10.昔語り

 雪花亭の使用人の中でもローズオンブレイは特に外出が多く、昔の医者仲間に会うだの、なにかの研究会だのでひんぱんに邸を不在にしている。

 知的職業の医師は、聖職者や弁護士とともに紳士階級に含まれるため、常から邸の階上で生活し、ほかの使用人のように力仕事をすることもない。そこが紳士階級の教育を受けながら執事となったコハクとは違うところだ。

 勉学に集中できるのは連続して三時間が限度、との自説を唱えるローズオンブレイの方針で、リィンセル(近ごろはアリアドネも)との授業は、休憩を挟みながら一日に数時間程度だ。それ以上の時間的拘束は、家庭教師に不当な待遇といえる。

 午前と午後のどちらに授業をおこなうかは、日ごとのスノードロップ家の都合、あるいはリィンセルやローズオンブレイの予定によって変わった。

 その日、ローズオンブレイが古書市に出かけるというので、授業は午後になった。

「乙女の学習に役立ちそうな本を探してくる。姫様には、フラン語とガリア語のご本をお土産にお持ちしよう」

 朝食のあと、食後のお茶もそこそこに、気ぜわしく出支度をするローズオンブレイが言った。

 リィンセルは亡き母親がフラン語をもっぱらにするブリタージュ公国出身だからか、あちらの語学に熱心だ。

 貴族の邸の蔵書は財産の一端とはいえ、弱冠七歳にして古ガリア語まで読みこなすほど聡明なお子ならば、数年内に書斎の本をすべて読みきってしまう恐れは、コハクだけでなく、ローズオンブレイにも共通の思いであったらしい。

 ローズオンブレイを送り出して、コハクはひるまで温室の手入れをするつもりで、階下から地上へあがった。

 あたりで半野良の犬猫がたわむれるパークの人夫小屋で梯子と鉈を借り出し、低木への日差しを遮る高いところの枝を落としていると、雪花亭を彩る生花を取りにエヴァグリン夫人が温室へ顔を見せたので、コハクはほころびかかったピオニーとクレマチスをとりまぜ、ひとかかえほど切った。

「コハクは昔から、イヴォークよりうちの人に懐いてたわねえ」

 エヴァグリン夫人が言う「うちの人」は、ジョゼのことだ。

「無口でとっつきにくい父と比べて、ジョゼはとにかく陽気な人でしたから。伏せった母に代わってあなたにもよく面倒を見ていただいたし、知らない人からすれば、自分はあなたがたの子どもだと思われたでしょうね」

「なにを言うのよ。あなたは認めたくないでしょうけど」

 日ごろおっとりした夫人にしては珍しく、憤慨した口調だ。

 ジョゼに先立たれたエヴァグリン夫人には子どもがなかった。とはいえ、貴族の使用人は仕事柄、結婚しないことも多い。代々、白雪公に仕える執事ボイドが子をもうけるのはなかば義務のようなものだが、スノードロップ家の使用人が家庭を持ちやすいのは例外的なことだ。

「あなたを見ていると、若いころのイヴォークを思い出すわ」

「自分と父が似ていると?」

「似てる、と、思い出す、は別物じゃなくて?」

 夫人は訥々と言葉を継ぐ。

「ハクロ坊っちゃまの遊び相手の男児を見つけてくるつもりが、イヴォークが連れてきたのは女の子のアルマで、そのときハクロ様がおっしゃったのよ。『この子にはイヴォークのほうが合う』って」

 リィンセルの賢しさからも察せられるとおり、先代白雪公のスノードロップ少尉は炯眼といおうか、ものの本質を見通すようなところがおのずからあった。

 コハクの母アルマが生前、「この邸に来られてよかった」といったようなことを、たびたび口にしていたのはたしかだ。海のむこうの遠い異国に働き口があると言われ、貿易船に乗りアルビオンまではるばるやってきた少女が、偶然が重なって貴族の館の使用人になれたのは、実際のところかなり幸運だろう。今にしてコハクが、世の道理が多少わかる歳になればこそ、当時の母の言い口も腑に落ちるのだが、ガキの時分は、父と出会えてよかったのだと遠回しに惚気話をされたとばかり思っていて、ずいぶんと面白くない気分を味わったものだ。

「旦那様のお言葉なら、なんであれすべて飲み込むのが父という人ですよ」

 われながら、ずいぶんあてつけがましい言い草になってしまい、切り花を古新聞紙に包むそぶりでコハクは顔を伏せた。

 ほかはともかく、夭折した母のことが話題にのぼると、コハクはどうしても感情的になりがちだ。

 コハクとしては、父が家族をないがしろにした、とのわだかまりを長年かかえ続けている。その『ないがしろにされた家族』はコハクと母であるはずが、母が父への恨み言をもらしたことは一度もない。

 今にして思えば、いつかコハクとイヴォークが和解する未来がおとずれることを、アルマは願っていたからこその態度だろうが、当時ガキだったコハクは、母親に味方してもらえず見捨てられたようなみじめさを突きつけられたにすぎなかった。

 親子と夫婦では、互いに通いあう愛慕の情も違ってくる。

 親に見捨てられた子ども、との卑屈さを拭えないまま母は亡くなり、コハクとついに和解することなく父も逝った。遺されたのは、『二心ありき』で父と同じ執事になったコハクだけだ。

「まだ独り者のくせに、夫婦のことに言及するなど軽はずみでした」

 肝心のところを誤魔化すために、詫びの言葉を述べるコハクの手から花を受け取るエヴァグリン夫人は、「もしかして、結婚を考えているの?」と心配げに聞き返した。

 ローズオンブレイは口の軽い人物ではなさそうだが、夜半の中庭でコハクが妻を娶るだのもらしたことを周囲に秘密にする義理もない。夫人の口から結婚の話題が出たなりゆきはどうあれ、現実的な話ではなかった。

「執事ボイドとしては早いにこしたことはないのでしょうが、相手のいることですから」

 言葉を重ねれば重ねるほど、ろくでもないことばかり口走っている気がする。

 案の定、夫人が眉をひそめた。

「執事がどうとか言うのはよしなさい。義務で求婚されるお相手の気持ちになってみることね」

 しかし、コハクの父イヴォークが、義務などまったく考えずに母に求婚したとは限らない。先代白雪公スノードロップ少尉の、予言めいた言葉の件もある。

 父のしたことが許されて、コハクには許されないなどという法はないだろう。

 父と同じになりたくないのか、なりたくないのに似ているのか、コハクは自分でもときどきわからなくなる。

 温室から母屋に戻るエヴァグリン夫人の、花をかかえた後ろ姿は小さかった。

 コハクが大人になったぶん、夫人にはジョゼのいない年月が過ぎ、そのぶん歳をとった。コハクの母アルマが生きていれば、同じだけ老いただろう。だが、コハクは母を、イヴォークは妻を、歳月にまかせることなく死神に奪われた。

 後悔という言葉では言い表せない感情だった。




 書斎の壁を飾るいくつかの額絵のうち、ひとつは初代白雪公の肖像画だとリィンセルがアリアドネに説明した。

「ベニントンのカサブランカ城には、歴代の白雪公の肖像をならべた回廊があるんだけど、雪花亭には初代のものだけね。初代の隠居宅もこのあたりで、十七世紀のロンドン大火で焼けてしまったんですって。雪花亭はそのあとに建て直したものなの」

 暖炉のマントルピースのすぐ上を占める肖像画は、書斎にかかる絵画のうちでもひときわ版が大きい。

 軍服姿の初代白雪公は、痩せ気味なのはリィンセルと似ているようだが、頬肉のそげ落ちた神経質そうな堅い顔つきをしている。ほかはともかく、やはり髪はこのころから黒檀のごとく黒い。絵画の知識などさっぱりなアリアドネの素人眼に、カンバスの中にいるのは、初代白雪公というより苦悩多き青年、といった風情だ。軍服でなければ文学に傾倒する芸術家肌に見えるだろう。

