第28話/裏 語り合い、聞かれず。
「今日は、先生。今日もお疲れ様ですね」
くすくすという、正に鈴の鳴るような笑い声に、僕は書類から顔を上げた。
途端に朱色が瞳に飛び込んできて、僕はゆっくりと瞬きをする。
いつもの部屋、いつもの夕暮れ。
それなのに、いつまで経っても、この赤さには慣れない。
「先生?」
呆けている僕に、更に声が掛かる。
どうやら、御呼びのようだ。早く早くと囃し立てる、幼子の騒々しさに押し出されるように、僕は緩慢な仕草で頷いた。
「先生、どうかなされたのですか? いつもよりも本当に、具合がお悪そう」
「………いや………」
「『………いや………』。それで具合が悪くないのなら、ではどのような言い分ですか? 私との話が億劫であるとか、そういうお話?」
心配するような声音の後、打って変わって、僕を咎めるような調子になった声に、僕は苦笑した。瞬く内に、夏の空のように感情を代えるものである。
これも、若さ故だ。ありとあらゆる動きにはエネルギイが必要となる。肉体もそうだし、精神だってそうだ。
彼女は若い。僕は、若くない。どんなお話かと問われたら、まあそれだけの、詰まらない話だ。
漸く現実に焦点を合わせた僕の眼が、やはりいつもの光景を捉えた。日本人形のような美しい少女が、革張りの長椅子にちょこんと腰掛けて、僕を見つめているのだ。
人形のよう、と形容してはいるが、それは単に彼女の外見的特徴に関する記述である。
眉の辺りで切り揃えられた癖の無い黒髪や、端正どころか秩序整然とあるべき形に配置された目鼻立ちが、人の究極に限りなく近いのだ。
それだけ。
内面や、或いは表情としてはその正反対。感情の起伏が激しく、それを隠すことなく表に出す。
とても人間らしい、感情が泡沫のように湧いては消える少女である。
「何でもありませんよ、急に声をかけられて驚いただけです」
「あら、ずいぶん前から居りましたのに。気付いてらっしゃらなかったのですか?」
「すみません、静かだったもので」
僕の言葉に、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「まあ、酷い。まるで、私がいつもいつも煩いというような口振りです」
「いえ、そのような事は………」
「そんなことはありません。私、先生が御忙しそうな時は、お茶も飲まずに、いつでもこうして静かに待っています。先生の仕事に、目処が付くのを待っていたのです」
要するに、お茶を出せ、ということだろう。
僕は立ち上がると、既に湯気を立てていた薬缶から珈琲を注ぎ、彼女に差し出した。
ついでに、僕の分も注ぐ。そろそろひと息入れたかったし、彼女が来た以上は仕事は休むことになるだろう。
角砂糖を三つと、牛乳を注ぐ。ゆっくりと、銀匙で掻き回しながら、何も入れずに飲む彼女をぼんやりと眺めた。
「そう言えば」
ふと、僕は呟いた。
口をついて出たような、突発的な言葉だ。いつものように、僕は、話を聞くだけで済まそうと思っていたのに。
何故言ってしまったのだろう。首を傾げながらも、言ってしまった言葉は消せない。
実際、話すこともある。きょとん、と僕を見詰める彼女に、僕は口を開いた。
「………いえ、僕も、その、初めて夢を見ました」
「あら」
驚いたように、彼女は目を見開いた。夜色の宝石が僅かに輝いて、瞬きと共に幻のように消える。
彼女は直ぐ、上品な微笑みを浮かべた。
「それは、おめでとうございます先生」
彼女の持論からすると、そうなのだろう。
新たな扉を開けた、一歩成長した。
それとも、これで漸く人並みとなった程度だろうか。
「ところで、先生。浅ましい女とお思いになるかもしれませんが、訊いてもよろしいでしょうか? いったい、どのような夢を?」
その理屈でいうのなら、彼女の夢の話を聞いた僕が浅ましい男ということになるのだが。
まあ、彼女はそういうことを言いたいわけではあるまい。礼節を他人に押し付けるような、浅ましい女ではないはずだ。
喧しく囀ずる被害妄想を、頭の隅に押し込める。
「空を飛んでは、いませんでしたが」
「それは、残念」
「走っていました、懸命に」
「それはそれは、先生らしからぬ事ですわね。先生は、誰かを待たせてでも走らない男だと思っておりますが」
それはただの最低な男ではないだろうか。
平安時代の貴族でもあるまいし、僕だって走るときは走る。
例えば――走らなければ死ぬとき等には。
「どうも、僕は追われていたようなのです」
「追われていた」
「えぇ、その………凡そ現実とも思えぬような、
「妖に」
珍しく、彼女の言葉は僕の言葉を復唱するばかりであった。
夢の話とはいえ、荒唐無稽過ぎたのだろうか。不安になりながらも、僕は話を続ける。
「手足が針金のように長く、肌が透明なのか、その下の筋肉が目に見えていました。それが天井を、這うようにして追ってきたのです」
「這うように………」
「………どうか、されたのですか?」
どうも調子の違う彼女におずおずと尋ねる。
僕の問いかけが聞こえているのかどうなのか、彼女は腕を組み、何事か考えるように俯いている。
僕は大人しく、自身の湯呑みを口に運んだ。
あくまでも、僕は彼女の話し相手だ。彼女が僕の話し相手であるわけではない。彼女が話したければ話し、そうでないのなら沈黙する。
「………実は、私も夢を見たのです」
濃茶色の珈琲の甘さを、湯飲み半分ほど味わった頃、彼女がぽつりと口を開いた。
「追われる夢でした。先生と同じように」
「僕と、同じ? 手足の長い、筋肉で出来た犬のような妖に、ですか?」
「いいえ。………違うと、思います。私は、相手の姿を見ませんでしたから。追われている、という感覚だけがあるのです。夢で良くあるでしょう、自分のおかれている状況が、どれ程無理なものであれ、容易く受け入れてしまうような………」
どうやら、話す手番は入れ替わったらしい。
不本意、という訳ではない。何しろ断片的な悪夢でしかない僕の夢を語るよりは、彼女の夢を聞いた方が実りのある時間だ。
出来れば、穏やかな夢をお願いしたいところだが、まあ、そうはいかないだろう。
僕は湯呑みを覗き込む。残り半分、足りるかどうかだけが、不安なところだ。
「私を、追い掛けていたのは………」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます