麦わら帽子と白いワンピース

潤蘭

麦わら帽子と白いワンピース

 真夏は獣欲をしたたらせて猛然と彼女へと殺到した。しかし、熱線一条すら彼女の白い肌を犯すことはかなわなかった。

 彼女は日傘を傾けて、麦わら帽子の廂から空をあおぎみた。青地に偏在する片雲は蒼穹にあってかえって存在感を薄くするもののごとく、いまにも空に吸いこまれて消えてしまいそうなほどはかなく見える。

 海につうじる坂道をあがりながら、彼女はここ数日来心を悩ませつづけているある問題について思いをめぐらしていた。

 彼が浮気をしていた。発覚したのはほんの数日前だった。教えてくれたのは大学の友人だった。

「あんたの彼氏、浮気してるよ」

 寝耳の水の言葉に、最初は信じられなかった。入学からずっと親昵している友人を、一時期は完全にうたがうほどだった。きっと自分たちの幸せを妬んでいるのだと勘ぐり、忠言にも耳を貸さず、さんざん罵倒し、大喧嘩をやらかしてしまった。友人は、その彼女のヒステリックな罵詈雑言をあまんじてうけた。

 それでも不安はあり、ある時彼の前でなにげなく自分の友人の彼氏が浮気していたらしい、これは最低だ、パートナーに対する裏切り行為だ、絶対にゆるせない、あなたもそうおもうだろうと同意をもとめたところ、彼は急に真顔になり、かとおもうと青ざめて、うろうろと落着きをうしなって部屋を右往左往したかとおもうと、その挙句、もう逃げられないと観念したのか、わっと床に五体投地して彼女に許しを乞うように縷々と自身の罪状を告白しはじめた。これこそまさに語るに落ちるというものだった。

 彼は全面的に自身の非をみとめた。言い訳がましい言辞はひとことだももらさなかった。その代りにわかれたくないという意志だけは固く護持してゆずらない。彼女は答えを保留し、まずまっさきに友人のもとに走った。どうすればいいかわからなかったが、第一に彼女に謝らなくてはと思ったのである。

 それからいまに至るまで紆余曲折があった。友人はこころよく彼女をゆるしてくれた。もとより恨んでなどおらず、というのも、友人は彼女などよりもよっぽど精神的にすすんでおり、自身にも過去にたような経験があり周囲に迷惑をかけたことから、彼女の乱調にも冷静でいられたのである。

 しかしそれにしても、その時の彼女の涙と、「……、でも、このまま絶交になっちゃたらどうしようっておもった」という言葉は、いまでも彼女のこころに棘を残している。

 この一件はますます友人間の友情をふかめ、また逆に人間の情のはかなさをも彼女におもいしらせることとなった。

 最初に告白してきたのはあちらなのに、好きになるのも勝手なら熱が冷めるのも勝手ということだろうか。いったい、愛する者というのは熱しやすく冷めやすいものなのだろうか。

 彼女は坂をのぼりきり、平坦な道にでた。太陽はまだ中天に赫奕と輝いている。坂道まででちょうど日脚はとぎれており、そこからしばらく、屋陰や緑蔭が地面に複雑怪奇な唐草文の絨毯を織りまぜる民家の間の細道を道なりに進んでゆくことになる。

 歩きながら、彼女の顔色はすぐれない。いまだに心の整理はついていない。まさか、彼に限って、というおもいとともに、裏切られたという確固たる落胆が、彼女の心内でせめぎあい、じわじわと心を底の方から浸食してゆくようだった。

 その時電話が着信を告げた。みると彼からである。彼女は無視して日傘をもち直し、また黙々と坦々たる道に視線を落とした。

 電話はあえて着信拒否にはしていない。しかし絶対にでない。そうやっていつまでもでるはずのない電話にコールし続けていればいい。

 いまにしておもえば、彼がたまに電話にでないことがあったのも、そういうことだったのだろうか。彼とは大学がちがうから、仕方がないことだと諦めていたが、しかしそれもこれもがすべて彼の背理だったかとおもうと、やむにやまれず、またむかむかと一度おさまりかけていた怒りが積乱雲のように急激に膨張してくるのがわかった。

 そしてその怪雲がまた彼女のこころに雨をふらすのだった。その繰り返しである。数日間この乱高下をいったりきたりしていい加減彼女もつかれてきていた。

 ――ここまでかな、と、少女は夏空を麦藁帽のむこうに透かしみた。つき合いはじめてから三年、たしかにこの恋愛にゆき詰まりをおぼえ始めていたのも事実である。彼の二心も、その如実な表われなのかもしれないとおもえば、仕方のないことのような、もはやどうでもいいことのような気もしてくる。

 今日、彼女は白いワンピースに麦藁帽といういでたちだった。くろい日傘がそれにアクセントを加えている。いかにも男好きな格好であるけれども、しかし彼女は今日はそんな気分だったのである。そんな気分だったというほかない。

 清算。彼女の念頭にはそんな考えがあった。彼とであったのも夏の海だった。友人との小旅行先でであったのだけれども、あの時も自分はしろいワンピースに麦藁帽という清楚ぶったみなりで、海辺を友人と歩いていたところを彼に声をかけられたのだ。話してみると地元が割に近所で、妙に馬もあった。だから軽い気持ちでつき合ってみることにした。

 彼は足しげく彼女の地元に足を運び、大学にも遊びにき、自分の友人たちともよくしてくれ、非常に快活なさわやかな風の獣のようなひとだとおもっていた。しかしそれは見込み違いだったのだ。彼は自分を裏切ったのだ、……

 あの時の自分というものにさよならを、幼かった自分にさよならを告げるために、わざわざこの夏服を押し入れの奥からひっぱりだしてきた。本当はあんまり女々しくって好きじゃないのだけれども。

 なんとなく海をみたいとおもったのも、ほかのだれがどう思うかはさておき、自分としては気分のいれかえという意味合いよりも、やっと恋愛という窮屈な魔物から解放されたという安堵がその動因の最もたる割合をしめるようにおもわれる。その端的な表徴が海という無限の可能性にみちた大自然なのだ。

 いまでも目を閉じれば、まぶたの裏にありありとあの頃の夏の海の姿がおもいだされる。海のただなかに岩山のように巍々とたちはだかる白雲、地平線の彼方まで透きとおるようにひろがる青空、なにかしら心の奥底を誘いひきつける潮騒、その潮騒をはこんでくる緩慢な風の感触、そして海のにおい、種々の海藻や海の生物、……

 平坦な道がつきる頃に、今度は坂上にでた。そこからはもう眼下に海がのぞまれた。海はあの頃とちっともかわらない姿をそこに大々とよこたえている、かわっているのは自分ばかりか、……

 坂道をくだり、車道をよこぎり、海につきでたうら寂しい高台の欄干にもたれた。胸をおしつけるようにしたから胸がせつないほど苦しい。

 穏やかな風がさよさよと麦藁帽にかるく挨拶してくる。まるで海に歓迎されているようで彼女はここちよかった。微笑をうかべ、じっとりと海に視線をそそぐ。

 海上には片雲がさすらい、海鳥は飛びかわし、寛にたゆたに平和なひと時をすごしている。海というのはまったく自由だった。ここにはなんら束縛というものもなく、窮屈な人間世界の約束事もなく、ただ生命がうまれ、死んでいくばかりである。ここには単純な弱肉強食の世界があるばかりで、アザラシがシャチに食い散らかされて赤い生温かな血潮を氷上にぶちまけ、狼藉たる惨状をそこに呈しようと、取るに足らぬことなのである。そんなことはこの世界のどこでもいつでもおこっているもので、そんなものに一々悲憤こもごも泣いたり怒ったりする人間はよっぽど暇にちがいない。笑えばよろしい。惨劇こそ笑って楽しむべきものである。

