、恐らくは救いとなるだろう。けれども、彼が見た絶望に関しては、正体が僕には解らない以上はどうしようもない。
彼は苦しみを知らずに死にました、と言えないことが、こんなにも心苦しいなんて。
「…………」
久野が、無言で顎を揺らす。
その先では、怪物がスミス氏の残りの身体にしがみついている。こちらには、見向きもせず。
所詮は獣、ということか。目の前に新鮮な肉があれば、気にするのはそれだけ。
逃げるなら、今だ。
僕と久野は互いに目配せし合うと、そろそろと後退りを始める。
怪物の挙動を睨みながら音がしないよう半歩ずつ慎重に、そろり、そろりと下がる。もう少し、もう少し…………。
ピィーーーッ、という甲高い音が響いたのは、あと二歩で部屋を出られるというタイミングだった。
耳障りな電子音。何だ、何の音だ?
「津雲っ! それだ!」
久野が指差したのは、スミス氏の生首―――その耳。
耳に嵌めた、通信機の呼び出し。
反射的に、僕は首に飛び付いた。
スミス氏の耳を掴んだ僕の手に、ぽたり、と赤い液体が垂れ落ちる。
顔をあげるまでもない、怪物だ。遺伝子組換え技術で再生された恐竜のように、僕の上で舌なめずりをしているのだろう。何せ彼はベースが人間、僕が耳障りと感じる音は、彼にとっても耳障りなのだろう。
ごくり、と喉を鳴らす。
それから、ごめんと心の中で謝る。本当に、ごめんなさい。
こんなことをしてしまってごめんなさい、スミスさん。
返事は勿論無かったが、沈黙は了承と同じである。僕は軽く息を吸い、そして勢い良くスミス氏の頭を投げた。
僕と怪物の違い、それは、音の出所を知っているかどうかだ。
予想通り、怪物は頭が先の音を立てたと思ったようだ。短い放物線を描いて死体の方へ転がっていくスミス氏の首を、ゴムボールを投げられた犬のように追い掛けていく。
「津雲っ!」
「解ってる!!」
その隙を逃すわけにはいかない。
僕は身を翻すと、久野と共に寮の出口へと駆け出した。
計画は失敗だ。次の手が、何かあれば良いのだが。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
どうにか追っ手もなく、僕らは寮から逃げ出すことが出来た。
怪物の気配はない。手近な地面に腰を下ろすと、僕らは荒い息を整えた。
さして長くもない距離に反して、僕らはひどく消耗していた。元より体力の無い僕は勿論だが、久野でさえ未だ呼吸は整っていない。
精神が肉体を凌駕するという良い例だ――悪い使い方だが。
乱れた精神は動きを乱す。
必要以上に体力が必要となり――そして力尽きる。
「…………スミスさん…………」
誰よりも頼れる、精神的にも肉体的にも太い男だった。それが、こんなにも簡単に。
僕らは、怪物を甘く見ていたのだろうか。
何だかんだ言っても、僕らは怪物と遭遇して生き残った。
確かに怪物は七人殺していたかもしれないが、僕らの誰をも殺すことが出来なかったのだ、今の今までは。
だからだろうか。
だからこんなにも、スミス氏の死が現実味を無くすのだろうか。
「…………落ち込んでる場合じゃねぇ。津雲、どうにかする必要があるぞ」
「解ってる。…………鍵はもう手の内だ」
僕は力なく笑いながら、握り締めていた右手を開いた。
真っ黒い金属片、耳に嵌める通信機が、鈍く輝いた。
黒木咲良所長と成って以来、彼女は祈るということをしなくなった。
元より神の御心とはかけ離れた生き方であると自負してはいたが、この道、医学に足を踏み入れた時から、その傾向はより強くなったと思う。
祈りで怪我は治らないし、奇跡を待っても人は死ぬ。
そもそも、神にそんなことを期待すること自体が冒涜的なのだろうが。
見返りの無い信仰なんて、何の役に立つのだろうか。叶えてくれるから、助けてくれるから、人は神に祈るのではないのか。
そんな風に考える自分が、神に救われる筈もないから。
だから、祈らなくなった。
しかし今、彼女が頼れるのは皮肉にも神だけだった。
彼女がそれまで信仰してきた科学は、医学は、怪物を産み出しただけだ。
最早、すがれるのはそれらとは無縁の存在だけだ。人の知恵からかけ離れて、天なんていう高みからの見物を決め込む者にしか、祈ることは出来なかったのだ。
神よ、そう呼ばれるあらゆる全能の存在よ。
どうか、どうか――彼らを助けたまえ。
「……………」
『…………ノアさん? 聞こえますか』
「津雲さんっ!?」
『え、所長さん? なんで?』
あぁ。
祈りは届いた。
彼の生存は果たされた。それでいい、貴方が居なくては始まらない。
今だけは、神に感謝を。
私の元に、彼を運んでくれたのだから。
さあ、終わりを始めよう。
ペロリと、愉しそうに舌なめずりをしながら、彼女はマイクに唇を近付けた。
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