 肖像に目をやるアリアドネが肩のショールをかけ直すのを見たリィンセルは、彼女の手を握って「次は温室に行きましょう」と言った。

「今の時間だと執事さんがいるはずよ」

「コハクはわたしたちを邪魔とは思わないわ」

 そうかしら、と疑わしそうに言うくせに、アリアドネはすんなりとリィンセルの手に引かれて、書斎の掃き出し窓から中庭へおりる。

 まばらに冬枯れしはじめた芝生を踏みしめ歩いていくと、ひと束の切り花を腕に、階下へおりるエヴァグリン夫人の姿が、裏口側の階段へ消えかかっていた。

 リィンセルとアリアドネが温室に姿を見せたとき、コハクは刈り落とした枝をまとめて外に放り出すところだった。

「コハク、待雪草を見ていいかしら?」

「姫様のお望みでしたらば」

 フロックコートとタイを外した、枯れ葉まみれのシャツだけで庭師のような姿をしたコハクが慇懃に応じる。

 暖炉に火をいれた雪花亭もあたたかいが、土と緑のにおいが濃い温室の空気を吸い込むと、アリアドネは心が安らいだ。

 温室の一角、春に咲く花の株を集めたところに案内される。

「この待雪草エルヴェジーは、うちの家紋になってるものよ。スノードロップ家のご先祖が、ターキル国で見つけた新種なの」

「今は花の時期じゃないのね」

 緑葉だけの株を前に、アリアドネが言った。

「待雪草が咲くには、冬の寒さが必要だ。これから植え替えをする」

 そう応じたコハクは、アリアドネたちとは少し離れたところでスコップを手に、木箱の土をならしている。

「姫様。星星が水路のあたりにおりますよ」

「あなたたち、いつの間に仲良くなったの?」

「執事のことはともかく、星星は温室が気に入っているようです」

 さっそく水路へ駆け出したリィンセルの後ろ姿を見送るコハクの、銀縁眼鏡の下で切れ長の両目が弓なりにたわむ。

 その場に棒立ちのアリアドネを一瞥し、コハクは土をいじるそぶりで目をそらした。

「執事さん。ここに花の香料はある?」

 リィンセルのあとを追うだろうとばかり思っていたアリアドネに話しかけられ、コハクはうろたえた。

 無言のまま、折りたたみ椅子や植木鉢をまとめた道具置き場に近づいたコハクは、棚に並ぶガラスの小瓶をあれこれ見比べて、透明のものをひとつ手に取り、アリアドネに差し出す。

「バラでいいか」

「ええ、ありがとう。ちょっと使わせてもらうわ」

 アリアドネはまだ話し足りない様子だったが、話題が見つからなかったようだ。コハクも、さきほどのエヴァグリン夫人との会話ではないが、口を開けばボロが出そうで何も言えなかった。

 沈黙に耐えきれなくなったのか、腕に落ちたショールを肩に引き上げたアリアドネは、香料の小瓶を握ってコハクのそばを通り抜けた。




 午後から厨房にこもっていたアリアドネは、ローズオンブレイが邸に戻り、リィンセルとともに授業を受ける時間になると、茶器をのせた銀盆を手にせかせかと階下から書斎へあがってきた。

「待雪草のことを、温室で聞いたものだから思い出して。ターキルのお菓子をこしらえたの。ここらじゃディライトと呼ぶみたいだけど、ターキルではロクムといってたわ」

 糖蜜とバラの香料にでんぷんを加えたものを煮詰めて固め、さらに粉砂糖をまぶしたやわい飴のような菓子を盛りつけた皿を先に薦めておいて、アリアドネはお茶をいれる。

 まずロクムをつまんで口にいれたローズオンブレイは、ターキル菓子のあまりの甘さに、もじゃもじゃ頭の赤毛が逆立つほど顔をしかめた。

「……乙女のサーカス団は、印度から大陸中東部のターキルを通って、旧ガリアのフランセーズ王国、ブリタージュ公国のカレー港で貨船に乗り、このアルビオンにたどり着いたというわけか」

「そうよ、先生。ドーヴァー海峡を渡る船で、アルビス島の白い断崖アルビオンが見えたわ。さあ、お茶をどうぞ」

 アリアドネの差し出すカップにクリームもなにも入れず、ローズオンブレイはそのまま一気に流し込む。それでも、あとを引く甘さは消えなかったらしい。神経質そうな手つきで、上着といわず赤毛といわず、そこらじゅうを掻きむしった。