 これは海に対する感傷としては下等に類する平々凡々きわまるものだったが、このような典型的な海への憧憬は彼女の心をなぐさめて余りある十分な力を有していた。自然とはかくも人間のとかく複雑ぶりたがる心を単純な元素まで帰する不思議な魅力があるらしい。

 斜光は上から下から縦横無尽に彼女に襲いくる。きびしく彼女を呵責するように日射は照り付け、その怒濤を反映するように海からの照りかえしがぎらぎらと彼女の平静を打ち壊そうと水面を走った。

 盛りの夏のもとにある、海は燃え立つようにすさまじく、文字通り火の海と化した大海は人間の立入りを禁ずるようなあらあらしい威厳にみち、風は威風堂々たる貫禄をばたばたとはげしく立ててそのうえをとびすぎている。

 彼女の心はこの印象に強烈にひきつけられた。こんなことは未だかつてないことだった。彼とのことで満たされている間はついぞあじわったことのない頽廃的な快感だった。

 ふとそこで、傍らの人影に気がついた。海しか目にはいっていなかったから、最初からいたのか、それとも途中からやってきたのか、それもわからない。横目で盗視する限りでは、自分とおない年くらいのとし若い青年で、髪を短く刈り込み、どことなく彼をおもわせる精悍な顔つきをした若武者である。欄干にたゆげにもたせられた二の腕の引き締まった感じから、その白いポロシャツの下に秘められたギリシャ彫刻らしい頑強な肉体が髣髴とさせられ、あるいは青年は海からやってきたという空想に彼女はなんなく入ることができた。

 これも奇妙だった。まえまでの彼女だったらある潔白さから愛してもいない男の美点をすなおに認める寛容さに欠けていた。それがいまでは横目とはいえじろじろと遠慮会釈もなくその肉体美に讃嘆のまなざしをおしまず、その大理石のようななめらかさと無骨さが奇妙な合一を果たした錨の似合そうな二の腕に自身の腕をからめ、その発条のような弾力のある胸板に額をこすり付けてみたいと、なんらの含羞もなくおもうことができた。つまり、彼女の心はもう浮気の決心がついていたのである。

 あとは実行あるのみであり、いまの彼女にとって精神と行動の垣根は一足飛びに越えられる程度のものだった。言うも行うも手にとるように易い。

 彼女は決然と欄干から身をはなそうとした。しかしそこで時ならぬ神風が起こったのである。海のほうから突如吹き上げてきた颶風が、彼女の麦わら帽子をかすめ取り、たちまちそれは海にすいこまれていった。

 彼女は、手をのばそうとしなかった。ぼんやりとし巻く風のただ中にある麦わら帽子をやる方なく手すりのむこうに見送るばかりだった。

 どこまでも飛んでいってしまえばいい、とおもった。綿毛のようにとんでいって、勝手に種でもなんでもどこにでも播き散らすがいい、すくなくとももうわたしのもとにはもどってきてくれるな、……

 その時である、傍らの青年がにわかにうごいたのは。

 彼は往々体操選手がそうするように、手すりに全体重をかけると、ぐっと両足を地から離し、軽やかに欄干を飛び越え、幅跳びの選手のように危なげなく砂の上に着地し、眦を決して空中でころげ回る麦わら帽子を睨めあげた。砂を蹴り、駆けだしたところは音もなく砂上を滑りゆくようだった。

 砂の上を疾駆する彼の足取りは軽かった。まるで砂など初めからないかのようにぐんぐんと加速し、たちまち空中の麦わら帽子に追いつき、汀で半身をそらして跳躍した。彼の胸が大気と摩するように張られる、腕が光線のようにひらめく。その姿は真夏の海と雲を背景に目にいたいほど鮮やかに映った。彼は着地し、ぱっぱと衣服についた砂埃をはらった。ふり返り、彼女にむけてかかげてみせた右手には、しっかりと麦わら帽子が握られているのだった、……

 彼女はその一部始終を高台からまるでなにかの陸上競技をみるかのように目撃した。彼女は興奮していた。そうして彼と話すのがもうまちきれないのだった。

 高台までもどってきた青年は、無言で麦わら帽子をさし出した。それを両手でうけとりながら、彼女は空目を使ってはにかんだ。しかし青年はそれに貪着せずいってしまおうとする。あわてて彼女は口を切った。

「待って。どこへゆくの?」

 この奇異な質問に青年はいぶかしそうにふり返った。みしらぬ相手にそんなことを質される筋合いはないといいたげである。それを彼女もすぐ察知し、顔を赤くして言葉を継いだ。

「あの、せっかく助けてもらったのに、お礼もいえないなんて、……」

「ああ。……、お礼なんていいんだよ。ただ、人間として当たり前のことをしたまでだもの」

「でも、……」

「もういっていいかな?」

 青年はあくまで冷淡だった。この冷淡さはなにに起因するのだろうか? 彼女は考えた。そうして、ありきたりな結論、つまり彼は純情で、わたしにたいして気恥ずかしさをおぼえているのだという不可解な自信にみちた結論にゆきついた。すこし前までの彼女なら考えられない大胆な仮説だった。そうしてその仮説の実証に寸毫も躊躇しないところも例にないことだった。

 彼女は精一杯声をつくり、人工的な媚態を拵えあげ、言いつのった。

「ちょっと、そこの喫茶店でお話しませんか? お礼もかねて、わたしがなにか奢りますよ」

「いや、べつにいいよ。お腹も減ってないし、ここにはただなんとなく立ち寄っただけだしね」

「わたしがお礼をしたいんです。それじゃあ駄目ですか?」

 満々と得体のしれぬ多情をふくんだ嬌声だった。

 彼は冷笑した。その瞬間、彼女はさっと血の気がひいた。そうして、彼女は自分の根本的なあやまちを理解し、すぐさま身をひいた。

「ごめんなさい。なんでもないです。ひきとめてすみませんでした」

「いや。……、でも、僕はもう助けてあげられないからね。次は彼氏さんにでも助けてもらうといいよ。それが自然なこと、なんだろう?」

 彼は姿を消した。彼女はいつまでもその場にたたずんでいた。午後の日差しが、じょじょに海のほうから彼女のほうへ這いあがってくるので、ようやく我にかえった。青年が去ってからもう一時間が経過していた。

 彼女はぼんやりとしていた。こんなことものあるものだなあと考えるともなく考えていたのだ。そうしておかしくてたまらず、突然気が触れたように笑い出すのだった。

 なんだか自分がいままで悩んでいたことが全然馬鹿らしくなってしまった。こんな世界の不思議には浮気程度がなんだというのか。

 彼女は傘をたたんだ。すると、いまさらながらに真夏の暑さが身にしみるように感じられるのだった。

 折よく彼から電話がかかってきた。彼女は欄干に背をあずけて、必死なものだ、どうしてそんなにフラれたくないのだろう、女なんて星の数ほどいるのに、と自嘲気味にディスプレイの彼の名前をみつめた。そこにはもう先ほどまでの自信に満ちた彼女の姿はなく、鬼気せまる気配も雲散霧消していた。ただ、前までの彼女とも微妙に違っていた。

 今年の夏もまた、ながい寝苦しい日々がつづくだろうと、彼女はふとおもった。汗はたくさんかくだろうし、体重はがくっとおちるだろう。夏ばてもするにちがいない。なによりもまずは体力をつけなくては。そのためには、たとえば、スイーツなんかどうだろう? それも、うんと食べなくては、……財布が空になるくらいに、……

 さしあたっては彼への報復方法をおもいついたことで満足し、彼女は微笑して、ゆっくりと通話ボタンを押し込むのだった。

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