第11話/裏 夢、落ちる空。

「私が降りていくと、辺りの空気が変わりました」


 何の話だっけ、と僕は一瞬思った。


 窓から射し込む西日が、その赤さが、僕の記憶を刺激した。

 そうだ、夢の話だった。何処かでような、空を飛ぶ夢。


「建ち並ぶ団地、その窓から覗く人々が気配が色濃くなったのは勿論ですが、それよりも、の景色が変わったのです」

「盆?」

「例えですよ先生。私が降りようとしていたのは、そんな、盆を思わせる人工的な丸みを帯びた窪地だったのです」


 それを言うなら椀の中とかではないかと思ったが、僕は黙っていた。

 話の本筋には関係無いし、そんなところに目くじらを立てずとも良いだろう。

 話し手がそう言っているのだ。そう聞けば良いだけの話だ。


「私は、その盆が、磨かれたように滑らかであると思っていました。いえ、それどころか、その通りに見えていたのです」

「滑らか、えっと、豆腐を匙で掬ったような?」

「えぇ、そうですね。まさにその通り、抉り取られたように、地面がただへこんでいると思っておりました」

「それが、違った?」

「違いました」


 夢というのは、認識によって変化するものだ。抉られた豆腐のようと思えば豆腐であるだろうし、そうでないと思えばそうでなくなる。


「底には、

「痕跡?」

「真面目に聞いていますか? 先生は鸚鵡おうむのようです、先程から」


 彼女は非難するように僕を睨む。

 長椅子から身を乗り出し、朱色の唇を引き結び。真っ黒な扁桃アーモンドに射竦められ、僕は堪らず視線を逸らして珈琲に逃げ込んだ。

 砂糖を入れた筈だが、甘くはない。


「失礼しました。僕はその、話を全て聞き終えてから、自分の意見を言う性格でして」

「では、約束して下さいますね。最後には、先生の御意見を聞かせて下さると」

「えぇ、勿論です」


 僕の大人らしい、安易な口約束と結論の先延ばしを真に受け、宜しい、とばかりに彼女は微笑んだ。

 微笑ましいような、後ろめたいような。


 こういうとき、やはり僕の事を彼女は良くご存じだと舌を巻く。

 僕の如き小心者を相手にする要点を、確り抑えている。詰まるところ、僕に裏切らせないためには、


 貴方を信じます、約束しましょう、ここだけの話ですが………。

 信頼に信頼を返さないと不安になるような僕にとっては、彼女からの信頼は首に巻き付いた鎖と同じだ。

 今は未だ、地に足が着いているが。

 いつかは、この鎖に吊るされる事になるだろう。


「景色は、どう変わったのですか?」

 僕は鸚鵡おうむを辞め、人間のように尋ねる事にした。「痕跡とは?」

「やれば出来るのにやらないのが先生の悪徳ですね。………底にあったのは、私が探していたもの。霧が晴れるように私の視界に浮かんできたのは、追い求め、焦がれ乞い続けたもの。


 彼女は、恐らくはわざと、話に一拍置いた。

 湯呑みを口に運び、珈琲で喉を潤しながら、その瞳で僕を観察する。

 自分の言葉の効果を良く良く眺めてから、彼女は勿体付けながら口を開いた。


「底には、


「………村の………跡?」

「廃村、と言うのでしょうか。私は見たことは有りませんが、先生はご存じでしょうか? かつて人が長閑に暮らしていたであろう、その痕跡です」

「僕も、見たことはありませんが」

「崩れ掛けた土壁に、苔むしたわら屋。野晒しの田畑には木とも草とも付かぬような植物が、我が物顔でのさばって居りました。若し私に禁忌、【地に足を着けてはならない】という決まりが無くとも、ぬかるんだその地面を歩きたいとは思わなかったでしょうね。

 ………不思議な感覚でした。打ち捨てられた家屋など、明らかに人の居た痕跡というのは、確かに誰か居た筈なのに、それが丸っきり信じられないものなのですね」


 まるで、最初からそうであったかのよう、と彼女は呟いた。


 崩れ果てた家は、もうどのように建っていたかも解らなくなるのであろう。

 終に死んでしまった人間が、どのようにして動いていたのか思い出せなくなるように。


「可笑しいですよね。くれえたあ、と言うのでしょう? 空から隕石が降って、地面を抉る。けれどもだとすれば、あんな風に村が残るわけもないのですけれど。

 私、幽霊になった気分でした。

 村の跡を物珍しげに眺めながら、その隙間を飛び回る、不確かな存在に」


「やがて飛んでいくと、私はとうとう見付けました。廃村の真ん中、恐らくは井戸か何か有ったのでしょう、窪みの中にさらに窪みが有ったのです。その、底の底に、有りました」

「何がでしょうか?」

「最初に申し上げたでしょう、盆の底に、大切なものがあると。夢の中で私はそれを確信したと。酷いわ、聞いてらっしゃらなかったのですか?」

「いえ、その………」

「それを見付けたのです。綺羅のように輝く大切なもの」


 大切なもの。

 夢の中で、彼女もそれを見たような気がする。そして彼女は、危険を予見しながらも、手に入れるために飛び立った。


「大切なものは、いつだって中心にあるものです」

「いつだって、中心に………」

「地に足を着けてはいけません、先生。爪先の、ほんの先だけだとしても、触れてしまえば終わりです。影に、捕まってしまいますから………」


 声が遠くなる。

 窓から射し込む茜色が、世界と僕との輪郭を、あやふやに溶かしていく――。

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