9.短剣の花嫁

 淡い暁光が階下にも届く朝方、地上と階下をつなぐ階段を降りてくる軽い足音があった。

 家令のアダムシェンナとローズオンブレイ医師をのぞいた使用人が、厨房に参集して朝食の準備に忙しくしている最中のことだ。もちろん邸の執事のコハクもかり出されている。

 朝は特に、一日の食事の仕込みのできるところをまとめてすませるので、人手は多いほどいい。

「執事さん、今よろしい?」

 毛皮の外套を着込んだアリアドネだった。

 たまたま厨房の戸口に近いところにいたのが、腕まくりをしオーブンへ鉄鍋を放り込むコハクで、声をかけたらしい。

「なにか?」

 彼女に十字短剣をむけて以来、謝罪を受け入れていようが、物怖じしないはずのアリアドネはコハクによそよそしい。よって、いかめしい執事のコハクのほうでも、変にぎくしゃくした態度になってしまう。

 それでも、コハクを頭ごしにして他の使用人を呼ばないあたり、あからさまに不躾なふるまいはアリアドネも自制していた。

「父さんから手紙を預かってきたの。私がリィンセルに渡してかまわない?」

 アリアドネの養父ラムダスのサーカス団は、明日パークを引き払うことになっている。別れの日を前に、ここ数日リィンセルと朝食をともにしているアリアドネは、印度の踊り子ながら、貴族の邸の階上でリィンセルやローズオンブレイ医師と食堂の席を同じくし、同じものを食べるのが日課になっていた。

 ローズオンブレイ医師は以前から、スノードロップ少尉とリィンセル父娘の朝食に、紳士としてたびたび同席を求められてきたそうだが、少尉亡き今は、幼いリィンセルを一人で寂しく食事させないため欠かせない人物になっている。

 封のされていない手紙をアリアドネの手から受け取ったコハクは、にじんだインクで『白雪姫様へ』としか書かれていない表書きを、いっとき見つめただけで差し戻した。

「問題ない。ラムダス氏は信頼のおける人物だ」

 戸口をふさぐコハクとアリアドネの両人がまだなにか言いたげにしているところへ、厨房の真ん中で野菜を刻むヴァイオラから声が飛んできた。

「アリアドネはん! ほんに悪いけんど、子ども部屋まであがって姫様を起こしてきてくれはります? 今朝のお着替えは昨夜ゆんべから用意してありますさかい。お手水で顔を洗うて、そんで着替えのお手伝いを。姫様はなんでも上手にできなさる御子であらしゃるんで、わてが用意したお召し物とは別のがええとおっしゃったら、そのとおりになさっておくんなまし」

 声を張るヴァイオラの隣では、サフィルが色濃い両手を白い粉まみれにしてパンをこね、背中を向けたエヴァグリン夫人は寸胴鍋をかき混ぜている。

「いいわ、部屋は二階よね。階上うえにアダムシェンナさんがいたら、なにか手伝うことはないか聞いてみるわ。食事の前だとローズオンブレイ先生は書斎で新聞を読んでるはずだし、着替えたらリィンセルのことは先生に見てもらうわね。ヴァイオラたちは厨房をお願い」

 コハクの指先から手紙を抜き取ったアリアドネはきびすを返し、跳ぶように階段をあがっていく。彼女が走り去ったあとには微風が残った。

「コハク様! ぼうっとせんと、オーブンを見るよろし!」

 お客に侍女の仕事を肩代わりさせるなと叱るより早く、背後からヴァイオラの追い討ちがあった。




 朝食あとのお茶は書斎で、と決まっている。

 お茶をすませたら、リィンセルはそのままローズオンブレイ医師との勉強時間だ。

 紳士であれば、特に晩餐後は喫煙室や撞球室へ移動して葉巻と酒をたしなむ。女性は別の談話室などでお茶とおしゃべりだ。貴族の慣習にとらわれない雪花亭では、そもそも室数が限られるのもあって、等しく一室に集った皆で茶を喫することになっていた。とはいえ、婦女子同席で煙草をふかすのは紳士のふるまいに反する。どうやらローズオンブレイは、出先のクラブで煙草をたしなんでいるようだ。

