8.再会のとき

 初雪までに車の運転を覚えようと、コハクはサフィルに頼んでスノードロップ家所有の屋根付き箱型自動車を融通してもらい、空き時間に雪花亭とパークの人夫小屋のあたりをくり返し走らせた。

 ジョゼが事故に遭ったときはまだ初期型のオープンカーだったから、かれは横転した自動車から投げ出されて全身を強く打ち亡くなった。自動車の型や構造の変遷は、コハクに年月の経過を実感させる。

「ギアの切り替えがうまくいかんな」

「回転数をよく見てくだせえ。発動機の振動と音を聞いて、クラッチを踏むタイミングを合わせねえと。慣れてしまえば難しいこたぁねえです」

 そうは言うものの、ギアを切り替えるたびに変速機の歯車が噛み合わず、車体が壊れそうなほど激しく振動した。

 使用人のサフィルは執事のコハクの部下にあたるが、なにせ新品相手とあって、少年ながら堂々たる教官ぶりだ。

「コハク様は大学までお出になったば、車を動かすより後ろの座席のほうがお似合いでねえべか。うちのお邸に運転手はおらぬで、おらみてえに、コハク様も運転せねばなんねと分かりきっとるだに。いくら姫様のお頼みとはいえ、執事になられたのはちいっと軽はずみじゃったですかのう」

 まったく似ていない双子のくせに、ずけずけ物を言うところは二人ともそっくりだ。

「馬には乗れるんだが」

 片手をハンドル、もう片方の手をギアレバーに置くコハクは、悔しまぎれに言い返した。

「そらぁコハク様は紳士でいらっしゃるんで。リグルワース様のベルナー館でお過ごしのあいだにおぼえられたんでござんしょう? んだども、馬は馬、車は車でごぜぇますよ。ありゃ、姫様とアリアドネさがおられますのう。ほい、ブレーキ踏んで」

 役職を逆転してサフィルの指図どおり、コハクはブレーキをかける。

 車はガタガタ揺れながら、雪花亭を囲む生け垣を背に立つリィンセルとアリアドネのそばに停まった。

 印度の更紗の重なりに伸びやかな手足を見え隠れさせるアリアドネは、アルビオンの人間の目からすると、妙齢の婦女らしからぬ姿だが、今日は長いヴェールを肩と腕にまといつかせている。

「コハク、調子はどうかしら?」

 アリアドネのヴェールの腕に抱きかかえられたリィンセルが、運転席の窓から身を乗り出して訊く。

「女王陛下への謁見は来月だもの。コハクの運転で王宮まで送ってもらいたいわ」

 とはいえ、王宮での謁見となると、女王のほうから迎えの馬車が差し向けられるから、これはリィンセルなりの気遣いだ。

「では、姫様のお望みに沿えますように、励みます」

 こういうときには幼い女主人に甘い顔をするコハクが、リィンセルに調子を合わせて応じる。行き先がどこであれ車での送迎は雪花亭の執事の仕事のうちだから、あながち冗談でもなかった。

「おらが車庫に戻してくるだよ。コハク様は降りてくだせえ」

 言われ、今日の練習を切り上げる。

 コハクにかわって空いた運転席にサフィルが乗り込むと、胴震いした箱型自動車は邸のむこうに走り去った。

「お二人はなにか御用でしたか」

 リィンセル姫様がおればこそ、へりくだった物言いをするコハクに、アリアドネは戸惑った顔つきだ。

「たいしたことじゃないのよ。様子を見に来ただけで」

 話すリィンセルを、アリアドネが腕からおろしかかるのを、コハクが引き取って肩に抱き上げた。リィンセルは痩せ気味のお子ではあるものの、アリアドネの細腕では背の高い青年コハクと同じように抱えたりはなかなかできないものだ。

