何もいらない
瀧安寺とその対岸にある鳳凰閣を繋ぐ瑞雲橋は、滝道を見下ろすように架かっていた。
先ほどまで翔太がいたもみじ橋より数メートル高く、かなり見晴らしが良かった。
目に眩しい朱塗りの欄干に手をかけ並ぶ翔太とゆきは、言葉を交わさないまま、眼下に流れる川面を見下ろしていた。
静けさの中、せせらぎの音だけが微かに聞こえる。
翔太は隣にいるゆきに何度も目をやり話かけようとするのだが……
川面を見下ろす少女の横顔があまりにも穏やか過ぎて、逆に言葉をかけられなくなってしまう。
「…………」
もどかしさを募らせるものの、それを解消する手立てが見つからなかった。
気持ちばかりが先走りし、焦燥感に駆られていると――
川面を見下ろすゆきが長い静寂を破って、ぽつりと呟いていた。
「河童は見つかった?」
少女が再び口を開いたことで翔太はとりあえずホッとする。
「ううん……さっき、あの辺を見て回ったんだけどね」
残念そうに首を振りながら、流れの先にあるもみじを指差してみせた。
「もみじ橋?」
翔太は小さく頷いてみせる。
「ネットの掲示板では、あそこが一番の河童スポットみたいなんだ」
「そうみたいね。でも、まだ時間的に早いのかも……」
「うん。河童が目撃されているのは、だいたい夜の時間帯だから、今はその下見っていうところかな。夜になったら本格的な捜索活動を始めようと思ってるんだ」
翔太はそう説明すると、自分がもみじ橋やその周辺を散策していたこと。その途中でたまたま立ち寄った瀧安寺で、偶然に彼女の前に現れてしまったことをさりげなく強調した。
ゆきはそれに対しては特に何の反応も見せずに、不意に後ろを振り返ると、川の上流の方を指差した。
「滝道をずっと行くと箕里の滝があって、そのあたりまでが河童ポイントって呼ばれてるの。時間があったら行ってみるといいわ。とってもきれいな滝だから」
ゆきが説明すると翔太に笑顔を向ける。
「うん、晩ご飯まではまだ時間があるし、後で行ってみるよ」
彼女の指先に視線を向け大きく頷くと、翔太はそれに応えるように笑みを返す。
――さっきのことは気にしていないのだろうか……
明るく振る舞う彼女に対し、少し違和感を感じてはいたものの、それを尋ねる勇気は持ち合わせていなかった。
「ところで……」
翔太は会話を途切れさせないように新しい話題を切り出す。
「なあに?」
「星野さんは河童、見たことあるの?」
「私……?」
ゆきはキョトンと自らを指差す。
「うん。星野さん、地元の人だし、これだけ河童の目撃情報がいっぱい出てるんだったら、一度くらいは見たことあるのかな……なんて思って」
本当はさっきの瀧安寺でのこと――彼女が見せた涙の理由が知りたかった。
が、さすがにそれを聞くわけにはいかないと思ったので星野屋に来る途中――彼女に確かめようとしていたことを改めて質問していた。
少女は少し思案すると静かに首を振る。
「私は、まだ見たことがないの」
「そう……」
翔太は小さく落胆の吐息をつく。
「私が小さい頃に、お祖母ちゃんから河童を見たっていう話は聞いたことがあるんだけど、それもお祖母ちゃんが子供の頃の話で、随分と昔のことだから……」
「そうなんだ」
「ごめんなさいね、お役に立てなくって……」
ゆきが申しわけなさそう謝った。
「いやいや、そんなこと……貴重な目撃情報が得られただけでも十分だよ」
翔太は慌てて手でそれを制するとフォローの言葉を入れる。
「また、お祖母ちゃんところに行ったら、その時のことを聞いてみるね」
「ありがとう」
少女が顔を上げ微笑を浮かべると、翔太は感謝の眼差しで応えた。
ゆきが河童を見ていないことはある程度、想像していた答えであった。もし彼女が河童を見ていたなら、翔太が箕里に河童を探しに来ていると知った時に、真っ先にそれを告げたはずである。
それを承知で質問したのは目撃情報の収集と、あと――
純粋にゆきとの会話を重ねたかった。
彼女のことをもう少し知りたくなったのだ。
「あ、あのさ……」
心の中に湧きあがる素直な思いが、珍しく翔太を積極的にさせた。
「さっき、あの神社で、とっても長い時間、お参りしてたみたいだけど……」
「…………」
瞬時に少女から表情が消える。
――やっぱりそのことは触れてはいけなかった……
心の中に後悔が過るが、今さらその質問を無かったことに出来そうにもない。
「何か大切なお願いでもしてたのかな、なんて思って……」
もし、自分に何か役に立てることがあったら――と、翔太はあえてデリケートな領域に踏み込んだのだが、それは完全に過ちであった。
「いや、こんなこと聞いちゃいけないよね。ゴメン……ふと気になっただけだから、つい……だから気にしないで」
流れのまま最後まで言い切ると、すぐに申しわけなさそうに頭を下げた。