 アダムシェンナとコハクの二人が、階上の食堂と階下の厨房を交互に行き来して朝食の給仕をし、いったん階下へ引っ込んだコハクは、あわただしく茶器をたずさえてまた階上へとあがる。

 書斎の前では、コハクが苦手にする星星と鉢合わせた。星星のほうも、なにかにつけて融通のきかない執事を三白眼で睨みつける。食堂をしめ出された星星は、書斎であれば入れてもらえる。

 食後のリィンセルが書斎にきて、書机そばの肘掛け椅子に座ると、その足元に星星が白銀の体躯を長々と寝そべらせた。

「ラムダスさんがわたしにお話したいことがあるそうよ」

 星星をかたわらに、手紙に目をとおしたリィンセルが言うと、食後のお茶に口をつけていたアリアドネが首をかしげる。

「父さんたら、まだお礼が言い足りないのかしら。リィンセルに感謝してもしきれない気持ちは私も分かるけど、迷惑ならやめさせるわ」

「そんなことないわよ。コハク、お茶がすんだらラムダスさんをここにお呼びして。先生とお勉強の前に聞くわ」

「承知いたしました」

 幼い女主人に手紙の始末をまかされたコハクは、それを星星とは離れたところから受け取り、書斎に備えつけの螺鈿をほどこした文箱へしまう。

「ローズオンブレイ先生。お茶のおかわりはいかがですか」

「いや、結構。執事殿はラムダス氏をお連れしたまえ。印度の乙女も同席されるがよかろう」

 ローズオンブレイ医師は常からひねくれた気質だが、アリアドネをそんなふうに呼ぶのをコハクは初めて耳にした。

 数分もたたないうちに、コハクはラムダスを伴って書斎へ戻ってきた。

「今日は厚かましくも、このラムダス、白雪姫様にお頼みしたいことがあってまいりました」

 いきなり頼み事とは穏やかでないと、アリアドネは養父の言い口に緊張している。

 茶人帽をはずしたラムダスは、まず深々と頭をさげた。コハクがお茶を給仕しかかるのを断り、腰を低くしたまま話し出す。

「わが娘アリアドネを、こちらのお家に置いていただけませんでしょうか」

「父さん?! 急になにを言い出すのよ!」

 席を蹴る勢いで立ち上がる義理の娘を振り返らず、ラムダスは正面に座るリィンセルだけを見つめる。

「あなた様もご存知のとおり、わが娘はアルビス人でございます。この国には娘と血のつながった肉親、あるいは親族がおりましょう。そのいずれかを捜し出すのに、根なし草のごときサーカス団とともにいつまでも居場所が定まらずにおりましたら、ただでさえ困難なものがさらなる困難を増し、見つかるものも見つかりますまい。ここはひとつ、白雪姫様のご庇護のもと、アリアドネにはひとところに腰を落ち着けて探索をしてほしいと願うのが、今日まで娘を育てた親心というものであります」

「ラムダスさんはお優しくていらっしゃるのね。本物のお父様だってあなたほどの深い思いやりをお持ちとはかぎらないわ」

 そこで耳障りな金属音が起こった。手を滑らせたコハクが銀のポットを取り落としたのだ。さいわい、手もとを少々誤っただけで、繊細な磁器のカップや茶器のいずれも壊れたものはなかった。ローズオンブレイ医師のむける、いぶかしむような視線を受けた『二心ありき』のコハクは「失礼を」とだけ言い、女主人の話の腰を折ったことを執事らしく恥じた。

「無理をお頼みしておりますのは、百も承知でございます。どうかわが娘を、アルビオンの婦人らしく教育していただけましたらば、このラムダスの積年の望みがかないます」

「では、書生あずかりというのはどうかしら。うちにはローズオンブレイ先生がいらっしゃるし、学校にいかなくてもお勉強できるわ。それに、アリアドネの実の親御さんをさがすのを、わたしもお手伝いしたいの」

「二人とも待ってよ! 勝手に決めないで!」

 アリアドネは苛々と書斎をやみくもに歩き回っている。

「私、ずっと父さんやサーカスのみんなと一緒にいられるもんだとばかり思ってた」

 よほど動揺したのか、地の訛りがほころび出る。

 ラムダスが体の向きを変え、義理の娘に近づいた。

「アリアドネ。なにがあってもおまえは、このラムダスの娘だ」

「じゃあ、なんで私をここで放り出していくようなことを言うんよ」

「おまえがどこからきたのか。それが分かれば、おまえがこれからゆく道のしるべになる」「いやよ、父さん。私、印度の踊り子でいい」

 子どものようにわんわん泣き出したアリアドネを、ラムダスは娘の倍以上ありそうな体で抱きしめ、肩をさすってやる。

「どうしたんだい。いつものおまえらしくないね? こんなに泣いたりして」

「私が恩知らずだからだ。この国のどこかに、本当の親がいるかもしれないって思ったから。父さんを傷つけてしまった」

「怖がらなくていいんだよ、アリアドネ。われわれは過去を変えることはできないが、過去を知り、よりよい未来を択ぶことはできる。父さんは、おまえに後悔してほしくない」

「ごめん、父さん。ごめんなさい。私のために、こんなことまで」

「サーカス団はおまえの家族で、ふるさとだ。いつでも帰ってきていいんだよ」

 コハクの目の前でローズオンブレイ医師が、もらい泣きしているリィンセルにハンカチを差し出す。獣の雪豹まで人間の気持ちが分かるのか、耳を伏せた星星がくるる、と哀れな鳴き声をあげた。




 その日の夜半、コハクは中庭のあずまやでぼうっとしていた。

 ほんの数ヶ月前にはここの石卓に父の遺骸が寝かされていたのに、もうずいぶん昔のことのような気がする。

 今のあずまやに、あの春荒れの嵐の日の痕跡はなにひとつ残されていない。

 スノードロップ家にとどまることになったアリアドネをなだめるのは、養父のラムダス氏でもずいぶん骨が折れた。だからといおうか、星星をアリアドネの供に残していってはどうかとラムダス氏が言うと、今度はリィンセルが飛びあがって喜んだ。泣いたり笑ったり忙しい白雪姫様は、こういうときばかり子どもっぽい。

 明日の早朝、帝都市街の往来が少ないうちに出立するとあって、サーカス団の家財道具はすっかり片付けられ、団員たちも旅の道中にするように、荷馬車の中に寄り集まって眠っている。ひと月ほどもかれらの仮宿だった温室が、今となっては妙にがらんとしていた。

 ひたひたと歩く足音を邸の裏口あたりに感じたコハクがあずまやからうかがえば、使用人用の別棟にむかうサフィルと、荷馬車に戻るラーフラが、ちょうど別れのあいさつをして行き先をたがえるところだった。あちらはあちらで、年頃の近い少年同士で最後の夜にしばし話し込んでいたようだ。

 闇に包まれたあずまやにいるコハクに気づかない二人は、特に隠れる様子もなく、ラーフラのひょろりとした棒のような体が身軽に荷馬車へよじ登り、扉のむこうの暗がりに潜りこむ。サフィルのほうは、先に寝入った使用人たちにはばかって、別棟の表戸をそっと開け閉めした。

 二人の姿が消えると、またもとの静けさが戻った。

 覗き見のつもりではなかったが、なんとなくコハクは大きく息を吐き出す。

 つい先日、サーカスのテントでアリアドネの印度の踊りを見た。

 耳慣れない奇妙な音楽が流れ、一風変わった踊りをする舞台のアリアドネは、いきいきと活力にあふれていた。ヴェールをつまんだ彼女が腕輪を鳴らして跳んだり、くりかえし足を踏みならしたりすると、浅く日焼けした頬に血色があがって、こぼれ落ちそうなほど大きな碧眼が熱で潤んできらきらと輝くさまが、星空のようだった。こめかみを流れる汗の粒に、ゆるくうねった金の前髪が貼りつき、その髪にヴェールの端が降りかかった。

 アリアドネはどこもかしも伸びやかで健康的だ。病魔さえ彼女の前では恥じ入って力を失うだろう。

 母を病で亡くしたコハクに、アリアドネの存在はただただ眩しすぎた。

 常にない疲れを感じてコハクが目を閉じていると、刈りそろえた中庭の下草を踏む気配がした。

「失礼。誰かと思えば、執事殿か」

 火のついた紙巻き煙草を指先にする、ローズオンブレイ医師だ。煙草の穂先と同じく、赤毛のもじゃもじゃ頭が真夜中のとばりのうちで燃えさかる炎のように逆立っている。

 私室でなにやら書き物をしたり、外国語の医学書を読んだりしているローズオンブレイは、使用人の中ではいちばんの宵っ張りだ。寝静まった別棟で、かれの室だけ明かりが点いていたり、夜遅くまで物音のすることがたびたびある。