 もじゃもじゃ頭が振り乱される中、「失礼いたします」と前触れしたコハクが、足音高く書斎に踏み込んでくる。

「ラズーリ嬢、また女中の仕事を横取りしただろう。君はこの家の書生預かりであって家事奉公人ではないと、何度言わせるんだ」

「料理人のいないお邸で、お茶汲みぐらいじゃヴァイオラの仕事が減るもんですか」

 若い娘につんけん言われるのがよほど癪に障るのか、コハクはフロックコートの肩をいからせ、わざとらしく長嘆した。

「まったく、口の減らない……」

「コハクもお菓子をおあがりなさいな。干しナツメいりのがおいしいわ」

 慰撫するように言うリィンセルのとりなしに、コハクはいったん愁眉を開いたものの、お可愛らしい女主人の足元で、今日も当のごとく星々の存在感のある体躯が白と銀の縞模様をうねらせ丸く控えているのを見ては、いかめしい顔つきを作り直した。その一方で星々はというと、ひたいの銀星の下で金の双眸をギラリとひらめかせ、なにかと口うるさい執事をひとにらみしただけで、すぐ興味を失ったようにそっぽをむいた。

「ラズーリ嬢がロクムをこしらえたのか」

「せっかくですから、執事さんもお座りになったら。お茶をいれてさしあげます」

 そうでも言わないと、コハクの性分からしていつまでもそこらを立ち歩かれたりするうえ、文句の多いのが邪魔くさいと思われたのだろう。渋面のコハクがそれとなく星々から離れた席に回ると、さっそくいれたての熱いお茶が前に置かれた。

 アリアドネのいれるお茶を三杯もおかわりしたローズオンブレイが、今度は干しナツメの入ったロクムを用心深くつまみあげ、「干したナツメヤシは、甘味をおさえる効果が」ともっともらしく言う。

「今日は少々趣向を変えて、ガリア語の授業はとりやめだ。乙女が印度からアルビオンにいたる旅程でたどった道筋は、十字軍の経路と一部が重なっている。ベニントン公爵家が興される前はマネット地方の領主でニヴァリス家といい、そのときのご当主は、東夷の国々との交易をおこなうキャラバンに同行して、大陸各地をめぐる冒険行に出ている。これも乙女の旅程とどこかでかぶっているだろうな。もっとも、帰りは船を使ったそうだが」

「じゃあ、パークの名前は、この家がスノードロップになる前の家名からつけられたのね」

 銀のポットをおろしたアリアドネが席につくのを待って、リィンセルは話を引き継ぐ。

「キャラバンと冒険した当主というのが、初代白雪公のご父君、ナサニエル卿。大陸の東の果てまでたどりついた卿は、唐人の国で熱病にたおれられてね。そのときに看病してくれた大商人の家のメイランという娘さんをお嫁さんになさって、船でアルビオンまで連れ帰ったのですって。だから、スノードロップ家始祖の初代白雪公は東夷人ジーペンとの混血なのよ。『唐人メイラン』とはいうけど、当時の大陸東端の国はたしか、明朝国だったかしら。ほんとうは、唐人の国はもっと古くて、千年ぐらい前だそうよ。今は秦ノ国ね。先生がそうおっしゃっていたわ」

 話すうち、寝そべっていた星々が前肢を立て、銀星のあるひたいをこすりつけてきたので、リィンセルは和毛のはえそろった耳のうしろをやさしく掻いてやる。

 温室での姿とはうってかわって、執事らしい身なりを厳格に整えたコハクが、手もとのお茶の水色すいしょくに目を落としつつ、どことなく忘我な調子で口を開く。

「大陸とは海を隔てた極東の島国への渡航を計ったナサニエル卿は、おりもおり、旅枕に病を得、キャラバンと交易でつながりのあった明朝国の豪商・ハン氏の世話を受けて恢復、藩氏の子女の梅蘭メイランは、のちにナサニエル卿に娶られ……、メイランの名は春を先触れする花であることから……アルビオンではプリムローズとも称された……」

 誰に請われるでなしに喋りすぎた含羞からか、語尾につれ弱くなるのをごまかすようにコハクはカップを取りあげ、お茶でくちびるを湿らせた。

「執事さん、くわしいのね?」

 珍しいものを目の当たりに、アリアドネの大きな碧眼がこぼれおちそうほど見開かれた。

「ナサニエル卿は、植物学者でもあったのだ。極東の島国には、そこにしかない珍しい花があって、その株を採取するのが目的だったが、熱病で体がひどく弱ってしまい、キャラバンともわかれ、婚約者のメイランを付き添いに、航路での帰国を余儀なくされた」

 植物学を志したことのあるコハクは、さも当然、といったふうな口ぶりだ。

「その花って……」

「アジサイだ。アルビオンのどこにもない、青い花が咲く」

 青い花、と聞き、アリアドネと、リィンセルも感嘆の声をあげた。星々がざわめきに呼応して、身震いする。

「その花を見たことは?」

 干しナツメのロクムをそっと皿に戻して、ローズオンブレイが訊いた。

「じかには一度も。このスノードロップ家には、ナサニエル卿が編纂した植物図鑑の原本が保管されておりまして、明朝国で船乗りから聞いた話をとりまとめて描いたといわれるアジサイの図譜を見たのが、唯一のことで。かの島国は、つい近頃まで二百年あまりにわたり、ネーデルラント以外との交易を禁じて鎖国しておりましたので、これまでにアジサイの株なりを持ち出した事例といえば、やはりネーデルラントの商人によるものが少ないながら報告されておりますが、どうもよその土地では青い花をつけることができないようです。図譜のアジサイは、ラピスラズリを砕いた顔料が用いられたので、やはりこれほど青い花となると、想像の産物ではないかとの説が有力で……」

「誰も見たことがなければ、そうなるだろうな」

 だったら、とアリアドネが声をあげる。

「ここの温室にあれだけたくさん植物があっても、アジサイはないっていうの?」

「あるにはあるが、青い花ではない。赤紫色だ」

「ふむ、リトマス試薬に似ている……」

 学術に通じたローズオンブレイが、なにげなくつぶやいた。




 今日に限ってコハクをまじえ、スノードロップ家が興ったころの話に終始したローズオンブレイは、夕方には授業を切り上げた。とはいっても、授業らしい授業はしていない。

 白と黒の両公爵家の因縁をアリアドネに話すのに、ローズオンブレイがきっかけを作ったのかもしれないが、そのことをコハクは問いたださずにおいた。

 リィンセルは、古書市で発掘されたフラン語やガリア語の本を何冊もかかえて、星星と子ども部屋にこもり、夕食までの読書にふけっている。

 書斎で茶器と菓子の皿を片付けるコハクに、アリアドネが歩み寄った。

「これはお返しするわね。せっかくだけど、あまりうまくいかなかったみたい」

 彼女の差し出す透明なガラスの小瓶を、コハクは受け取ってフロックコートのポケットに落とした。

「そんなときもある。気にしないことだ」

「平気よ。あとは私がやるわ」

 もとはアリアドネが運んできた銀盆を、コハクが取りあげかかるのを引き取ろうとしたが、手ぶりで止められた。

「これは執事の仕事だ」

「邪魔をするなって?」

「職を失ったら路頭に迷う。そんな非道はよしてくれ」

 冗談を言ったつもりはないのに、アリアドネはふっと吹き出した。

「あなたがそんなふうなのって、ジーペンだから?」

 茶器の乗った銀盆を両手に、コハクは肩をすくめる。

「どうだろうな。もともとジーペンというのは、極東の島国の名だ。それを大きく解釈して、東夷人を指すものとされた。自分の母は、その島国から貿易船に乗ってアルビオンにきた、正真正銘のジーペンだ」

「あなたのお母さんって……」

「自分が七歳のときに亡くなった。この国では『アルマ』と呼ばれていたが、本当の名前は日比木有摩ヒビキ アリマだ。ジーペンの名は発音しにくかったんだろう。自分の名前の『H』は、母の苗字からもらったものだ」