心に走った衝撃が大きかったのか……ゆきは瞳を落とすと黙り込んでしまう。
再び訪れた静寂の中で翔太は自分の無神経さを呪った。
おろおろと翔太が見詰める中、少女は下を向いたまましばらくの間、何も言葉にしなかった。
が、不意に何かを決意したように顔を上げると、澄み切った瞳を輝かせながら口を開いていた。
「ここには全てがあるの」
遠くを見詰めながら発せられたその言葉が、あまりにも抽象的で漠然としていたために翔太の思考が混乱する。
「全てって……?」
ゆきは、それに答えるように前方を指差した。
その方向には青々とした木々が広がっていた。
「緑……?」
自信なさげに問う翔太にゆきがコクリと頷く。
「きれいでしょ?」
その問いかけに出来るだけ正確に答えようと、翔太はじっくりと彼女の指差す方向を凝視した。
川沿いには重なり合うようにして大きな樹木が生い茂っていて、その隙間から零れ落ちた陽光が川面の流れの中をキラキラと跳ねていた。
少し目線を上げると、真っ青な空を背景に山々の緑が鮮やかに浮かび上がった。新緑の木々は、それぞれ生命の色づきを主張するように無数の光彩を放っている。
「うん、とっても……」
目に眩しい黄緑、優しい真緑の中に混じり合う深緑、少しくすんだ常盤色に鶯色……
無限に広がる緑のコントラストに思わず吐息をつくと、翔太は、その美しさを言葉で飾ることも忘れて、ただただゆきの意見に同調していた。
「どれひとつをとっても、みんな違う緑色をしてるの」
「絵の具が何色あっても足りない感じだね」
「ホントね」
翔太の例えに、ゆきは可笑しそうに笑みを零す。
「数え切れないほどのたくさんの緑色があって……みんな生命の輝きに満ちているの。こうやって緑を眺めているとね、私まで力をもらえるみたい」
名も無き木々からの息吹を心で感じるように、ゆきは静かに目を閉じる。
翔太もそれに続くように目を閉じると新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。
「夏が終わって秋になればね……」
少女が再び瞳を開くと、夏の向こう側に翔太を誘う。
「紅葉で一面が真っ赤に染まるの。山だけじゃなくって、この川の水面も全部ね。目に見えるものが全て紅一色の世界になるの」
記憶の中――あるいは未来を思い浮かべているのだろうか……
ゆきはうっとりとした表情で口元を僅かに綻ばせていた。
「…………」
その横顔を見ていた翔太の心の中にもゆきの想い――溢れる感情が流れ込むと、まるで魔法のステッキが振り下ろされたように、ぱっと彼女の描く心象風景が浮かんできた。
見渡す限りの紅葉の赤に染まった箕里の山々……
無限の広がりを見せる真っ赤な紅葉を、川面の水が鏡のように映し出していた。
美しく共存し合う光と影――蜃気楼のように幻想的で完璧な赤の世界に思わず感嘆の吐息をつくと、翔太はその中にゆきの姿を探した。
が、ゆきは翔太の視線をすり抜けるように、一足早く次の季節に行ってしまう。
「冬になればね、たまにだけど山一面が真っ白になって……春になったら、あの辺りに山桜がいっぱい咲いて、とってもきれいなのよ」
少女の言葉を追いかけるように山の紅葉は消え、真っ白に雪化粧されたかと思うと、再び山は春の輝きを取り戻していた。
オオシマザクラ、カスミザクラ……滝道、山のいたるところに春の到来を告げるたくさんの桜が咲き乱れていた。
その中のひときわ大きい桜の木の下に、翔太はゆきの姿を見つける。
花びらが舞う優しい風の中、あと僅で散りゆく儚い生命――限られた時間の中で懸命に、そして美しく咲き誇る桜達を、少女はとても愛おしそうに見上げていた。
桜の下で佇むゆきの姿を眺めていた翔太は、自分もその隣に並び彼女と一緒に桜を見たいという衝動に駆られると、その一歩を踏み出すそうとするが……
ゆきが、その瞳に描く鮮やかな情景を語りきると同時に、四季を巡るスライドショーにも幕が下ろされた。
一瞬にして翔太の意識が現実の夏へと戻される。
「ここには全てがあるの……だから私は何もいらない」
ぼんやりと自分を見る翔太――あるいは自身に言い聞かせるように強く呟くと、ゆきは静かに目を閉じて話を締めくくった。
「…………」
「これじゃあ答えになってないわね」
目を開けたゆきが悪戯っぽく笑ってみせた。
翔太はどう返していいかわからずに曖昧な笑みで応える。
「じゃあ私は帰るから、晩ご飯までにはちゃんと戻ってきてね」
複雑な表情を浮かべている翔太に踵を返すと、ゆきは瀧安寺の方に向かって歩き出していた。
が、数歩歩いたところで、ふと何かを思い出したように振り返ると、可愛らしくウインクしながら翔太に忠告した。
「滝に行ったら、お猿さんには気をつけてね」
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