「雪豹の姿が見えないな。今日はサーカスか?」

「そ、そうなの。星星の曲芸のほかに、ラーフラとマーヤが奇術をやってるわ」

 これまで角付き合わせてきた厳格な執事に世間話をされ、調子の狂ったアリアドネはいつもの快活さを鈍らせた。

 ラムダスファミリー・サーカス団が煙霧京を去る日が近づくにつれ、リィンセルは特にアリアドネと離れたがらない。そのアリアドネがパークのテントで印度の踊りを見せているあいだは、代わって星星がそばにいるという具合だった。どうやら、『ご親切なお姫様』のリィンセルに恩義を感じたサーカス団のひとびとが、アリアドネか星星のどちらかがいつもそばにいるように、はからったものらしい。

 周囲をおもんばかって健気にふるまうリィンセルが、どんな形であれ別離に敏感なのは、石頭のコハクにも分かるつもりだ。

 家令のアダムシェンナ氏ではないが、リィンセル姫様がサーカス団にあまり入れ込むのは好ましくないとは思うものの、いずれこの地を去ると定まったひとびとを邪険にするのも気がひける。それに、温室の世話をまかされたコハクにしても、サーカス団に迷惑らしい迷惑をこうむっていないだけに、今さら目くじら立てようとは思えなかった。

 サーカスが去るといえば、奇術師の兄妹と雪花亭の双子が夜半ごろに、中庭のあずまやの軒下で額を集めていたことがある。四人ではいちばん幼いマーヤが、「別れがつらい」とでもこぼしたのかさめざめ泣くのを、サフィルが肩を抱いて慰め、ラーフラとヴァイオラが励ますようにしきりと話しかけていた。

「午後からは、みんなでサーカスを見に行きましょうよ。パークにたくさん露店が出てるのよ。オクタビオは家族と行くそうだから、別の日にお休みをとらせて今日はお留守番ね。ローズオンブレイ先生は、よそにお出かけですって。先生は紳士クラブでおともだちとカード遊びをなさるのがお好きなの。コハクは、どこか贔屓のクラブがあって?」

「いいえ。コーヒー好きの友人が会員で誘われたことなら。サーカス見物でしたら、姫様のお約束なされたことですし、従者の自分がお供を」

「あら、双子やエヴァグリン夫人は仕事じゃないのよ。あとで着替えていらっしゃいな」

 三人で温室のそばを通り過ぎ、雪花亭の裏口までくると、正面側に見慣れない車が停まっている。

「きっとお客様よ」

 アリアドネがなにげなく言った。

 自分の仕事が起こったのではないかと、リィンセルを腕にしたコハクはにわかに歩を早めて邸へ入っていく。

「やあ、コハク! ひさしぶりじゃないか! 今年の夏には会えずじまいだったから、冬の休暇以来だ!」

 玄関ホールに立つ、銃騎兵の下馬兵装に外套をひっかけた若い紳士が、親しげに声をあげた。

「パーシー! エボラムの駐屯地にいるんじゃなかったのか?!」

 言って、リィンセルをホールにおろしていたコハクは、しまった、といったふうに口元を押さえる。

「失礼いたしました、パトリック様」

「おやおや、ここの執事は他人行儀だな」

 かしこまるコハクをからかって、軍服の紳士はリィンセルに目線をさげ、革の長靴を折ってうやうやしくその場に跪いた。

 この白雪姫様をかしずくとき誰かれもが地に膝をつくのは、彼女がまだ小さいのと、白雪公がアルビオン大英帝国で双頭を為す両公爵家の一方であることの、二重の意味がある。

「ご無沙汰いたしております、姫様。亡くなられたスノードロップ少尉殿と先代の執事はお気の毒でした。遅くなりましたが、僕からもお悔みもうしあげます」

「しばらくぶりね、パトリックさん。葬儀のときはあなたのお父様が来てくだすって、とてもありがたかったわ。わたしのほうからもお礼を」

「とんでもございません。なんなりとおもうしつけください。姫様のお家と縁戚であることは、我が家の誇りですから」

「今日は、マネットのことでいらしたのね」

「父と兄の名代です。こちらの家令殿から手紙が届いて。その前に、姫様の執事と話しても?」

「もちろんよ。わたしはこれからサーカスに出かけるところだったの。家のことはオクタビオにまかせるし、食事は外ですませるわね。パトリックさんはゆっくりしてらして。コハク、書斎を使うといいわ」