 どうやらコハクが風上にいたらしく、煙草の匂いに気づかなかった。

「お邪魔でしたら自分は下がります」

「なに、息抜きがてら一服つけてるだけだ。そのままでいたまえ」

 口角に煙草をうつしたローズオンブレイは、浮き足立つコハクを手ぶりで留め、あづまやとは距離を置きつつ紫煙をふかした。視線はあさってを向いている。

 そのままで、と言われてしまうと、早々に立ち去るのも気がひける。とはいえ、医師と執事に共通する話題がある訳ではない。

「先生は、軍におられたので?」

 紳士らしく体格のいいローズオンブレイの、ちぢれた赤毛のかかる、なだらかな肩の線を見るともなしに見ていたコハクが、あずまやの垣根ごしに訊いた。

「医者になりたてのころ、印度にね。大反乱鎮圧の軍医に志願した」

 長いため息があり、星のない夜空に紫煙が吹きかかる。煙霧京の空は昼夜スモッグに覆われ、晴天でも星は見えない。

「執事殿は、乙女と喧嘩でもしたか」

 ローズオンブレイの言う乙女とは、アリアドネのことしかないだろう。

「男女のことを抜きにしても、他人行儀すぎてこちらの神経に障るな。早いとこ仲直りしたまえよ」

「いえ、そういったことは……」

 気まずそうにコハクは言葉尻を濁した。

 次に「十字短剣を」と言い出されて、コハクがぎくりと肩を揺らす。

「見せてみたまえ」

「はあ……」

 医者のくせに妙なことに興味を示すものだと思いながら、コハクは懐中から短剣を取り出し、柄をむけてローズオンブレイに差し出す。

「これが『王族殺し』の得物という訳か」

 華奢な見た目より重量のある十字短剣を、利き腕とは逆の片手でかるがると扱うローズオンブレイはやはり、従軍経験がものをいった。

 アルビス島対岸のガリア人を称する家庭教師とはいえ、ローズオンブレイはスノードロップ家とも遠縁にあたる。白と黒の両公爵家の因縁について知っていてもおかしくはない。

「最初の執事ボイドであったファーロン・ボイドは、初代白雪公の妻でありながら不貞を犯した王女タマラが、スノードロップ家とアルビオン王家にまで呪詛を吐いたことに激昂し、王女を亡き者にしました。その王族殺しの罪から『咎人ファーロン』と呼ばれ、ボイド家のはじまりは血塗られております。執事の所業を重く見られた初代白雪公により、以後のボイド家に伝わる十字短剣はそっくりに似せて作られた別物です」

「その『不貞の王女タマラ』が、初代白雪公を裏切るにいたった理由というのが、初代黒馬公との不義密通なのだろう? 公爵夫人の不貞の代償に、何百年と復讐の連鎖に縛られるとは、きっかけだけを聞くと馬鹿馬鹿しい話ではあるな」

「因縁が絡み合うまでになったいきさつは、ほかにもございますので」

「ならば、王族殺しのあとに起こった最初の復讐で、この短剣が初代黒馬公を屠ったのか。王族の血を吸った本物の行方は?」

「初代白雪公がお預かりになったと言い伝えられておりますほかは、詳しいことは分かりません。隠居のいずこかに埋めて捨てたのではないか、とはいわれておりますが」

「初代白雪公が若くして隠棲したのは、かかる呪詛を『咎人ファーロン』の凶事に払われる結果になった王家が、投獄刑を蟄居にまで免じることに応じた形だというのは、執事殿の話を引き合いにすると真に迫っている。初代黒馬公が屠られたとき、白雪公と執事ボイドは代替わりしていたはずだ」

「二代目の白雪公は、初代の弟君です。初代には継嗣がなかったので、今日まで続くスノードロップ家の血統は二代目のものになります。そして二代目の執事ボイドは、『咎人ファーロン』の養子にして、復讐の端緒になった者……」

