水のタオル
硫黄
第1話 水に恋する
水だ、と思った。水の音なんて水道水が流れている音しか聞いたことないのに。でも、ただの水が流れている音じゃなかった。なんだろう、この感覚は。体の中に水が入ってきて歌っている。踊っている。そんな感覚だった。
実際、この場所に水など無い。だって、ここは音楽室だ。あるのは怪談に出てきそうな名前も知らない音楽家の絵。あとは、ピアノとかカスタネットとか僕でも知っている名前の楽器たち。その楽器の中で鳴っているものは一つも無い。じゃあ、なんで聞こえてくるのだろう。水が、歌って踊っているような楽器の音色が。
僕は、音楽室の中で立っていた。ただ、立ちすくんでいた。初めて聴く、水のような音に圧倒されて。ハッっと我に返り、音の聞こえてくる方を確認する。音は、音楽準備室の方から聞こえていた。
音楽準備室に続く扉をそっと開ける。キーッという音がした。その音に気づいたらしく、楽器の音が止まった。
目の前に、一人の少女が立っていた。驚いたようにこちらを見つめている。手に何かを持っている。見覚えがあった。その少女にも、手に持っているものにも。ヴァイオリンだ。そう、ヴァイオリン。教科書で見たことがある。ばかみたいにヴァイオリンという言葉を頭の中で繰り返して、やっと少女に目が向いた。怪訝そうにこちらを見ている。ぼーっと少女の方を見ていると、
「…どうしたの?」
少女が口を開いた。そうだ、何か話さなきゃ。
「今の音、朝霧…?」
意味がわかりにくいことに言ってしまってから気がついたけど、その少女———朝霧はちゃんと理解してくれた。
「このヴァイオリンのこと?弾いてたのは私だけど…。というか、浅倉はどうしてここに?」
その言葉で僕———浅倉和樹は音楽室に用があったことを思い出した。
「あっ、そうだ。小村先生にプリント提出しに来たんだけど、先生いる?」
「先生なら、職員室にいると思うけど…。多分。」
「そっか。」
どうしよう。会話が終わってしまう。もっとあの音の話をしていたいのに。もっとあの音について聞いてみたいのに。もっとあの音を聴いていたいのに。もっともっともっと。
「…どうしたの?」
朝霧は、何か僕の心を感じたように再び尋ねた。聞きたいことがあれば聞いても良いよ、とでも言うように。
「そのヴァイオリンの音ってさ…」
どうしよう。言葉が出てこない。朝霧は、続きを待つように僕をじっと見つめていた。
「水、みたいだね。」
自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、何かを朝霧に伝えたかった。
「そんな音が出せる朝霧は、凄いんだね。」
なんだろう、歯がゆい。この言葉は合ってるけど、合ってない。
僕が悩んでいるのを読み取ったのか、朝霧がゆっくりと口を開いた。
「…ありがとう。でも、凄いのは私じゃないよ。凄いのは、この子。」
そう言って、ヴァイオリンに目をやる。
「どれだけこの子のベストを引き出して、100%以上の力を出してあげるかが私たちヴァイオリニストの仕事なの。」
「…うん。」
違う。多分、あの水のような音色は朝霧が弾くヴァイオリンでしか聴けない。なぜだかわからないけれど、そう思った。
どうにかして、それを伝えたかった。でも、それを伝えても、うまく伝わらないように感じた。
「か、語っちゃってごめん。あの、先生にプリント出しに行くんじゃなかったの?」
「そ、そうだった。出しに行かなきゃ。」
そろそろ出しに行かないと怒られる。
「じゃ、またね。」
朝霧がそう言った。会話はこれで終わり、と言うことだ。
「ま、またね。」
後ろ髪引かれながらも、僕は音楽準備室を後にした。
この日、確かに僕は水の音色に恋をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます