伍 恋唄
弥曽の手がオレの胸に触れた。
「やめろ」
声が喉に絡んで震える。心臓のありかを探るように、弥曽の手がオレの胸を這う。
「
「違う」
「年増はお嫌い? わたくしは来年には三十の大年増ですもの」
「違う、そういうんじゃない」
「篠田の娘は年増盛りの売れ残り、
「相手の男が死んだのは、あんたのせいってわけじゃないだろう」
弥曽が、香り立ちそうな笑声をこぼした。
「山口さまは、やはりお優しゅうごぜぇます。けんじょも、わたくし、もう何を言われても構わねぇのです。嫁ぐが武家の女の仕事でも、最早、嫁がずともいい。好いたお人に一度でも添うことができれば、この身など滅びっつまって構わね」
弥曽の手がオレの心臓の上にある。弥曽が刺客なら、オレはあっさり殺されている。
指一本動かせないまま、オレは、せめてもの
「馬鹿なことを言うのはよせ。家名に泥を塗るな」
「父は死にました。藩境の戦に出陣した兄弟の行方も知れません。
弥曽が、倒れ込むようにオレの胸に身を寄せた。着物越しに柔らかさを感じた。髪からも肌からも女の匂いがした。
「山口さま、弥曽をさらって、どこなりともお捨てくなんしょ。会津の武家であることが、弥曽のただ一つの誇りでした。戦にすべてを奪われました。誇りをなくした武家は魂をなくしたのも同じ。この体もまた、消えっつまえばいいのです」
「ならば、なぜ城に入った?」
「山口さまに、最後に一目お会いしとうごぜぇました。お会いできると信じておりました。山口さまに情けをかけていただきてぇのです。どうか弥曽をお救いくなんしょ。弥曽は、武家の生き方しか知らねぇ愚かな
殺せと言うのか。抱けと言うのか。両方望むのか。望まれて、オレが拒むとでも勘違いしているのか。
「オレを誰だと思ってる? あんたの目には何も見えてやしない」
女を殺したことはない。けれどきっとできる。女が死にたくなるほどの残酷な抱き方だってできる。京都で忌み嫌われた
「ならば、本当のあなたさまを見てみとうごぜぇます。おっかねぇお姿になっつまってくなんしょ。おっかなければおっかねぇほど、きっとお美しくもなられるべし。弥曽は、見てみとうごぜぇます」
馬鹿言え。おっかないのは、より気味の悪い化け物は、あんたのほうだ。
その白い首筋を噛み裂いてしまいたい。生かすも殺すもオレ次第なら、本当に道具として扱ってやろうか。生きていることを後悔するまでめちゃくちゃにしてみようか。敵の陣中に投げ込んで
欲に
そのとき初めて、見られていることに気が付いた。聞かれていたことに気が付いた。そこにいるのが誰なのか気が付いた。
「時尾……」
弥曽が、びくりと顔を上げて振り向いた。
「
時尾が
冷水を浴びせられた心地だった。オレは弥曽の体を押しのけた。頭が混乱している。今、オレは何をしようとしていた?
「待って、山口さま」
「悪い」
オレは弥曽を振り払って、時尾を追った。女の脚に追い付くのはすぐだった。肩をつかむと、時尾は身をよじって逃れた。
肩で息をする時尾は、苦しげに胸を押さえて眉をしかめた。
「やっぱり斎藤さまだった。お邪魔しっつまって申し訳ありません」
「邪魔も何も、勘違いだ」
「なぜわたしを追ってきたがよ? いつも笑っている弥曽さんがつれぇ思いをしているなんて
「勘違いだと言っているだろう。オレはあの女と言い交わしたわけじゃない」
「胸を貸していたべし? お似合いだと思いました。
「そんなんじゃない」
「嘘をつかねぇでくなんしょ! わたしは、人が強ぇ思いを抱けばわかるんだ。斎藤さまは弥曽さんに惚れっつまったんだべし。無理もねえ。弥曽さんみてぇに綺麗な人から慕われたら、
「違う……違うんだ、本当に」
時尾は泣き笑いの顔をした。
「斎藤さま、そだに泣きそうな目をされると、わたしは
「オレのほうがわからない。勝手なことを次々と言われて」
「勝手ですか? 斎藤さまはわたしに気が付かねぇくらい、弥曽さんに夢中だったではねぇですか」
返事に迷う。正直に告げるしかないと思った。
「惑わされたのは本当だ。気がどうにかなっちまいそうだった。馬鹿だな、オレは」
時尾から目を背けてしまいたかった。でも、オレは
胸が痛いような気がした。痛みが心地よかった。痛みの正体を探るのはやめた。心臓が穏やかに高鳴った。
時尾はゆっくりとまばたきをして、丁寧に頭を下げた。
「いろいろと失礼を申しました。お許しくなんしょ。弥曽さんにも後で謝ります」
「オレこそ、悪かった。嫌な思いをさせた」
「嫌な思いではねぇけんじょ、ただ……」
黙り込むと、城内の宴で男の声が唄を歌うのが聞こえた。京都で耳にした、他愛ない色恋の唄だ。一人の男と二人の女。ふらふらと揺れてばかりの男を想って、女は袖を噛む。
まるで唄に冷やかされるようで、かっと頬が熱を持った。時尾も同じことを思ったのか、口元を手で覆った。遠くの
知らぬふりを決め込むことにした。
「皆のところに戻らないのか?」
声がうわずってしまった。応える時尾も似たようなものだった。ぱたぱたと上前を整える仕草がぎこちない。
「んだなし。戻らねば、八重さんたちに心配させっつま。斎藤さま、わたし、これで失礼します」
お辞儀をして、時尾は足早に立ち去ろうとした。冷えた夜風が渡った。次はいつ会えるだろうかと、急に不安が胸に差した。
「時尾!」
声を上げた後で息を呑む。初めて名を呼んでしまった。せめて「時尾どの」と呼ぶべきだった。
振り返った時尾は目を見張っている。
「はい。何だべし?」
「その……鳩に手紙を持たせる。何でもいい、書くことは何でもいいから、知らせてほしい。城には、たぶんオレは、しばらく戻らないが……無事を、祈っている。だから、手紙を」
ちぐはぐで尻切れ
時尾は微笑んだ。暗がりをも照らすような、ぱっと明るい笑顔だった。
「お手紙、書きます。斎藤さまも、どうぞお気を付けて」
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