伍 恋唄

 弥曽の手がオレの胸に触れた。


「やめろ」


 声が喉に絡んで震える。心臓のありかを探るように、弥曽の手がオレの胸を這う。


おなはお嫌いですか?」

「違う」

「年増はお嫌い? わたくしは来年には三十の大年増ですもの」

「違う、そういうんじゃない」


「篠田の娘は年増盛りの売れ残り、手弱女たおやめぶった疫病神だと、わたくし、陰で笑われているのです。仕方ねぇべし。十年近くも前、父が嫁げと命じた相手は江戸の蘭学塾で抗争に巻き込まれて死に、次に縁談のあった相手は京都守護におもむいて撃ち殺されました」

「相手の男が死んだのは、あんたのせいってわけじゃないだろう」


 うわごとのようにつぶやく。頭の芯が痺れている。

 弥曽が、香り立ちそうな笑声をこぼした。


「山口さまは、やはりお優しゅうごぜぇます。けんじょも、わたくし、もう何を言われても構わねぇのです。嫁ぐが武家の女の仕事でも、最早、嫁がずともいい。好いたお人に一度でも添うことができれば、この身など滅びっつまって構わね」


 弥曽の手がオレの心臓の上にある。弥曽が刺客なら、オレはあっさり殺されている。


 かたもり公の居所、この鶴ヶ城で場違いな真似は許されない。なけなしのきょうがオレをつなぎ止めている。女を突き放せ、と頭は体に命じようとする。体は拒む。女に触れたら最後、きっと呑まれてしまう、と。


 指一本動かせないまま、オレは、せめてものさかしら口をひねり出した。


「馬鹿なことを言うのはよせ。家名に泥を塗るな」

「父は死にました。藩境の戦に出陣した兄弟の行方も知れません。おなのわたくしが一人残され、会津の命運とて明日をも知らねぇのです。このに及んで篠田の家名など、何の価値もごぜぇません。ここにあるのは、ただ空っぽな女子の体だけ」


 弥曽が、倒れ込むようにオレの胸に身を寄せた。着物越しに柔らかさを感じた。髪からも肌からも女の匂いがした。


 あえぐように、弥曽は声を立てずに泣き出した。ひそやかな息遣いがオレの体を内側から引っ掻き回す。離れろと、オレはささやいた。嫌だと、弥曽は駄々をこねた。


「山口さま、弥曽をさらって、どこなりともお捨てくなんしょ。会津の武家であることが、弥曽のただ一つの誇りでした。戦にすべてを奪われました。誇りをなくした武家は魂をなくしたのも同じ。この体もまた、消えっつまえばいいのです」

「ならば、なぜ城に入った?」


「山口さまに、最後に一目お会いしとうごぜぇました。お会いできると信じておりました。山口さまに情けをかけていただきてぇのです。どうか弥曽をお救いくなんしょ。弥曽は、武家の生き方しか知らねぇ愚かなおなです。弥曽はこれからじょすんべし?」


 殺せと言うのか。抱けと言うのか。両方望むのか。望まれて、オレが拒むとでも勘違いしているのか。


「オレを誰だと思ってる? あんたの目には何も見えてやしない」


 女を殺したことはない。けれどきっとできる。女が死にたくなるほどの残酷な抱き方だってできる。京都で忌み嫌われたの中で最も多く人を殺したのもあざむいたのも、このオレ、斎藤一だ。


「ならば、本当のあなたさまを見てみとうごぜぇます。おっかねぇお姿になっつまってくなんしょ。おっかなければおっかねぇほど、きっとお美しくもなられるべし。弥曽は、見てみとうごぜぇます」


 馬鹿言え。おっかないのは、より気味の悪い化け物は、あんたのほうだ。


 その白い首筋を噛み裂いてしまいたい。生かすも殺すもオレ次第なら、本当に道具として扱ってやろうか。生きていることを後悔するまでめちゃくちゃにしてみようか。敵の陣中に投げ込んでおとりに使ってもいい。


 欲にあらがえない。いっそここで食ってしまおうと思った。オレは弥曽の着物に手を掛けようと、腕を持ち上げる。


 そのとき初めて、見られていることに気が付いた。聞かれていたことに気が付いた。そこにいるのが誰なのか気が付いた。


「時尾……」


 弥曽が、びくりと顔を上げて振り向いた。


やんだ、時尾さん?」


 時尾がきびすを返して駆け出した。


 冷水を浴びせられた心地だった。オレは弥曽の体を押しのけた。頭が混乱している。今、オレは何をしようとしていた?


