デートにはうってつけの日

高梨來

デートにはうってつけの日

「じゃあもっかい練習しよっか、お名前は、いくつですか?」

 目線の高さを合わせるようにとしゃがみこんで尋ねるこちらをまえに、いつものあのはきはきと明るい様子で彼女は答える。

「たかがきりんねです、四歳です」

「じゃあ俺は誰ですか?」

「しのぶくん!」

「俺とりんちゃんの関係を教えてください」

「おともだちー!」

「そうだけど、きょうはそうじゃないよね? ね、もっかいやり直し」

 追従の言葉をまえに、それでもひるむ様子はなく返される言葉はこうだ。

「おじさん!」

「よく出来ました。じゃあ行こっか?」

 しゃがみこんだままの頭をそうっとなでれば、たちまちにぴかぴかの太陽みたいな笑顔がめいっぱいに広がる。

 まったくもって、反則みたいにかわいい。


「はいこっち向いて、撮るよー」

 入り口にはいるまえにひとまずは、と、ばかりに、パンダのデザインをかたどったポストのまえで記念撮影をする。いちばん元気な朝の出発時に、まんがいち迷子になった時の対策も含めてその日の格好がわかる写真を撮っておくこと。このちいさなガールフレンドと知り合ってまもない頃に、彼女の保護者から教えられたきまりのひとつだ。

 アイボリーに紺色のラインの入ったセーラー襟のカットソーの上にはスエット素材のカーディガン、ブルーのジーンズに赤いスリッポン。

ドーナツのモチーフのついたヘアゴムでふたつにくくった髪の毛の裾をゆらして満面の笑みでほほえんで見せる姿には、あますことのない愛情を一身にうけてすくすくと育った様子がありありと伝わる。

「りんちゃんきょうもかわいいお洋服着てんねえ、おしゃれ番長じゃん」

「忍くんとデートだからね、ママがえらんでくれたの」

 デートだなんて単語をしきりに使いたがるのはおしゃまさんなお年頃というのか、なんというのか。

「髪の毛もママ?」

「パパ!」

 きっぱりと答える様子に、思わず口元はほころぶ。えらいなぁお父さん、俺には出来んのかな。

「ちょっとだけ待ってね、パパとママに先に連絡しとくからね」

 ぎゅうっとジーンズの腰のあたりをつかんで待ってくれている姿を横目に見ながら、手にしたスマートフォンの画面を開く。そりゃあまあ大切なお嬢さんをお預かりするわけですから、そのくらいのてはずは。


――『いまから行ってきます。なにか緊急事態があれば連絡しますのでよろしくお願いします。そっちも楽しんできてね』


「よーし、じゃあいこっか」

「はぁい」

 とびっきりのよいこのお返事をまえに、つられるようにうっとりと瞳を細めながら差し伸ばされた掌をぎゅうっと握りしめる。子どもの掌はしっとりとかすかに汗ばんで、すいつくみたいにやわらかだ。


「りんちゃんさぁ、きょうはなに見んの?」

「ぞうさんでしょ、ライオンさんでしょ、キリンさんでしょ。あとねえ、かばさんも!」

「パンダさんはいいの?」

「パンダさんはいっつも寝てるからつまんないもん」

「きょうは朝だから起きてるかもしんないよー? ほら」

 ゲートに入ってすぐ、名物のパンダのいる厩舎にはもうはやすっかり人だかりが出来ている。

 かきわけるようにガラス越しのブースへと近づけば、ちょうど食事の時間にあたったらしく、のんびりと笹を食べる姿がこちらへと飛び込んでくる。

 家族連れやカップル、ひしめきあう中に行儀良く並びながら、人影の隙間から見えるパンダの姿をじっと眺める。白と黒のコントラストにくまどりをされた瞳、ずんぐりむっくりの大きな体で手にした笹をせっせと口元へと運ぶ様子は、ほんらい獰猛ないきものであるはずなのに、なんだか妙にあいきょうがあってかわいい。

「いっぱいごはん食べてるね、かわいいね」

「りんちゃんきょうは朝ごはんなに食べた?」

「おにぎりとウインナー。あとねえ、目玉焼きとりんご」

「りんちゃんもパンダさんもたくさん食べてたくさん遊んでえらいね」

 こくこくとうなずいて見せる姿を横目に見ながら、握りしめた指先がほどけないようにと、もういちどやわらかな掌を握り返す力をわずかに強める。

 パンダ厩舎を離れたあとは、おみやげコーナーを横目にみながら総合案内所まえでもう一度、ぐるりを確認する。

「次はなに見よっか、ぞうさん見る?」

「鳥さんも見る!」

「そっかそっか、じゃあ鳥さんが先ね」

 マップ確認とともに、トイレと休憩所の確認を怠らないこともわすれない。

 

 五重の塔をバックにカモシカや鳥類の集うエリアをじっくりみた後は、いよいよお楽しみの象の厩舎に近づく。

「りんちゃんはぞうさんのどこが好き?」

「おはなが長くてねえ、じょうずにぷうってお水をのむところ!」

 目の前では、童謡で歌われるとおりに、長い鼻を器用にまげてダイナミックに水を浴びる象の姿が繰り広げられる。

「すごいすごい、びしゃびしゃあ!」

 ありのままの好奇心ではしゃいで見せる姿は文句なしにかわいい。

「りんねえ、こないだ幼稚園でダンボみたの。ダンボはねえ、お耳がぱたぱたってしてお空を飛ぶの」

 のんびりとした歩みに合わせてひらひらとかすかにゆれる耳をじいっと眺めながら、ちいさなガールフレンドは続ける。

「ダンボはねえ、ママとはなればなれでかわいそうだけど、最後にママに会えるの。幼稚園のみんなでね、ダンボのことがんばれーって応援したんだよ」

 瞳を細めるようにしながらつむがれるのは、飾り気なんてひとかけらもないぬくもりにあふれた言葉たちだ。

「この子はママとうずうっといっしょだもんね、うれしいね」

「りんちゃんはさぁ、ママのこと好き?」

 ぴったりと寄り添い合って歩みを進める象の親子の姿をじいっと眺めながら投げかける問いかけへの返答は、当然こうだ。

「だいすき! パパもママもねえ、いっぱいいっぱいだいすき」

 握りしめた掌の力をぎゅうっと強めるようにしながら、続けざまに彼女は答える。

「りんはねえ、忍くんもだぁいすき」

 ……素直にうれしい気持ちはあれど、両親に続くのは果たしていいものなのか。

「じゃあさ、冬弥くんのことは?」

 本来の『叔父さん』であるところの母親の弟の名前を出したところで、にこにこと告げられるのはこんなセリフだ。

「とうやくんもだいすきだけど、ゆうちゃんのパパだもん。りんがあんまり仲良しになったらゆうちゃんに悪いでしょ」

「遠慮しなくっていいじゃん、ゆうちゃんとわけっこすれば?」

「だって、りんのほうがゆうちゃんよりお姉さんなんだよ?」

 胸をはって答えて見せる姿に、いい子いい子をしてあげることで応えてみせる。


 次の目当てであるライオンのケージに近づけば、動物園の花形スターは人だかりであふれている。

「いっぱいだよりんちゃん、肩車してあげよっか?」

 周囲の親子連れを見習うように申し出れば、とたんに遠慮がちにぶんぶんと首を振られる。

「だいじょうぶだよ、りんもう大きいもん」

「りんちゃんまだちっちゃいじゃん。ほら、こんだけだよ?」

「でももうおっきいもん」

 膝よりも下あたりの背丈を示すように手を振って答えれば、それでもひるまない様子でじいっとこちらを見つめるまなざしに追撃される。

 かすかに顔を赤らめ、ぶん、と首を振ってむきになって答えてみせるその姿はなるほど、ちいさくても立派なレディのそれだ。ああ、もしかして。

 目の高さを合わせるようにその場にしゃがみこみながら、忍は尋ねる。

「りんちゃんさぁ、パパはりんちゃんのこと肩車してくれるよね?」

「パパはりんのパパだもん」

「でもきょうは俺がりんちゃんのパパのかわりだよ。りんちゃんのことよろしくねって、パパとママにお願いされてきたんだよ?」

 すこしうつむき加減の頭をなでながら、忍は答える。

「俺はりんちゃんと仲良しでいたいから、りんちゃんに遠慮されんのがいちばん悲しいよ?」 

「……」

 すこしだけゆらいだように見えるまなざしをじいっとのぞき込みながら、忍は続ける。

「ライオンさんかっこよかったよってパパとママに教えてあげよ? ね」

 その場にぺたりとしゃがみこんでうながす合図につられるように、ちいさなお姫さまはどこか遠慮がちに、その身をこちらへとあずけてくれる。


「たかいたかーい。すごいねえ、よく見えるねえ」

 かっちり絡めるようにされた手足を振り落とさないように慎重にバランスをとりながら、人垣をかきわけるようにして檻の向こうのスターの姿を眺める。そりゃあ多少は堪えるけれど、この喜びように出会えるのならそんなのちっとも苦になんてならない。