「ありがとうございます」

 リィンセルが邸の奥へ行くのに続いて、客人に遠慮したのかアリアドネも玄関ホールを出ていった。

 パトリックは、軍級品の外套の裾をさばいて立ち上がる。

「さて、コハク。姫様がいないときぐらいはこれまでどおりにしてくれないか」

「パーシー、君がそう言うなら。書斎はこっちだ。コーヒーを用意させよう」

「それには及ばないよ。さっきサフィル君に出迎えられたからね」

 公爵家の町屋敷にしてはこじんまりとした雪花亭の、廊下をしばらく歩けばすぐに目的の書斎だ。

 先に立って歩くコハクは扉を開けると、あとからきたパトリックを室内に招き入れた。

「リッキーはお元気か?」

「いちばんに兄さんの話をされるとはがっかりだが、まあいいだろう。皆がベルナー館にそろって新年のお祝いをしてから、コハクの顔を見てない兄さんも会いたがってた。今は領地のことで忙しいんだ。家督相続はまだ先だけど、父の役目を引き継ぐ訳だからね」

 昼下がりの陽光が差し込む窓辺に置いた、読書用の肘掛け椅子にパトリックは身を投げかけた。大概のことで外套を脱がないのが習い性とはいえ、リィンセルに引き止められたのは社交辞令と受け取って、最初から雪花亭に長居するつもりはなかったようだ。

「失礼しますわ。お客様にお茶を」

 ノックのあと、銀盆を両手に書斎へ入ってきたのはアリアドネだ。エヴァグリン夫人にでも着せられたのか、既婚女性が身につけるようなローブを、踊り子の衣装の上に羽織っている。

「君はうちの使用人じゃないだろう。こういうことはしなくていい」

「双子と夫人は午後から休みだもの。リィンセルとサーカスに行くのよ。踊り子だってお茶くらい運べるわ。大丈夫、用意したのはヴァイオラよ。私は持ってきただけ」

 咎めるコハクに関しない様子で、アリアドネは手近の小卓に盆ごと茶道具をおろす。

「見かけない娘さんだね。コハク、彼女を紹介してくれないか」

 助け舟のつもりか、昔からざっくばらんなパトリックに請われたコハクは、少々ばつが悪そうだ。

「姫様が、温室に印度のサーカス団を逗留させている。彼女はそこの踊り子のアリアドネ・ラズーリさんだ」

「ごきげんよう、紳士様。私は見てのとおりの者ですから、アリアドネと呼んでくださってかまいません」

 コハクと年頃の変わらない若い紳士がお近づきになったからか、アリアドネは踊り子ふうの口をききながら、野暮ったいローブを体の前で深くかき合わせ、慎ましやかにふるまった。

「僕はパトリック・リグルワースだ。コハクとは寄宿学校が一緒でね。大学は別だけど……ああ、そうだ。コハクにお祝いを言ってなかったな。お父さんの喪中になんだが、大学卒業おめでとう。母と妹のエリカからもそう言伝されている。兄さんの縁談がまとまらないのに、おませなエリカは君の花嫁になると言い張っててね」

「ませてるのは子どもだからだ。エリカ様だって大人のレディになられたら、そのようなお戯れはおっしゃらないよ。奥様にはよろしく伝えてくれ」

 書斎が珍しいのか、室をながめることに気を取られて小卓を離れないアリアドネを、手ぶりでそばの長椅子に追いやったコハクは、銀のポットからコーヒーをそそぐ。

「君の通うクラブのものには及ばないかもしれないが。この家のコーヒーもなかなかだ」

「公爵家のコーヒーよりうまいものなんて、そうはないさ。ありがとう、いただくよ」

 パトリックにカップを手渡し、コハクはもうひとつのコーヒーを、長椅子で行儀よく座るアリアドネに差し出した。

「あら、いいの?」

「君だってうちの客だろう。無下に扱ったら自分が姫様に叱られる」

 いつものかれらしい、面白みのない言い草ではあったが、アリアドネは快活さを取り戻した口調で、「私がお茶をいただいて、執事さんがいけないってことはないわよね」と茶目っ気たっぷりに言い返した。

「ではパーシー、マネットの領地管理人のことを?」

 コハクが三つめのコーヒーに手をつけるのを見届けて、アリアドネは自分のカップに砂糖とミルクを落とした。

「父は議会とベニントン、僕がマネットだ。さすがに気楽な次男坊の僕ひとりで、マネットとベニントンのふたつの領地管理は荷が重いと考えたんだろう。僕もそう思う」

 パトリックのおどけた口ぶりに、似合わないローブを着たアリアドネが微笑む。

「議会のある夏の間は、おそらくベニントンにも君が必要だ」

「兄さんがいるさ」

「リッキーがベルナーの経営に慣れるまで、数年はあてにしないほうがいい」

 コハクがしかめつらしく進言すれば、パトリックも、ふむ、とうなずいた。

「父はとうぶん隠居するつもりはないようだが、兄さんの結婚相手が見つからなくて困っている。妻の支えなしに、独り者のまま家を継がせるのは心配だ」

「ベルナー館の跡取りだぞ。リッキーならいくらでもお相手がいるだろう」

「相手がよくても、兄さんがお気に召さない。うちの両親も頭をかかえてるよ。末娘のエリカが年頃になれば、持参金をつけて嫁に出さなくちゃならないのに、上がつっかえてちゃあな」

「パーシー、君は?」

「次男坊は財産家のご婦人と結婚するのが望ましいが、僕はさいわい、軍にいるんでね。領地管理と軍とで、贅沢しなければ生活には困らない。こう言ってはなんだが、先代の白雪公が陸軍士官でよかったよ。親戚の僕にも出世の目がある」

 パトリックはよほどのコーヒー好みと見え、話すあいだにも飲みほされたカップに、コハクがおかわりをついだ。

「執事さん。私、なにかお食事をお持ちしましょうか」

 カップを小卓に戻し、指でローブの裾を整えるアリアドネが口をはさんだ。パトリックがコーヒーをがぶ飲みするのは、空腹のせいと思ったようだ。

「僕なら、帰りにパークの露店で焼き栗を買うよ。せっかくだし、サーカスも見に行こうかな。コハクも来るといい。アリアドネ君に案内してもらおうじゃないか」

「いや、自分は……」

「姫様が先に出かけられたんだ。従者の君があとを追いかけたっておかしくないさ」

「いい考えだわ。私の印度の踊りもごらんにいれますわね」

 こうなったらもはや、コハクの意見は通らないと思っていい。特にパトリックの言い分には勝てたためしのないコハクは、早々に白旗をあげることした。

「そうと決まれば、さっそく出かけよう。君、支度は?」

「ちょっと待っててくれ、外套を取ってくる」

「私は茶道具を片付けてきますから、おふたりとも玄関ホールにいらしてください」

 アリアドネが銀盆を取り上げかかるところに、パトリックはおかわりを飲みほして空のカップを盆に戻した。

 三人の若者は活発そのものに大急ぎで立ち上がり、ばたばたと動き出した。




 空に灰色の雲がまばらにかかるものの、日差しは明るい。

 白雪公の荘園の一部であるニヴァリス・パークでは、溜池をめぐる散歩道ぞいにならんだ露店のあいだを歩く大勢のひとびとが、今日の午後のひとときを楽しんでいた。

 パトリックは露店のひとつで紙袋にいっぱいの焼き栗を買い、半分ほどをコハクの手にわける。

「アリアドネ君は、いつかベルナー館を訪ねてくるといいよ」

 手ずから皮をむいた焼き栗を、パトリックは二つ、三つとアリアドネによこして言う。

「君を兄さんに紹介したいな。アリアドネ君はきっと、うちの家族のこともベルナー館も気に入ると思うよ」

「お誘いいただいて嬉しいわ。残念だけど、来月にはサーカスがよそにうつることになってるの」

「じゃあ、ベルナーに君のサーカス団を呼ぶよ。あそこは人より羊が多い田舎だから、印度のサーカス団がきたら皆おどろいてお祭り騒ぎになるね」

 パトリックを真ん中にした三人は、人いきれをぬって散歩道を歩いた。

 コハクは外套のポケットに焼き栗を入れ、それをひとつずつ取り出しては甘皮をはずし、口に運ぶ。

「パーシー、あまり勝手を言うなよ。リッキーに紹介するだの、サーカスをベルナーに呼ぶだの、困らせてやるな」

「なにも邪魔をしようってんじゃないさ」

「リィンセル姫様が、サーカスとの別れに少々神経過敏になっておられる。サーカス団がこのパークを離れることを思い知らされるような話は控えてほしい」

 たしなめられ、パトリックは肩をすくめる。

 サーカスがひとところにとどまれないのは仕方がないとはいえ、肉親を亡くしてまもないリィンセルを置き去りにする心配でこの地を離れがたく思うのはアリアドネも同じらしく、コハクの言い口に傷ついたふうだ。

「サーカスのテントはあれかな?」

「ええ、そうです。よかったこと、今ならすぐに入れますよ」

 散歩道の先を指差してパトリックが言えば、アリアドネは場を盛り立てるようにいつもの快活を装って応じる。

「リィンセルたちがいるかもしれません。私が先にいって見てきます」

 ローブをたなびかせるアリアドネは殿方二人に先立って、テントへ走り出した。

「気立てのいい娘さんだな」

 コハクと前後して歩くパトリックが感じ入ったように言う。

「あれで踊り子の衣装でなけりゃ、アルビス人にしか見えないだろうよ」

「印度の大反乱のときに、現地にいたアルビオンの駐在官かなにかの家族と生き別れたそうだ。養父は印度人だが、義理の娘にアルビオン語を勉強させていたり、印度に同化しすぎないよう育ててきたものらしい」

 腰まで波打つ金髪の後ろ姿に、あやうく手足をのぞかせる踊り子の衣装、紳士にも気安い口をきくところといい、アリアドネはこの国の婦女にしては野放図だ。それらが彼女を印度のサーカス団の踊り子らしく見せていて、ほかはアルビス人となんら変わらない。

 そもそも踊り子がアルビオン語を読み書きできること自体が法外で、アルビオン本国の貴婦人でも書物を読みつけない者はざらにいる。侍童をかかえた貴婦人なら、手紙や書物は読みあげさせれば不自由なかったし、そうすることが高貴さの証しともされていた。

 少し離れたところからコハクとパトリックが見ていると、テントをのぞき込むアリアドネに、横合いから声をかける紳士がいた。




「ごきげんよう、アリアドネ」

「まあ、サリバン卿!」

 見知った顔をみとめて、アリアドネの顔にぱっと喜色がひろがる。

「約束どおり来てくださったのね。どうぞ、テントの中へ。ちょうどこれから印度の踊りを見せるところですの」

「それはよかった。サロメが踊ってくれるを楽しみにしていたんだよ」

「繰り言をおっしゃるなんて、いけませんわよ。でも、約束が守られたんだもの。文句は言いませんわ」

 人を惹きつけるアリアドネの快活さや悪戯っぽい物言いは、ここまでだった。

 遠くから誰かに呼ばれた気がしてアリアドネが振り向くと、悪魔のような形相のコハクが目の前におり、彼女は驚きのあまり心臓が止まりそうになった。

 短く悲鳴をあげながらも、気強いアリアドネは腰にあった飾り刀を咄嗟に掴む。それはコハクが十字短剣を上着から取り出すのを見た、ほとんど反射のような構えだった。

 コハクがなにか叫んでいる。アリアドネにはその声を聞き取ることができなかった。

「やめて! コハク、やめなさい!」

 コハクの怒りの矛先がすぐそばの紳士にむけられたものだと悟ったアリアドネが、なまくらの飾り刀を振りかざし、サリバン卿とコハクのあいだに割って入った。

「どけ!」

「いやよ! サーカスのお客にいきなり乱暴するなんて許さないから!」

 十字短剣を叩きつけられた飾り刀がまっぷたつになった。

 サリバン卿が十字短剣に身をさらしてアリアドネを庇うのと、いきなり飛び出したコハクに遅れをとったパトリックが追いつくのはほとんど同時だった。

「コハク?! よさないか、こんなところで!」

 パトリックは軍人らしくよほど力が強いと見え、腕をつかまれたコハクが猛った野獣のごとく鼻息荒く暴れようが、かれの制止をふりほどけなかった。

 よくよく見れば、コハクとパトリックのうしろには焼き栗がばらまかれている。パークでのどかな時間をすごしていた大勢のひとびとが口々に叫びながら遠巻きになり、固唾を飲んでなりゆきを注視している。

「女性に刃をむけるなんて、紳士にあるまじきふるまいだぞ!」

 友人の突然の横暴を叱りつけながら、コハクとアリアドネのあいだに体を入れたパトリックが心配そうに振り返ると、当のアリアドネよりも彼女を外套の胸元に庇い立てする紳士のおもてをたしかめて、たちまち態度が凍りついた。

「君は銃騎兵だな。どこの所属だね」

 紳士にしては気さくに思えたサリバン卿が重々しく問うことに、アリアドネは衝撃を受ける。

「今はエボラムに駐屯しております」

「オズワルド将軍の麾下か。階級は」

「准尉であります、少将閣下」

 応じながら、パトリックは体の正面を紳士のほうへ返し、まるでコハクを背後に隠すようなかっこうになった。

 貴族の義務から従軍する者の、軍での階級はなかば名誉職のようなものだが、それでも少将というのはかなり高官だろう。あるいは実績を含んだものかもしれない。

 アルビオンの軍隊での事情に詳しくないアリアドネにも、階級のかけはなれた将校に相対するパトリックが、少将だというサリバン卿に大変な畏れをいだいているのは伝わってきた。

「わたしはおいとまするよ。お嬢さんに迷惑をかけてしまってもうしわけない」

「私、そんなことちっとも思いません」

 娘を案じる父親が用心深くあたりを伺うようにして、アリアドネを手離したサリバン卿が、最初に出会ったばかりのときとおなじく、「お嬢さん」とよそよそしく呼ぶのが気にかかった。

「君の勇敢さと優しさは賞賛に値するが、どうか若い身そらで短剣の切っ先に立ちむかうなんて無茶は二度としないでほしい」

「父さんと同じようにおっしゃるのね。でも、これからは気をつけます。さあ、早くおかえりになったほうがよろしいわ」

 サリバン卿は、催促したアリアドネだけではなく、パトリックにも目配せする。それがコハクの気に障ったらしく、再び発火したように喚きだした。

「あなたは自分の仇だ! 出会ったからには何時も看過してはならないのだ!」

「コハク! 僕がここにいる以上、今日のところは君になにもさせないぞ!」

 若者二人の言い合いを横目に、サリバン卿は、騒ぎを聞きつけて集まった野次馬の作る分厚い人垣にまぎれていく。

 かの人の影が有象無象にのまれるまで不安げな顔つきで見送ったアリアドネの前に、入れ替わりのように今度は、見慣れたお仕着せ姿ではないサフィルがあらわれる。

「すまねえですが、どいてくだせえ。道をあけてくれんかね」

 質素な身なりをしていても、色濃い肌と目深にした鳥打ち帽からのぞく銀の髪が目をひくサフィルが人垣をかきわけるところから、こちらもすっきりとして清潔感のある外出着のヴァイオラとエヴァグリン夫人に両側から抱きかかえられたリィンセルの、雪のように白い二重回しの外套や手袋、造花と飾り帯のついた帽子が、野次馬のむこうから姿を見せた。方角から察するに、アリアドネたちとは反対側から露店めぐりをしていたようだ。どうりで鉢合わせしなかった訳だ。

「この騒ぎはどうしたの? みんな怪我はない?」

 こちらも不安顔のリィンセルは、どこかぼんやりしたアリアドネが壊れた飾り刀を握ったままなのと、コハクまで十字短剣を手にしているのをそれぞれ見比べて、いたわるように訊く。

 ようやく我に返ったらしいアリアドネが、こわれて銀刃がなくなった飾り刀を腰に戻し、あいた手をリィンセルに差し伸べて自分の腕に抱きあげる。

「平気よ。なんともないわ。心配かけてごめんなさい」

 母娘にしては歳が近く、姉妹にしては歳の差のある二人でひとしきり抱き合ったあと、やや体を離したリィンセルは、大人びた手つきでアリアドネのゆるくうねる金髪をうしろに撫でつけた。

「なにがあったのか話してちょうだい。とても辛そうだもの」

「僕から説明します、姫様」

 そう申し出たパトリックの肩ごしにはうなだれたコハクも見えたが、アリアドネの腕からおりるリィンセルが地べたに足をつけても、いつものように引き取って抱きあげにこなかった。

「もしかして、ダネル公がみえられたの?」

「御意。お察しのとおりです。まさかこの時期に帝都でお目にかかるとは存外でした」

「あのかただって、好きなところにお出かけになる自由ぐらいおありだわ。今は汽車に乗れば、レイントンから煙霧京まで半日かからないもの。そうよね?」

「ごもっともです。お願いですから、コハクのことはあまり咎めないでやっていただけますか」

「わたしの執事だもの。理由もなくやったこととは思わないわ」

 騒ぎの収束を見て取って関心を失った野次馬の人垣はほとんどばらけていたが、なにか不穏な空気を感じたのか、遅れてテントから出てきたのは、例の茶人帽を頭のてっぺんにのせたラムダスの丸い赤ら顔だ。

「わが娘よ、そこにいたのかい。白雪姫様と、雪花亭の皆さまも。よろしければ、テントにお入りになりませんか? 次の見世物まで少し時間があいておりますから」

 リィンセルはラムダスになにか応じる前に、人目のあるところで手袋をする習慣のないアリアドネの手指を握り、彼女を振り仰いだ。

「せっかく来てくれたんだから、私も印度の踊りをするわ」

「そうね。サーカスがパークにいるうちに、ちゃんと見ておきたかったの」

「ささ、いちばん前のお席にどうぞ。すごい迫力ですよ」

 入り口の幕をあげるラムダスに促され、リィンセルを真ん中にした雪花亭の使用人たちが順にテントへ入っていく。

 アリアドネは、入り口のところでラムダスに呼び止められた。

「おまえがそんな悲しそうな顔をしていることに、父さんは耐えられないよ。元気をだしておくれ」

「私は踊り子のアリアドネよ。衣装を着て、音楽が鳴ったらいつもどおりよ」

 風船のように丸っこい養父の体を細腕に抱きしめたアリアドネは、テントの薄暗がりへと足早に消えた。

 外に残された若者二人は、しばらく気まずそうに黙っていた。

 コハクがのろのろした手つきで十字短剣を元どおりにしまうと、ようやくパトリックが口を開いた。

「アリアドネ君は、コハクの仕打ちを姫様には言わなかったな」

「自分はなんという……恥ずべき人間か……」

 執事のコハクが『二心ありき』なのは、本人のほかは誰も知らないことで、それがいっそうコハクの恥の意識を深め、耐えがたい屈辱をおのれにあたえる。

「僕が譲った聖書でも読んで心を慰めるといい」

「君がそんなことを言うなんて、ひどい皮肉だ」

「冗談だよ。彼女たちには、あとで謝罪するんだな」

「姫様とラズーリさんに?」

「雪花亭の皆にもな。君が執事ボイドだからといって、まわりの心配が減る訳じゃない。まして、印度からきたアリアドネ君は、白と黒の両公爵家の因縁を知らないだろう」

 コハクはふっと嘆息し、「復讐の連鎖のことを話すまでもなく、サーカスはまもなくパークを去って、それきりだ」と言い、銀縁眼鏡をかけ直す。

「ベルナーにサーカス団を呼ぶかどうかは、パーシーが決めるといいさ。自分が口出しできることじゃない」

 分が悪いときのコハクはいつもこんなふうに切り口上に言って体裁ぶることを、パトリックはよく知っていた。



…… 次回 9.短剣の花嫁 ……

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