わが友は武王

@atob

 シトシトと雨が降り、しかし風はまったく吹かない。そんなひたすらに陰気いんきな夜であった。


 民家で一人の老人が肘かけ椅子に座って、ときどき窓を打つ雨を気にしながら、書を読んでいた。彼は村の近くにある炭鉱で働いていた。

 脇の寝床には二人の愛する孫娘と、長年苦楽を共にしてきた年老いた妻が眠っている。彼女らが老人の唯一の心の支えだった。

 

 ふと雨脚あまあしが強くなった。当然だが、窓をたたく雨の音も強くなって、家の中が少々騒々しくなる。そのせいか、妻が鬱陶しそうなうめき声をあげ、目を覚ました。


「騒々しいこと。この分だとブルー川も増水して、近づくのも危険かもしれませんわね」

 

 いつも洗い物を近くの川辺でする妻は、しわだらけの額にさらにしわを増やして、窓の水滴を憎たらしげに見つめていった。


「そう怒るな。子供たちが起きてしまうじゃないか。むこうで軽く一杯やりながら、君の愚痴でも聞こう」

 

 と注意し、妻を誘って、寝室から出る。妻も特に断る理由もなかったので、続いた。妻がグラスを手に、椅子に座り、老人がそれにちょうどワインを注ごうとしたときだった。


 二人のいる居間からすぐそこの玄関を誰かがノックした。この深夜に、である。

 

 老人は、深夜の来訪者に恐怖を隠せないでいる妻の手を励ますように握ってから、警戒した様子で、玄関にむかう。

 

 ノックはまだ続いている。

 

 玄関横にはもしもの時のために護身用の短剣が用意されていた。この乱れた世、自分の身は自分で守らねばならない。

 老人は短剣を手に取り、ふところに隠し持ってから、扉をおそるおそる開けた。すると、そこにあったのは得体えたいの知れぬ何かなどではなく、見知った顔だった。

 

 老人は緊張の糸が切れたかのようにほっと息をつき、


「なんだ、ドリじゃないか。どうしたんだ、この夜更けに」


 といった。

 

 ノックをしていたのは一軒となりに住む『ドリ』という、老人と同じく炭鉱で働く青年だった。

 たまにどちらかの家に出向いて行っては夕食をごちそうしたりされたり、村からすぐそこにある町に一緒になって出かけたりと、老人の家族とドリの仲はすこぶる良好だった。

 ゆえに老人も、すぐそこで二人のやりとりをうかがっている妻も一安心し、家に弛緩しかんした空気が漂った。


「夜分にすみません。実は明日の仕事の内容が変更になったと急な連絡が回ってきまして、それを伝えに」


 青年はよどみのない声でこたえた。

 この村で暮らす、ほぼ全ての家の者が炭鉱の作業に従事しており、何か仕事についての情報があれば、順に隣の家にそれを伝達していくのが決まりだった。

 

 確かに明日の仕事の内容が変更されたのなら、早急に伝えに来てくれたのは、老人にとって、とてもありがたい。なぜなら、作業の内容によって、明日の起床から作業終了までの全ての動きが変わってくるからだ。


「おお、だからこの雨の中わざわざ。そうだ。今から妻と一杯やるつもりだったのだ。雨に打たれて冷えているだろう。景気づけにどうだい?」

 

 さすがに善意でこの夜更けに、雨に打たれてまで情報を伝えにきてくれたドリをむげに扱うのは礼儀に反すると思って、老人は提案した。


「それではお言葉に甘えて、このくらいだけいただこうかな」


 青年はうれしそうに、指でほしい量を表現し、家の中へと足を踏み入れる。

 

 ――明日もお互いに厳しい仕事が待っているのだ。晩酌くらいともに楽しんでも、罰は当たるまい――

 老人の心は踊っていた。


 ドリの後ろに続いた老人は、ふと水滴のしたたる音を聞いた。

 ドリは雨が降りしきる外からやってきたのだから、水滴が落ちるのはごくごく自然なことだ。自然なことのはずだ。しかし、老人は胸騒ぎがした。

 そこで老人は視線を落としいき、ドリが歩いた床に目を留めると、はっと息をのんだ。

 小さいろうそくの光に照らされ、水滴の中に赤いものが輝いていたのだ。


 赤いものの正体は一目瞭然、『血』だった。


 ドリが血を流している事実をうけて、考えられることは二つ。『彼が何かを殺害して、返り血を浴びた』か『彼が血を流すような怪我をした』かのどちらかだ。そしてどちらの場合も、異常事態であることに相違なかった。