「りんちゃんさぁ、ライオンさん怖くないの? がおーって言うよ?」

 悠々と敷地内を歩き回り、時に威嚇するようなまなざし(それもまたパフォーマンスの一環にしか見えないものだけれど)を向ける百獣の王をまえに、頭上から降ってくる上機嫌な様子の答えはこうだ。

「ライオンさんかっこいいもん。それにねえ、こまった時は忍くんが守ってくれるからだいじょうぶ!」

「忍くんライオンさんには勝てる自信ないなぁ」

「そしたらねえ、きゃーって言って走ってにげるの」

「きゃーって言うの?」

「きゃあー!」

 けらけらと明るく笑う声は鈴が鳴るように軽やかだ。思わず頬をゆるませるようにしながらちらりと視線を揺らせば、おなじように女の子を肩に乗せた休日のお父さん(らしき人物)と目があう。


(どうも、こんにちは。ご苦労様です)

(おやおやそちらもこんにちは、ご苦労様です)

(元気なのは何よりですね。おたがい良い休日を過ごしましょうね)


 子どもなんて持ったこともその予定もないけれど、つかの間『お父さん』でいられるこんな時間のもどかしさは、うれしくないわけがなくって。

「ねえねえ忍くん、パパがいっぱいいるけど忍くんがいちばんかっこいいねえ」

 ひそめた声でささやかれる声に、まんざらでもない気持ちになってしまうのは仕方のないことで。

「そっかなぁ~」

 きっとほんもののパパにだっておなじように言っていることくらい、百も承知だけれど。

 

 はぐれないように、しっかと手を取り合って子どもの足にあわせて順に園内を巡っていくそのうち、ちょうど大きな広場につく頃にはお昼の時間になっている。周囲の家族連れやカップルたちの姿を見習うようにパラソルの下を陣取り、お昼ご飯の準備にとりかかる。

「りんねえ、お外で食べるお弁当だあいすき」

 きつねのマークのついた黄色いリュックの中から取り出されたくまさんの絵のついたランチボックスに、そろいの水筒。ひとくちサイズのハンバーグにオムレツ、ほうれんそうとにんじんのソテー、付け合わせのナポリタン、ふりかけのまぶされたまあるいおにぎり。彩りも栄養バランスもきっちり計算されたはずの絵に描いたようなぴかぴかのお弁当に、思わずこちらまで頬がゆるむ。

「ママが作ってくれたの?」

「パパ!」

 にっこりと得意げにほほえみながら、お姫様は答える。

「きのうの夜にパパが作ってくれてねえ、おにぎりは朝にりんがいっしょにつくったの」

「へえ、えらいねえ」

 いまどきあたりまえと言えばそうだけれど、友人のそつのない『お父さん』ぶりに、頭が下がる思いに駆られる。

「りんはねえ、火はあぶないからかきまぜるのとかあぶなくないのだけおてつだいするの。もうちょっとおおきくなったら忍くんにも作ってあげるからね」

「へえ、楽しみだなぁ」

 ちっちゃなお箸で器用に食事をとりながらおしゃべりをする姿をまえに、残り物をつめた全体的に茶色っぽいお弁当(なんの変哲もないタッパーに詰めただけだったりする)をこちらもまた口元へ運ぶ。

 つくねだんご、モヤシのナムル、煮卵、昆布のおにぎり。甘辛く煮つけた味はさめていてもちゃんとおいしい。

「忍くん、りんのハンバーグ食べる?」

 じいっとこちらを見つめながらの提案をまえに、タッパーの中身に視線を落としながら返す言葉はこうだ。

「じゃありんちゃんも俺の鶏さんのお団子食べる? 交換しよっか?」

「こうかーん!」

 にこにことうれしそうに笑う顔を見つめながら、ひとくちだいに切り分けたおかずを互いの弁当箱の中に入れあう。

「おいしいねー?」

「ねー?」

 笑いあいながら、たなびく風にゆらされた白い雲がちぎれながら遠ざかっていくのを瞳を細めてみあげる。

 食べ慣れたはずのいつもの、それも冷めているおかずでも、こうして明るい空の下で笑いあいながら口にするのはやっぱりぜんぜん違う。こんな気持ちよさはきっと、どんなに高級な五つ星レストランでだって味わえない。

