陸 旅立

 弥曽がはかなくなったのは、年が明けてすぐだった。


 まだ産み月でもないのに腹が痛いと訴えた。痛い痛いと泣き叫んで、泣き疲れてもうろうとしながら、ひどく小さな赤子を産んだ。男児だったらしい。赤子は、取り上げた時尾が撫でてもさすっても叩いても、一度も息をしなかった。


 どんなに火を焚こうが寒い部屋の中で、弥曽は、オレの手を握ったまま死んでいった。最期までオレを旦那さまと呼んでいた。


 弥曽の心は会津にいるようだった。お宮参りは蚕養國こがいさまに行きたいと言ったり、赤べこを買ってあげてとオレに頼んだり、じゅうおきてを口ずさんだりしていた。ふっと静かになったと思うと、微笑むような顔で事切れていた。


 肩の荷が下りたと感じた。同時に、何かを背負い込んだと感じた。時尾は、次第に冷たくなっていく弥曽と赤子を掻き抱いて泣き続けた。


 暦の上では春を迎えていても、雪解けは遠かった。弥曽と赤子の亡骸なきがらはすぐに埋葬してやることができず、ほかの死者とともに寺に安置された。


 五戸の戸籍を預かる倉沢さんが、唐突に言った。


「弥曽さんをあなたの籍に入れてやってはどうだろうか」


 鬼籍に入ってしまった女との、紙の上での婚姻。それが何になるというのか。戦で散り散りになって以来、会津に関わる者の戸籍も記録も、もうめちゃくちゃだ。オレは倉沢さんの提案に承諾した。


「オレの名を貸すことが篠田弥曽の供養になるのなら」


 弥曽の墓を守り続けることが務めだろうか。でも、オレには耐えられない。墓の世話は倉沢さんに任せた。


 長い長い冬がようやく終わろうとする今、オレは斗南を離れようとしている。


 斗南にいても、できることは高が知れている。出稼ぎをして、上がりを斗南に送るほうが人の役に立つ。


「いや、ただの言い訳だな」


 つぶやいたオレに、時尾は顔を上げた。何のことかと問いたそうなまなざしから、オレは目をらす。


 皆が働いている間に出立する。見送りはいらないと言ったのに、時尾だけは聞き分けなかった。雪の残る道を村の外れまで、黙って付いてきた。


 オレと時尾は向かい合うでも語り合うでもなく、ただ立ち尽くしていた。冷たく強い風が時折、吹き抜けた。


 何度目かの白いため息をついて、オレはようやく口を開いた。


「最初に箱館に行く。知りたいことがいくつもある。土方さんは本当に死んだのか、どんなふうにして死んだのか、誰が看取ったのか、かいしゃくをしたのか、墓があるのか、新撰組の生き残りはいないのか。自分で見て聞いて確かめたい」


 箱館の戦の終息から、この夏で二年になる。土方さんとともに戦った人々、例えば総大将だった榎本武揚などは東京に送られて収監されたらしい。戦を知る者がどれくらい箱館に残っているだろうか。


 蝦夷地は北海道と名付けられて、開拓に腰が入りつつある。稼ぎを上げられるなら、いずれ北海道で働いてもいい。ただ、まずは別の役目がある。


 時尾がオレの横顔を見つめている。


「米沢には八重さんの家族や、ほかにも会津藩の人たちが住んでいるはずです。じょしているか、様子を見てきてくなんしょ」

「ああ。できる限り多くの者の消息を追ってみる」


「もし若松に立ち入ることができたら、お墓に手を合わせてもらいてぇなし。みんなまとめて葬った大きなお墓が、阿弥陀寺や長命寺にあるから」

「必ず行く。埋葬は、あんたも手伝ったんだろう?」


「力仕事ができるわけでも、お経を読めるわけでもねぇから、あまり役には立てなかったけんじょ。残酷な有り様でした。雪が降る前に埋葬できねかった亡骸は、冬の間はざらしで、春になって雪の下から出てきたときは、だっちぇが誰だかわかんねぇ格好になっていました」


 傷みの進んだ死体は膨れ上がって、見るに堪えないものだという。オレはさんざん死体を作り出してはきたが、腐りかけたひどい状態というのは知らない。


 時尾は、会津の墓の話をするときはいつも目を伏せるのに、今日は違う。オレは思い切って、時尾の目を見つめ返した。


「江戸街道から宇都宮、日光街道を通って、東京に出て働く。はいくらでもある。あの板垣退助が、会津藩の名誉回復だ何だと運動を起こしているしな。用心棒でも間者でもやって稼げるだけ稼いで、いりようなものを斗南に送る」


「ありがとうごぜぇます。だけんじょ、薩長土肥の政治家に利用されに行くなんて、やっぱり危険だべし。無茶なさらねぇでくなんしょ」


 時尾の目に涙が浮かんだ。


 本当は心配じゃなくて反対したいんだと、オレだってわかっている。時尾は、オレにすがり付いて引き留めたりなどしない。


「暖かくなったら、はとに手紙を持たせて飛ばしてくれ。オレも返事を出す」

「はい。ご無事を祈っています。またお会いできる日を信じています」

「必ず戻る」


 時尾は、ぎゅっと唇を引き結んだ。いくつもまばたきをして、それでも、涙が落ちるのを抑えられない。


 胸が締め付けられた。離れたくない。泣かせたくない。


 うつむこうとする時尾の頬に指を添えて涙を拭った。時尾は驚いた顔をして、微笑んだ。


「行ってくなんしょ。わたしは、さすけねえ。斎藤さま、どうそお気を付けて」


 気の利いた言葉の一つも吐けたらいいのに。


 オレはただ、袖章の守り袋をしまい込んだふところを押さえた。誠の一文字と段だら模様に意味がある。時尾が縫ってくれたことにも意味がある。オレ自身の誇りとオレの命より大切な何かが、擦り切れた袖章に詰まっている。


「それじゃあ。達者で」


 ささやく声は息と一緒に白くただよった。それが消えないうちに、オレは時尾に背を向けた。振り返ることはできなかった。自分がどんな顔をしているか、わからなかった。


 旅路に足を踏み出して、やっと、胸の想いが言葉になる。立ち止まって引き返したい衝動を押し殺す。告げるべきときは、今ではない。次に時尾に会うときにこそ、必ず告げよう。


 オレと一緒に生きてほしい。命が尽きる最後のときまで。


 だから、オレはまだ終わるわけにはいかない。生きたい。

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