「伝承も多いが、謎の綾もまた多しだな、この家の復讐の連鎖というやつは」

「ラズーリのお嬢さんにも、自分たちの因縁のことを話すべきでしょうか」

「姫様がお預かりになれば、話すつもりがなくてもいずれ乙女の耳に入るだろう。与太まじりの噂話で知られるくらいなら、復讐の当事者に近しい者の口からつまびらかに語るほうがまだしもじゃないかね」

 そこまで話したところで、ローズオンブレイは短くなった煙草を口の端に持って行き、吸いつけたあと「そろそろ戻らねば」と言った。

 慣れた手つきで返された十字短剣を、コハクは元どおりにフロックコートの内側へ戻す。

 懐中に隠し持つこの短剣のごとく、腹蔵に『二心ありき』のコハクは、ここで言わずにいられなくなる。

「父の跡を継いだ自分は、復讐のため妻を娶らねばなりません」

 闇にまぎれる黒太守ダネル公の気配の記憶が、かの人物の弔問時に聞いた言葉が、暗夜に沈むコハクに圧しかかる。

 背中をむけて去りかかったローズオンブレイが、なだらかな肩ごしにあづまやを振り返る。

「わたしは医師として、先代の執事殿の臨終に立ち合ったのだよ。かれは息子の君に、姫様の御身を託したはずだが、それ以上のことは、少なくともわたしの記憶にないな。君が執事の役を継ぎ、両公爵家の復讐のことをどう解釈しようが、それは君が判じ択んだことにほかならない。それをしかと覚えておきたまえ」

 火の消えた煙草を、ローズオンブレイはそのやわそうな手に握りつぶした。




 物心つくより前から慣れ親しんだサーカス団と涙ながらにわかれたアリアドネは、半月もたたないうちに自分が王宮を訪うことになろうとは思わなかった。

 雪花亭のお隣さんとはいっても、アルビオン大英帝国の女王陛下のおわす王宮だ。

 謁見をもとめられたリィンセルは、家内の喪中を理由に辞することもできただろうが、先代白雪公の逝去を御みずから慰めようとの女王陛下のおぼしめしをありがたく賜ることにしたらしい。

 エヴァグリン夫人が仕立て直してくれた、こまかなひだのついたブラウスや、皮の短靴がすっかり隠れる長スカートが、ごわごわしてまだ体に馴染みきらないというのに、王宮に参内するリィンセルに付き添ってほしいと言い出され、頭のてっぺんからつま先までアルビオン流の新しい外出着を大慌てであつらえる羽目になったアリアドネは、こっそりため息をついた。

 白のドレスで正装したリィンセルは、お人形のようでそれは可愛らしかった。ヴァイオラが白雪姫様の黒檀色の髪を焼きごてで巻き、血のように赤い頬のまわりにカールしたふわふわの髪をいくつも並べてふちどった。いつもの繻子の飾り帯のかわりに色とりどりの宝石をちりばめたべっ甲の飾り櫛を差し、コハクが温室で咲かせた白バラとクチナシも髪やドレスに飾ると、香水をつけたみたいにいい匂いがして、星星が物珍しそうに鼻をひくつかせながらリィンセルのまわりをぐるぐる歩き回った。

 王宮へあがるとはいっても、アリアドネは付き添いにすぎないのだし、腰まである金の髪はエヴァグリン夫人に後ろでひとつに結ってもらった。ただ、おろし立ての濃紺の外套や帽子、手袋といったものを、王宮でなくても外出のたびにつけるのは、印度のサーカス団の流儀が染みついたアリアドネにはわずらわしい。

 わずらわしいといえば、今日アリアドネとともに、リィンセルに従った執事のコハクもそうだ。

 女王陛下に謁見するあいだ、付き添いの二人は控えの間で待たされたが、コハクは始めから窓際に貼りついて動こうとしない。まるでアリアドネが同じ室にいるのを忘れたように、外の景色を見つめたままだ。

 広い王宮内で、あたりに人の気配もほとんどない中、むやみと話しかけるのもはばかられる気がして、アリアドネは邪魔な帽子と手袋を我慢しながら、壁の書架をぐるりと見渡した。