「おい! 待て、ドリ!」

 

 老人はかっと目を見開いて、急いで追いかけて、彼の肩をつかむ。


「一体、なんですか……?」


 彼は、老人たちが今まで聞いたことがないドスのきいた低い声でこう答えて、老人のほうを振りかえった。

 

 ドリの表情を見て、老人の顔からさっと血の気が引いた。

 

 口元は不気味に曲がり、顔色はこの世の者とは思えぬほどに真っ青で、瞳には明らかな狂気を宿していた。


「ドリ! 様子が変だぞ! 本当に君なのか?」


 老人はドリの異様な雰囲気を認めて、ついに短剣を抜く。

 彼らの不穏なやりとりをみて、妻も椅子から立ちあがり、寝室のほうへと徐々に後ずさりしていく。


 青年は突然、ケラケラと笑声をあげ、首をグキグキと気味悪く回して、老人に踊りかかった。まるで操り人形のように。

 彼は老人から短剣を奪おうとし、老人をそうはさせまいと抵抗する。必然的に二人は取っ組み合いになった。


「どうしたの! おじい様!」

 

 騒ぎを聞きつけたのか、奥の寝室から孫娘たちが飛び出してくる。

 愛すべき祖父と、血はつながっていないけれども兄のように慕っていたドリとが争っている状況を見て、ショックを受けた妹は文字にはとてもおこせない悲鳴をあげた。


 短剣を持って武装しているのは老人なのだが、取っ組み合いはあきらかにドリのほうが優勢であった。老い先短く、背が低く、力の弱い老人と、若くて、背が高く、力の強い若者では無理もないことだった。

 

 ――このままでは、競り負ける!――

 と考えた老人の取るべき行動は一つしかなかった。


「ふたりをつれて、逃げなさい!」


 老人は短剣を奪おうとする青年に懸命に抵抗しながら、事態を凝視ぎょうししていた妻にむかって叫ぶ。

 

 夫の声にようやく金縛りが解けたのか、妻は慌てて、固まっている孫娘たちのもとへむかう。


「はやくきなさい! はやく!」


 孫娘たちに駆けよった妻は、彼女たちの手を引いて奥の寝室へ連れて行こうとした。


「でも、お、おじい様が」


 祖父を心配して、妹のほうが叫んだ。


「いいから、きなさい!」

 

 妹の悲痛な言葉に構うことなく、強引にその手を引っ張り、二人をつれて、妻は寝室の扉を閉める。さらに椅子を、申し訳程度に扉に立てかけて、抑えとした。この程度で彼の侵入を防げるとも思えなかったが、なにもないよりはマシだという判断だった。

 果たして、三人が耳にしたのは、愛する家族のおぞましい断末魔だった。

 妹は恐怖と悲しみで静かに涙をながし、姉も気丈に唇をかんで涙をこらえていた。

 そして次に聞こえてきたのは殺人鬼が寝室の扉をこじ開けようとする音だった。

 

 妻は老体にむち打ち、決死の覚悟でその扉と立てかけた椅子を押さえ、少しでも時間を稼ごうとする。


「窓から逃げなさい!」

 

 祖母の言葉に素早く反応したのは姉のほうだった。姉は、妹の身を守れるのは自分しかいないと、察したのだろう。

 

 いまだに泣いている妹の手を引っ張り、寝室の窓から、冷たい雨の降る外へと飛び出した。


「ああ! どうか『天主』よ、あの子達をお護りください」

 

 残された妻は恐怖と戦いながら、孫たちの無事を祈った。

 直後、支えにした椅子と共に妻の体は寝室の床へと投げ出される。あきらかに人間の力ではない。


 ぎぃっという嫌な音を立てながら、死への扉がゆっくりと開いた。


 この事件が、のちに大陸全土を死と悲しみで包む大戦の序章だった。

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