「たのしいねー?」

「ねー」

 思い思いの笑い声にまざりあうように、ふたりで交わしあうささやかな声もまた、喧噪の中にゆるやかに溶けてにじんでいく。

 まるでふたりきり、家族みたいに笑い合っている自分たちがまったくの他人だなんて、周りにいるみんなは誰もしらない。でも、それでいい。こうしてふたりでいることには、理由なんていらない。



「りんはねえ、かばさんとキリンさんがすきなの。でもねえ、きょうはワニさんがかっこいいなあって思ったの」

 忍くんは? ぶんぶんと手を振りながら上機嫌の様子で尋ねられる問いをまえに、にっこりと笑いかけるようにしながら答える言葉はこうだ。

「俺もかばさんかなぁ。でもオオカミさんもかっこよかったよねえ」

「かっこいいー!」

 うんとうれしそうに答える声に、もう何度目かわからない安堵のためいきを洩らす。ちゃっかり自分用にもいろいろと選んだおみやげの入ったリュックサックは、心地よい疲労とともにずっしりと肩にのしかかる。

「りんちゃんさぁ、おうち帰るまえにおみやげちょうだいって言ってね。忘れて持って帰っちゃうかもしんないからね」

「忍くんもりんのおうちに帰らないのー?」

 屈託のない様子で投げかけられる問いをまえに、思わず頬がゆるむ。冗談とはわかっていても、慕ってもらえるのはそりゃあうれしい。

「周くん待ってるからなぁー、帰んないとさびしがるもんなー」

 大切な『家族』の名前を出したその途端、わずかに複雑そうな表情が浮かぶのは変わらない。

「俺はねえ、周くんがいないとだめんなっちゃうの」

 わずかに強まる指先の力を感じながらささやくように答えれば、どこか弱気な様子の返答がおおいかぶさる。

「忍くんはだめじゃないよ? りん、しってるもん」

「りんちゃんのまえだとかっこよくしたいからね、俺もがんばってんだよ。りんちゃんだってさ、かっこいい俺のほうが好きだよね?」

「忍くんはいっつもかっこいいもん」

「やさしいなぁりんちゃんは」

 むきになったように答える姿をまえに、せりあがったいとおしさはますます膨らむばかりだ。

 かっこよくいたいと思える相手も、かっこわるい姿だってぜんぶ受け止めてほしいと思える相手も。どちらも優劣なんてつけられないほどに大切でいとおしくってたまらないことは代わりはしない。

「りんちゃんさぁ」

 いつもよりもうんと低い視線の先、こちらをまっすぐに見上げてくれるまなざしをじいっと見つめながら、忍は尋ねる。

「まだ時間あるし、おやつ食べにいこっか。いちごパフェとホットケーキとプリンだったらなにがいちばんいい?」

「プリン!」

 まっさきに答えてくれる姿をまえに、心はいつだってほだされるばかりだ。かわいいなぁほんとうに。このくらい意思表示が明快だと、やっぱり助かるなあ、なんてのも。(素直じゃないのもそれはそれでかわいいので、劣るだなんて言うつもりはない)

 汗ばんだ指先を握り込むようにしたまま、次の目的地を目指してゲートへと歩む。

「楽しかったね、また来ようね。りんちゃんさぁ、動物さんみんなにまたねーっていっときな?」

「またねー!」

 めいっぱいに手を振ってみせる姿をまえに、ぐんぐんといとおしさはふくらむ。また来よう、近いうちにきっと。誰と来るつもりかなんてことは、隣のお姫様には言えないけれども。




「おいしー!」

 子ども用のイスに腰をおろし、長い銀のスプーンで器用にプリンアラモードを掬う姿は文句なしにいっとうかわいい。親ばかとは言うけれど、この場合なんていうんだろう? 友人の子どもばか? もっと簡潔におじばかでいいのかな、なんだか座りが悪いのは否めないけれど。