「待って、山口さま」

「悪い」


 オレは弥曽を振り払って、時尾を追った。女の脚に追い付くのはすぐだった。肩をつかむと、時尾は身をよじって逃れた。


 肩で息をする時尾は、苦しげに胸を押さえて眉をしかめた。


「やっぱり斎藤さまだった。お邪魔しっつまって申し訳ありません」

「邪魔も何も、勘違いだ」


「なぜわたしを追ってきたがよ? いつも笑っている弥曽さんがつれぇ思いをしているなんてだっちぇもわかんねかった。弥曽さんは斎藤さまだけに胸の内を打ち明けたのです。戻ってあげてくなんしょ」

「勘違いだと言っているだろう。オレはあの女と言い交わしたわけじゃない」


「胸を貸していたべし? お似合いだと思いました。夫婦めおとのようなお姿だと」

「そんなんじゃない」


「嘘をつかねぇでくなんしょ! わたしは、人が強ぇ思いを抱けばわかるんだ。斎藤さまは弥曽さんに惚れっつまったんだべし。無理もねえ。弥曽さんみてぇに綺麗な人から慕われたら、可愛めげぇと思うのも当たり前だなし」

「違う……違うんだ、本当に」


 時尾は泣き笑いの顔をした。


「斎藤さま、そだに泣きそうな目をされると、わたしはじょしていいか、わかんねくなります」

「オレのほうがわからない。勝手なことを次々と言われて」

「勝手ですか? 斎藤さまはわたしに気が付かねぇくらい、弥曽さんに夢中だったではねぇですか」


 返事に迷う。正直に告げるしかないと思った。


「惑わされたのは本当だ。気がどうにかなっちまいそうだった。馬鹿だな、オレは」


 時尾から目を背けてしまいたかった。でも、オレはえて時尾を見つめ続けた。


 胸が痛いような気がした。痛みが心地よかった。痛みの正体を探るのはやめた。心臓が穏やかに高鳴った。


 時尾はゆっくりとまばたきをして、丁寧に頭を下げた。


「いろいろと失礼を申しました。お許しくなんしょ。弥曽さんにも後で謝ります」

「オレこそ、悪かった。嫌な思いをさせた」

「嫌な思いではねぇけんじょ、ただ……」


 黙り込むと、城内の宴で男の声が唄を歌うのが聞こえた。京都で耳にした、他愛ない色恋の唄だ。一人の男と二人の女。ふらふらと揺れてばかりの男を想って、女は袖を噛む。


 まるで唄に冷やかされるようで、かっと頬が熱を持った。時尾も同じことを思ったのか、口元を手で覆った。遠くのかがりの光がようやく届く暗がりでは、顔色はうかがえない。


 知らぬふりを決め込むことにした。


「皆のところに戻らないのか?」


 声がうわずってしまった。応える時尾も似たようなものだった。ぱたぱたと上前を整える仕草がぎこちない。


「んだなし。戻らねば、八重さんたちに心配させっつま。斎藤さま、わたし、これで失礼します」


 お辞儀をして、時尾は足早に立ち去ろうとした。冷えた夜風が渡った。次はいつ会えるだろうかと、急に不安が胸に差した。


「時尾!」


 声を上げた後で息を呑む。初めて名を呼んでしまった。せめて「時尾どの」と呼ぶべきだった。


 振り返った時尾は目を見張っている。


「はい。何だべし?」

「その……鳩に手紙を持たせる。何でもいい、書くことは何でもいいから、知らせてほしい。城には、たぶんオレは、しばらく戻らないが……無事を、祈っている。だから、手紙を」


 ちぐはぐで尻切れ蜻蛉とんぼ。伝えたいこともろくに伝えられず、不甲斐なさに舌打ちしたくなる。


 時尾は微笑んだ。暗がりをも照らすような、ぱっと明るい笑顔だった。


「お手紙、書きます。斎藤さまも、どうぞお気を付けて」

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