 皮で装丁された立派な背表紙がならぶ書架の片隅に、場違いな小冊子を見つけて、なにげなく手に取ってみる。ページをめくるのに、これ幸いと外した手袋を外套のポケットに押し込んだ。

 開いた表紙は、フランセーズ版のサロメだ。たしかフランセーズ王国で初版が出されたと、アリアドネも聞いた覚えがある。アルビオン版が発行される前にフランセーズ版を手に入れるほど、熱心なサロメの愛読者が王宮にもいるのかと思えば、敷居の高い場所にも多少の親しみを感じられる。

 サロメというとどうしても、アリアドネにはサリバン卿のことが思い出された。

 そのサリバン卿を、執事のコハクはひどく憎んでいるらしかった。その理由までをアリアドネは知らない。コハクは乱暴狼藉の謝罪こそしたものの、ほかのことはいつもの仏頂面で黙りこくっているし、アリアドネのほうからも無理に聞かなかった。

 コハクは初めから、これといってアリアドネとの親交は深くない。それでも、なまくらの飾り刀しか持たない小娘に、短剣をむけて恥じないほど我を失った執事を目の当たりにしたときの衝撃が心にあたえた傷のようなもの、肉体こそ傷つかなかったけれど心に刺さった痛みが、アリアドネはいまだに癒えていないと感じていたし、許すと言ったのは口先だけで、あのときのコハクのふるまいを本心から許せていないのは分かっていた。

 それに、後ろめたさはアリアドネにもあった。サリバン卿を、まだ見ぬアルビス人の父になぞらえた内心のことは誰にも話さなかったのに、養父のラムダスは義理の娘の忘恩をすべて見通したかのように、アリアドネに肉親探しをすすめてサーカス団ごと煙霧京を去った。

 なにもアリアドネだって、情の深い養父に見捨てられたと卑屈に思うほどいじけていないが、男手ひとつで血の繋がらない娘を育てたラムダスのこれまでの苦労を、自分の浅はかさですべて踏みにじったのではないか、との恐れが胸の奥に暗く巣食って離れなかった。

「君はフラン語が読めるのか、ラズーリ嬢」

 書籍のサロメを手にしたまま、しばらくぼんやりしていたようで、気づけばすぐそばにコハクが立っており、アリアドネはあやうく悲鳴をあげるところだった。

「まさか。これと同じ本を父さんが私にくれたけど、全然だめだったわ。アルビオン版は挿絵がすてきなの。まだ字が読めなかったころは、絵本がわりにしてたくらいよ」

 内心の動揺を悟られないよう、わざとゆっくりした手つきで本を閉じ、書架のもとの場所へ戻す。

「子どもが読むには、サロメは不道徳だ」

 いかにも形式ばった面白味のない言い草だったが、不道徳との感想が読んだあとにしか出ないことぐらい、アリアドネにも分かる。

「いいじゃない。サロメは道義を説く話じゃないもの」

「挿絵がないぶん、フランセーズ版のほうがましだろう」

「あらそう。執事さんのご意見をありがとう。で、あなたは窓からなにを熱心に見てたの? さぞかし道徳的な風景でしょうね」

 可愛げのないお嬢さんだ、とでも言いたげな、銀縁眼鏡ごしにひどい渋面のコハクは、さっきまで自分のいた窓辺へアリアドネを無言で促した。

「王宮の庭に農家が建ってるわ。あっちには牛や豚もいるのね。あの小川のむこうにあるのは……果樹園かしら」

 てっきり噴水や彫刻があるような整備された庭園を思い浮かべていたアリアドネは、窓から見える景色に驚く。羽根飾りのついた帽子のひさしの下、浅く日に焼けた顔の中で大きすぎる碧眼がさらに見開かれ、こぼれ落ちそうなくらいだ。

「女王陛下が私的な時間を過ごされるための草庵だ。小川はニヴァリス・パークの溜池から水を引いていて、こちらは雪花亭とは反対側だから、王宮を迂回して運河を通してある」