 はやりのおしゃれなカフェなんかではなくて、日に焼けた食品サンプルがショーケースに並び、濃紺のロングスカートに純白のフリルのエプロンの『女給さん』だなんて呼ぶのがふさわしい従業員が給仕してくれる時代に流されない喫茶店で出されるのは、これまたいまどき珍しくなってしまった横長のお皿の上にしっかり固いプリン、色とりどりのカットフルーツにもこもこのフリルみたいな生クリームが乗ったプリンアラモードだ。

「おいしいねえ、うれしいねえ」

 生クリームとカラメルソースで口元を汚しながらうれしそうに笑う姿に、心はゆるむ一方だ。

 控えめのボリュームでジャズのスタンダードナンバー(らしきもの)が流れ、落ち着いた年齢層が多数を占める客層の中では、このちいさなお姫様の鈴の鳴るような笑い声やきらきらとはじける笑顔はまるで宝箱を開けたかのような鮮やかな彩りをこの場に添えてくれる。

「忍くんもおいしい?」

「うん、すっごく。りんちゃんも一口食べる?」

 お姫様の目の前のそれに比べればずいぶんとシックな外観をまとった四角いチョコレートケーキにフォークをつきさしながら問い尋ねてみれば、たちまちに返されるのは曇りなんてかけらもない満面の笑みだ。

「はいりんちゃん、あーんして」

「あーん」

 一口大に切り分けたケーキを差し出しながら、どこかむずがゆいようなくすぐったさにおそわれる自分に気づく。これまで少なからずのガールフレンドとのおつきあいを繰り返してはきたけれど、こんなにも王道のやりとりは初めてだ。

「おいしいねえ!」

 クリームとココアパウダーを口いっぱいにつけて告げられる感嘆のセリフをまえに、心は沸き立つばかりだ。こんなに喜んでもらえるのなら、調理人だって冥利につきるはずだ。

「ねえねえ忍くん、りんのプリンもあげる。ね?」

「いいの?」

「だってなかよしだもん、ね?」

 きっぱりとあかるく告げられるその提案をはらいのけるなんてあるはずもなくって。

「はい忍くん、あーんしてください」

「あーん」

 身を乗り出すようにして口をあけたその拍子、頼りない指先から滑り落ちたスプーンはからん、と高い音を立てて床へと落ちる。

「あぁー」

 すぐさま立ち上がろうとするこちらを制するように、足早にこちらへと駆け寄るウエイトレスは、床へ落ちたスプーンをなめらかな手つきで拾い上げてくれる。

「すぐに換えの食器をお持ちします、お待ちください」

 寸分の無駄もないなめらかな動きでエプロンの裾をたっぷりふちどるフリルを揺らすようにしながら告げられる言葉どおり、すぐさま真新しい銀のスプーンが差し出されるその光景はさながら魔法のようだ。

「おねえさん、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 丁寧に答える姿をまえに、しゃがみこんで目線の高さを合わせるようにしたままにこやかに答える。後ろできっちりと結わえたポニーテールは清潔感があって、濃紺のワンピースの制服によく映える。

「お父さんとデートなのね、楽しんでね」

「パパじゃなくておじさんなの。パパはね、ママとデートしてるの」

 目配せとともに告げる言葉を合図にしたかのように、ウエイトレスの女性のまなざしがちらりとこちらへと投げかけられる。どこか恐縮したようなその表情をまえに、打ち消すように笑いかけるのはいつも変わらない。

 

「おじさんって、言っちゃったねえ」

 テーブル越しに顔を寄せ、うんとささやかに声を潜めるようにしながらお姫様は言う。

「忍くんはおにいさんなのにねえ、へんなの」

「ちゃんと言えたじゃん、さっすがあ」


 ……満面の笑みで『かれし』だなんて答えられた過去を思えば、著しい進歩なのだ。

(うれしいかそうでないかで言えばうれしいのだけれど、ちょっと困るのは事実なので)


「ないしょないしょだもんねー?」

「ねー?」

 声をひそめたまま差し出されるちいさな小指に自らのそれを絡め、しばしばそうするように、もう何度目かの指切りをかわす。


「おねえさんのお洋服かわいかったなぁ、りんもああいうの着たいなぁ」

「いいけどあのお洋服はお手伝いする人が着るんだよ。りんちゃん、ちゃんとお手伝いできる?」

「できるもーん」

 喫茶店を後にするころには、あんなに高かった日がすっかりかげり始めている。家族連れにカップル、買い物帰りらしき面々に学生たち―家路を急ぐ人たちと、どこか違う次の目的地へと急ぐ人たち。

 いきかう波におぼれないようにと慎重に歩みを進めながら最後の目的地、お姫様のお迎えを待つ待ち合わせ場所へと向かう。

「忍くんきょうねえ、りんね、すっごくすっごく楽しかった。忍くん、いっぱい遊んでくれてありがとう」

「どーいたしまして」

 ぶん、と勢いよくはずみをつけて振る掌を、ほどけないようにともういちど結び直す。別れが近づく段階になるとこんな風にますます明るくはしゃいで見せてくれるのは、この子の特徴のうちのひとつだ。

「忍くん、この後おうち帰っちゃうんでしょ。りんのおうちにはきてくれないんでしよ?」

「りんちゃんもまた今度くればいいじゃんうち。パパとママもいっしょにね」

「でもきょうじゃないでしょ?」

 不満げに頬を膨らませる表情をまえに、なだめるようにかける言葉はこうだ。

「また今度にしよ、ね? 楽しいことはさ、ちょっとずつわけっこしたほうがもっといっぱい楽しめるじゃん」

 名残を惜しんでくれるのは素直にうれしいのだ。このあとすぐ、パパとママの姿を目にしたとたんに一目散に駆けていくことくらい知っているから。

「あのね、忍くん」

 いやに意志の込められた強いまなざしでじいっとこちらを見上げながらかけられる言葉はこうだ。

「りんのこと、忍くんのおよめさんにしてもらえませんか?」

 ……直球がきましたか、しかもこのタイミングで。

「うう~ん」

 いやにおおげさにうなり声をあげて思案にくれるそぶりを見せたその後、投げ返す言葉はこうだ。

「困ったなぁ~。俺もりんちゃんのこと大好きだけど、もう周くんと結婚しちゃってるからなぁ~」

「ええ~?」

 途端に不満そうにこちらを見上げるまなざしをまえに、自由を赦されたもう片方の掌をひらひらと掲げるようにしながら忍は答える。

「きょうさ、周くんもきてくれるからおてて見せてって聞いてみな? 周くんもお揃いのやつしてるよ。パパとママがしてるのとおんなじなんだよ、これ」

 左手薬指に光る少しくすんだ揃いの指輪は、ちょうどこの子が命を宿したのと同じころに買い求めたものだ。

 なんの証にもならない、ただの気持ちのありかをつなぎ止めるだけのものに過ぎないのだけれど――それでもささやかなこの宝飾品が、たったひとつの確かなお守りのような存在になっているのはもうずっと変わりなくて。

「あまねくんと忍くんはパパとママといっしょなの?」

「そうだよ、周くんも俺のこと大好きだもん」

「りんだって忍くんのことすきだよ?」

「そっかぁー」

 汗ばんだやわらかな掌をぎゅうっとやさしく握り返すようにしながら、忍は答える。

「俺もねえ、りんちゃんのことだぁいすき」

「でもけっこんはだめなんでしょう?」

「難しいからなぁ、けっこんは」

 困ったように笑いながら、握り込んだ左の薬指の指輪の感触をそっと確かめる。

「パパ! ママ!」

 待ち合わせ場所にと指定された公園の入り口にたどり着いたその途端、しっかと握られた掌はたちまちにふりほどかれ、お姫様はいちもくさんに駆け寄っていく。

「パパ! パパ!」

「おー、おかえりりん。ちゃんといい子にして忍くんの言うこと聞いてた? 楽しかった?」

「りんはいっつもいいこだもーん」

 ぎゅうぎゅうと遠慮なんてかけらもない様子で抱きついてあまえてみせる傍らでは、瞳を細めるようにしてその光景を見守る『ママ』の姿。

 目の前に繰り広げられるのは、どんなにまねをしようとがんばっても到底おいつくことなんて出来るわけもない、うんと幸せでなにひとつ欠けたところなんてひとつもない家族の風景だ。