 いったん立ち去りかけたコハクが、足を止めた。手にした銀盆の茶器が、かすかな音をたてる。

 アリアドネが、コハクの背中に触れていた。

「リィンセルがお父さんを亡くしたのと同じ歳で、あなたはお母さんを? お父さんは、リィンセルのお父さんと同じときに亡くなられたのね?」

「君は、家族のことになると感傷にすぎるな」

 若い娘の手のひらだ。さほど大きくはない。なのに、フロックコートを隔ててコハクに感じられる体温は、背中全体が火傷しそうなほど熱かった。

「母は自分の国でアジサイを見ている。その母が図譜のアジサイを見て、よく描けていると褒めていたんだ。ナサニエル卿は熱病のために島国へ渡ることは叶わなかったが、メイラン夫人の父親の藩氏が、商売の伝手をたどって入手した株が、今もこの雪花亭の温室にあるアジサイの親株になっている。図譜の編纂にあたり、ナサニエル卿は明朝国での滞在中にかなり微に入り細に入って、船乗りや交易商人から島国でのアジサイの色つきを聞き取っていたのだろうな」

 いつのまにかアジサイの話になるコハクは、よほどの植物好きだ。

「青いバラを見たことは?」

「ありえないわよ」

 体温が離れるのは名残惜しくても、あくまで理知的なふるまいから半身を返したコハクが、言を弄して小娘をあしらったとでも思ったのだろう。ショールのかかる肩をいからせ、大きな目をいっそう丸く見開くアリアドネの碧眼の色が、この世にない青いバラがここにあるかのように、コハクを錯覚させる。

「白いバラを、青のインク壺にひと晩差しておけば、水分を吸って花びらが青くなる」

「執事さん、私をからかってるでしょう」

「そうじゃない。先生もおっしゃったが、アジサイは土によって色が変わる。この温室にあるアジサイは長い年月をかけて肥料や土をいろいろ調べているが、それでも確実に青い花をつける方法はわかっていない。同じく、青いバラを咲かせることは、育種家の夢だ。その青バラの夢が見られるよりずっと昔から、この家は続いてきた」

「……リィンセルのご先祖が、白雪公になる前のこと?」

「聞きたいか? 長い話になる」

 アリアドネはすぐに返事をしなかった。

「自分が、君に十字短剣をむけてしまった日。あの場にいた紳士にも関わりがある」

 コハクが思い切って言うと、アリアドネの表情と体がこわばった。先ほどまですぐそばに近くあった彼女が、じりじりと後じさる。

「サリバン卿が?」

「あのかたが、そう名乗られたのか」

「私に名前を隠す理由がないわ。嘘をついているとは思えない」

「厳密には違う。あのかたは、ダネル・サリバン・セングレン公、すなわちレイントン公爵だ。このスノードロップ家と双頭を為す、アルビオン大英帝国のふたつの公爵家の片翼。白雪公に対する黒馬公。リィンセル姫様が白雪姫なら、あのかたは黒太守だ。白と黒の両公爵家を数百年も因縁で縛りつける、復讐の連鎖……。白雪公の執事ボイドは、黒馬公を屠るものと定まっている」

 屠る、と聞き、短く悲鳴をあげたアリアドネは、口元を両手で覆った。

「そんな、そんなのって……。あのかたが、なにをしたっていうの。あなたに、なにがあったの……」

「知る気があるなら、話そう。姫様にお許しをいただいてから」

 立ち止まっていたコハクは、ふたたび背中をむけて歩き出す。書斎のドアノブに手をかけたところで、アリアドネが「教えて」と声をあげた。

「全部、話して。知りたいの。リィンセルのことや、サリバン卿のことも。あなたがとらわれているのはなんなのか」

 アリアドネの勇敢さは生来のものだ。その勇ましさをもってしても、両公爵家の復讐の因縁、執事ボイドが過去から連綿と受け継いできた、血塗られた歳月のことは拒絶されるかもしれず、一度はコハクに触れた体温が、二度と取り戻されないとしたら、それはひどくつらいことに思えた。

 コハクはいっとき、意志の強さのあらわれたアリアドネの美しい顔つきを、これが最後になる恐れとともに凝視する。

 それでも踏ん切りをつけたあと、首肯してドアを出て行った。




…… 次回 【始祖編】 11. ……

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