「女王様が自分で家畜の世話をする訳じゃないわよね」

「無論。専属の使用人がいる。パークの人夫小屋のようなものだ」

 その使用人が収穫しそこねたのか、遠目にうかがえる果樹園の枝には、しなびて赤茶けた果実がいくつかぶらさがったままになっていた。

「執事さんは、草庵が珍しいの?」

「林檎の実が少しだけ木に残してある。ああしておくと野鳥がついばみにくるんだ。知恵の回る使用人がいるんだろう。女王陛下は草庵で鳥のさえずりを聞くのがお好みのようだ」

「よく気づいたわねえ。ローズオンブレイ先生もそうだけど、大学まで出られた紳士様ってやっぱり違うのね」

 アリアドネは素直に褒めたつもりでも、コハクは皮肉られたとでも受け取ったのか、昼日中にあって暗夜色の額髪がかかる顔をしかめた。

「草庵は、女王陛下の生まれ故郷ヘリタード地方の植生を似せて作られたそうだ。ここらではあまり見られない品種が多くて、つい観察してしまってな……」

「あなた、植物には興味があるのね」

 今度こそ本当に揶揄まじりの皮肉が、アリアドネの口をついて出た。氷壁のごときコハクがどこか傷ついたような表情することに、無愛想な執事にも人並みの心はあるのだと思う。

 アリアドネがなにか言いかかったところへ、控えの間の扉が開かれた。謁見に向かったときと同じ男性に伴われたリィンセルだ。男性は帝国議会宰相シャナハン・アイギスで、紳士の多くがそうであるように口ひげをたくわえ、威厳のある顔つきをしている。年の頃はサリバン卿とさして違わないようだが、文官然としたアイギスに対し、アリアドネの目からするとサリバン卿は少しばかり武張った印象があった。

「ああ、リィンセル! おかえりなさい、謁見はどうだった?」

 ぱっとコハクのそばを離れたアリアドネは、リィンセルに駆け寄った。小さな白雪姫様に合わせて身を屈めるアリアドネが、真新しい外出着の裾裳が汚れるのを厭わずひざまずいたり、あまつさえ手袋をしていないことに、アイギスは眉をひそめ、彼女とコハクをかわるがわる見比べた。

 アルビオン大英帝国での、特に未婚の娘が外出先で手袋を外すことは、裸になるのとほとんど同じ意味がある。あるいは下婢ならば手袋なんぞは始めから着けない。

「女王陛下に直接お言葉をいただくなんてこと、めったにあるものじゃないわね。わたしは子どもだけど特別に、陛下がいずれ夜会に招んでくださるそうよ。まだ胸がどきどきして痛いくらいだわ」

 大役を果たしたリィンセルをいたわるように、ドレスの肩にあるショールをかけ直してやるアリアドネのところへコハクが近づき、「姫様を座らせてさしあげてくれ」と言うので、アリアドネは絹の手袋におおわれたリィンセルの手をひいて長椅子のところへ連れていった。

 リィンセルと入れ替わりに、頭を低くしたコハクがアイギスの前へ進み出る。

「宰相閣下におかれましては、本日はわが公爵家のためにお骨折りいただき、リィンセル様と先代白雪公に成り代わって御礼もうしあげます」

「前の執事も亡くなって、今のスノードロップ家はいろいろあるだろう。私にできることぐらいはさせてもらうよ。陛下は、小さな白雪姫にまみえられて満足そうであったのがなによりだ」

 若い新品執事の礼を受ける宰相は、さすがの貫禄だった。

「馬車の用意が整ったら、ここへ知らせよう。それまで休んでいかれよ」

「ありがとうございます、アイギス様」

 長椅子にアリアドネと並んで座ったリィンセルが、大人びて言う。血のように赤いその頬は、興奮のためかいつもより赤みが濃かった。

 目礼して退室するアイギスを、最敬礼で送ったコハクは、足音が遠ざかるのを慎重に測ってようやく体を起こし、直立する。そうして長椅子のほうへ振り返ってみれば、ドレス下のペチコートのひだの重なりから痩せた両足をのぞかせて、絹の靴下と靴を無為にぶらつかせるリィンセルと、そのリィンセルを外套の胸元に抱き寄せ、カールした黒檀色の髪を素手の指先に巻きつけ慰撫するアリアドネの二人が、まだ誰も目にしたことがない美しい一対の花のような風情で座っている。

