第34話/裏 悪夢。
「追われる夢。それは詰まり、走る夢。私はひたすら走って、逃げて逃げて逃げ続けていました。本当に、疲れる悪夢でした」
僕は、ひどく驚いた。昔から表情筋が不活性な男と言われていたから傍目にはそうは見えなかったかもしれないが、それはそれは驚いたのだ。
何せ思えば、これが初めてではないか。
彼女が自らの夢を、悪夢と評するのは。
夢は課外授業のようなもの、という持論を持つ彼女は、あらゆる夢を覚えていて、そこでの経験を現実に生かしているのだと言っていた。
全てが糧となるのだ。だというのに、悪夢とは。
「それはそうでしょう。あらゆる経験の中には、すべきでない経験もあります。したところで何の自慢にもならない人生の汚点のような体験なぞ、世の中にはありふれています」
「例えば、追われる夢ですか?」
「例えば、追われる夢です。だってそうでしょう、いかなる教師や先達のお歴々は、私達子供にこう教える筈です。立ち向かえ、と。それが、追われる? それは詰まり、私が逃げたという証左でもあるのですから」
僕はどちらかと言うのなら、身の丈に合った人生があるという考えだ。
身の丈に合った成功があり。
身の丈に合った失敗がある。
神は乗り越えられる試練しか与えないと言うが、乗り越えた先で力尽きるくらいならばそんなもの、乗り越えない方が幾らかましではないか。
まあ、と僕は思う。
これもまた、年齢の違いだ。僕のごとき年齢の者は如何に困難に挑もうとも成長の幅は少ないだろうが、彼女のように年若い者にとっては、成功も失敗も等しく糧となるものである。
大切なことは、挑むこと。挑み続けることだ。
「………追い掛けてきたのは、宇宙人と言いましたね」
「えぇ、言いました」
「それはその………所謂、海洋生物のようなものですか? 蛸や烏賊のように、幾本もの触手が生えていると聞いたことがありますが」
「そうなのですか?」
「違うのですか?」
「何と言うか………合っていると言えば合っていますし、違うと言えば違うのですが。世間一般の感覚として、宇宙人と言えば蛸なのですか?」
それは難しい話だ。
少なくとも、そうした型の生物が典型的だということではあるが、僕だって見たことがあるわけではない。
しかし、『合っていると言えば合っていますし、違うと言えば違うのですが』、というのはどういうことだろうか。
「それは単純です、先生。先生のおっしゃる特徴に、半分だけ当て嵌まっていたということなのです」
「半分、だけ?」
僕の脳裏に、半身が蛸で半身が人間の不気味な姿が思い浮かぶ。そいつらが、駆け足で追ってくる――片足は靴、片足は触手。
カツン、グチャリ。
カツン、グチャリ。
平凡な足音と、湿った足音が交互に迫る。その間隔は徐々に短くなり、大きくなり、やがて真後ろに――。
それは、確かに悪夢だ。
しかし、彼女は首を振る。
「いえ、そのように奇怪な姿ではありませんでした。あぁ、奇怪は奇怪でありましたけれど」
「………………というと?」
「………顔です」
彼女が、両手を頬に添える。
雪のように白く、氷柱のように細い指が、気遣わしげに柔らかそうな頬を撫でていく。
僅かな耽美さに、僕はそっと顔を背けた。
それに気付いたのかどうか。
彼女は微笑みながら、そっと手を下げた。
「えぇ、恐ろしい悪夢でした。追われることも、逃げている自分も、とてもとても恐ろしかったのです。しかし何よりも恐ろしかったのは………」
「………顔、ですか」
「えぇ、その通りです先生。………私を追ってきたその宇宙人は、顔が。眼が鼻が唇が、顔の全てが悉く。………先生のおっしゃるところの、触手で覆われていたのです」
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