 ――わかりきってはいるのだ。だからと言ってもやっぱり、寂しくないかと問われてしまえば。


「おう、お疲れ」

 手持ちぶさたになった掌を揺らすようにしたままぼんやりと空を見上げるこちらへと、『王子様』の呼び声が届く。

「周もお疲れー。あんがとね、わざわざ来てくれて」

「いいよ別に、ちょうど買い物行きたかったとこだし」

 言葉通りに、すこしだけよそ行きのスタイルをまとった肩からは見なれた洋服ブランドのショッパーが下げられている。

「なに買ったの、服?」

「まあふつうに、仕事行く時用のジャケットとかいろいろ」

「うち帰ったらファッションショーだねえ」

「別にそんな大したもんじゃないし」

 にこにこと笑いながら話すそのうちに、視界の片隅にはよく見知ったちいさな影が現れる。

「……あまねくん、こんにちは」

 ジャケットのすそをうんと遠慮がちにひっぱりながら、かすれた声でささやかれる言葉をまえに、うんとぎこちない笑顔が返される。

 特別に仲が悪い、だなんてわけではないのだけれど――元来子どもがあまり得意ではない忍の王子様とちいさなお姫様の相性は、残念ながらすこぶる良好とは言えないのだ。

「こんばんは、髪の毛ちょっと伸びた?」

 しゃがみこみながら差し伸ばそうとした左の掌、そこに光るそろいの指輪を、ぴかぴかの瞳はじいっと見つめる。

「……どうかした?」

 遠慮がちな問いかけをまえに、ぶん、と首を横に振り、お姫様は答える。

「……ゆびわ、」

「ゆびわ?」

「りんもほしいなあっておもったの、おそろいの」

「……えっと?」

 ぎこちなく横目に投げかけられる視線に気づかないふりをしてやり過ごしてみせるのは、もはや当然のことで。


『しのぶくんへ

こないだのどうぶつえんとってもとってもたのしかったです。りんはしろくまさんもぱんださんもかばさんもらいおんさんもぜんぶすきです。

しのぶくんといっしょだとぜんぶたのしいです。またしのぶくんとあそびたいです。

こんどはあまねくんもいっしょがいいです。

りんね』

 

 ――最後の一行に書き直した跡が残るあたりは、どう受け止めたらいいのか。



「また読んでんだ、それ」

 コーヒーカップを手にふらりとソファの片側に腰をおろす恋人をまえに、得意げに笑いかけるようにしながら忍は答える。

「そりゃあまあ、貴重なラブレターですから」

 子どもが使うにはいささか大人びて見えるアイボリーのシンプルなレターセットの余白には、色鉛筆で色とりどりの花や動物の絵がなかなかバランスよくのびのびと描かれている。

 子どもの描く絵ってやっぱりいいな、狙い澄ました感じなんてすこしもなくて、目にみて感じたものへの驚きやよろこびがありのまま切り取られている。

「ね、周も読む?」 

「だめだろ、おまえ宛なんだから」

 きっぱりと断ってみせるあたり、律儀というかなんというのか。(まったくもって、いちいちかわいい)

「言ったじゃん、こないだプロポーズされちゃったって。その続きなんだけどさぁ」

 便せんの折り目のあたりをするりと、指の先でなぞるようにしながら忍は続ける。

「三人で結婚しよだって、けっこう大胆なとこあるよねあの子も」

「なんだよそれ」

「ほんとだよー? ほら、証拠ね」

 いぶかしげに答えて見せる姿をまえに、ラブレターをすい、と差し出してみせる。

「ね?」

「……飛躍しすぎだろ」

 あきれたように苦笑いをこぼして見せる姿は、それでも、どこかうれしそうだ。

「ねえ、ほんとにいつでもいいからさ、どっかいこうよ。三人いっしょでさ。動物園とか水族館とか遊園地とかさ、どっかおっきい公園とかでもいいじゃん。周もいっしょだったらぜったいもっと楽しいじゃん?」

「まぁ……」

 気乗りしない様子で口を濁す傍らの相手をまえに、うんと得意げに笑いかけるようにしながら忍は尋ねる。

「ね、もしかしなくてもやきもち?」

「なんでそんな、いちいち」

 ぶっきらぼうに吐き捨てる姿をまえに、いい子いい子をするようにふわりとおだやかに髪をなぞることで応えてみせる。


 そう遠くない未来へと、思いを馳せてみる。

 あのうんとおしゃまでかわいいちいさなお姫様を真ん中にして三人で、あの時みたいに晴れた日に。行先なんてどこでも構わない。きっとあの日以上に最高のデート日和になるに違いないから。





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