 母娘のようでもあり姉妹のようでもある二人を前に、コハクは銀縁眼鏡の下で切れ長の目をいっそう細くした。




 贅を凝らした調度品の並ぶ王宮の廊下に、小さな落花をみとめた黒太守ダネル・サリバン・セングレンは、それを拾いあげて自身の鼻先に押しつける。すっとひと息吸いこめば、かぐわしくも清純な微香があった。

「この時期にクチナシか」

「……ダネル公? 今日こられるとは知らなかった」

 練れた態度の宰相シャナハン・アイギスが廊下の先からあらわれ、ダネルに声をかける。

「領地の収穫はすんだのかい」

「これから今年の新酒の仕込みが始まるところだ。初雪が降ればこちらに参内するのもままならないだろうと、冬までに一度来てくれと陛下に請われたので出仕した次第だ」

 ダネルはアイギスが追いつくのを待って歩調を合わせながら、クチナシの落花を上着のポケットにさりげなく滑りこませた。

「おりしも今日は、白雪姫が陛下に謁見を賜る日でね。あちらとも会ってゆくつもりか?」

 アイギスはただちに否定されるつもりで言い、ダネルには逡巡したような微妙な間があった。

「わたしが王宮で騒ぎを起こそうとは思わないこと、あなたには分かってもらえるだろう。陛下も、あまり相談役をあてにされては、この先長く安定した帝国の治世を敷くにおいて臣民の懸念を煽るだけだ。あなたの仕事を増やしてすまないが、議会と陛下はよくよく協力してもらうのが帝国の最善だ」

「まったく同意する。それにつけても、スノードロップ家の白雪姫……リィンセル嬢の利発さには恐れ入った。前女王の崩御にともなって今上女王を議会で選定したときも、リザベル陛下の秀でた才には目をみはるものがあったが、白雪姫はあのころの陛下以上に幼いのだから」

「その口ぶりではまるで、『姫』を『女王』にしたいように聞こえる」

「まさか。今はそのような余念を差し挟むべきではない。事によれば白雪姫の議会での委任者を私にするつもりであったが、縁者のフィリックス・リグルワース氏がベニントン公爵領の代理管理人ごと引き受けたそうだ。なかなかに対応が早いな、かの家は」

 ダネルの口調が宰相の思惑を図るように思われたのか、アイギスはあくまで真面目くさって応じた。

 どんなに馴れ合って見えようが政治家同士だ。お互い、そう易々と本音のところは悟らせない。

「白雪姫には呪いと毒がつきものだ。白の公爵家の小さなお姫様は、この先無事にはいられまいよ。おとぎ話に沿うならば猟師か王子が救いをもたらそうが、そのいずれも得られないならば……活路を拓くのは、あるいは運か……」

 不審げに見返すアイギスに、ダネルは素知らぬふりで言葉を継ぐ。

「ときに、陛下の縁談についてだが、やはりプロイセン貴族の新教派からにすべきだ。ここのところ、大陸の情勢がよくない。婚姻で盟約を強めて損になることはなかろう」

 大陸の情勢、とひとくちに言っても、アイギスのもとへもたらされる情報は国家機関の収集したものに対し、ダネルのほうは独自の情報網によるもので、その内容と精度にはいささかの隔たりがあった。

「ネーデルラントとも迷ったが……イスパニア同様、旧教派だからな。国教会首長の陛下と娶せるのは難しいか」

「これまで旧教派と新教派の争いのたびに帝国中央で政変が起こっていては、アルビオン臣民はすでに内紛に飽き飽きしている。夫婦の間に白刃を挟んだような婚姻は、帝国諸国からも臣民からも、いらぬ反発を誘きかねない。ローマ教皇に付け入る隙を与えるのも、こちらとしては業腹であろう。陛下はご自身の縁組を、アルビオンにもっとも有益な姻戚をむすぶ好機ととらえていらっしゃる。裏を返せば、もっとも有益でなければ意味がないとのお考えだ」

 今度はダネルの意見に、アイギスが態度を硬化させる番だった。

「プロイセンからロシヤ帝室に繋がりができればさらなる重畳と?」

「さもありなん、だ」

 話すうちに、女王陛下の執務の間が近づいてきた。




…… 次回 10.昔語り ……

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