ⅳ Logia/事件.四日目
十五/剣
武藤が張っていた倉庫にたまっていた地元の高校生達は、皆一時は錯乱状態にあったものの、二時間と経たずに幻覚から解放されたという。日が昇ってから彼らに話を聞きに行った時から連絡を受けたのは昼のことで、和久田は高校にいた。連休に挟まった平日だった。後者の北側、日陰で、昼休みでも冷えた廊下の端で彼は時からの話を聞いた。
曰く、倉庫に入ってきた光り輝く白い髪の女は手に持った白い剣で近付いてきた一人の胴を突き通し、足許に崩れ落ちたその男を見ることもせず「大川はいるか」と聞いた。そこをたまり場にしていた時の同輩の名前である。
その場にいた全員、皆何かしらその女に冷や汗をかかせるものを感じながら、それでも蛮勇ある二三人が向かっていったが、一人は腹を捌く軌道で撫でられて倒れ込み、一人は一の腕を斬り飛ばされて……白い輝きが失われていない以上、剣に血はついていない。それでも何か尋常ならざる危険があることを感じ取った一同は蜘蛛の子を散らすように逃走を始めたが、さほど広くもない倉庫で女は竜巻もかくやと暴れ回った。剣の軌道には一切の抵抗がない。簡単な返しで二人の手首を切り離し、返して上段から肩をとらえ、逃げる者の脚を膝上から輪切りにする。偶に反撃を企てる者がいてもさながら蛇のような動きで避けながら流れで撫で斬りにすれば、脇腹のついでと手首まで斬り落とされる……夜の黒い闇の下に悲鳴が木霊する。すべてが幻覚だと分かったのは、それこそ二時間後、超常の呪が解けてからのことだった。
刀身は縁が分厚く、一段くぼんだ側面には絡み合う蔦の紋様があったという……武藤の証言とも一致していた。
倉庫に姿を現したその人物も、ダヴィドが高校運動場への侵入でそうしたように空間転移で出現したらしい。気付けはあれよあれよという間にことがはじまった。不思議なことに、古い倉庫を全体震わせるほどの騒ぎでありながら、その外へ出ていく人間の必死の足音は一向に聞こえなかった。
倉庫の外壁に空いた穴の縁近く、街灯の白い明かりの陰で、武藤は予めその力を全身に展開しながら……その外貌は『不思議の国のアリス』の兎の着る燕尾服を模しており、胸には金の懐中時計のエンブレムが光り、長く伸びた髪は白銀に輝き、両耳を覆って頭頂部へ延びる管はそれぞれが高く真上に突き立って兎の耳を形作っている……物陰に身を潜めて情報を拾う。叫び声の中に、武藤はいっそうけたたましい声を聞いた。どこか致命的な箍の外れたものを思わせる、それは笑い声であった。あわただしい足音、ガラスの瓶や缶、丸椅子、角材が倒れる音、ほとんど泣き声のような、絞り出すような調子で痛みを訴える叫び、単発で交じる罵声、それらを全て圧して猶響き渡る、「哄――」。
倉庫の中からは、既にその全体に瀰漫している、濡れたコンクリートの上を這いずるなめくじの生臭い粘り気じみた、絶えざる超常の気配が、強く漏れ出てきている。武藤はその中へ、たなびく白い線を引いて正面入り口から飛び込んだ。
暗い倉庫の中で、一息に数えきれない数の人間が、床に倒れうずくまっている。赤い目を光らせて見回しても、不思議なことには、彼らは皆五体満足で、外見上はまったく怪我をしているようには見えない。入口のいっそう近くに転がっている少年も、腹を押さえてこそいるが血を流してはいないようだった。中央で白い髪を輝かせるパルタイ(? しかし伝え聞いた姿と違っているのは確かだった。大きく開いた前衣は丸い乳房を収めている)は一人の少年の胴を踏みつけ、手にしたあの剣で繰り返し全身を突き刺しているところだった。輝く刀身。平坦な光に照らされた白いシャツには、染み一つ付いていない……何度刺したかなどわからない、白い女が振り下ろした切っ先がもう一度少年に触れたその時、耳を突く鋭い高音が響きわたって、剣の動きが止まった。
それを見ていた武藤は、剣の動きが止まるまさにその時まで、一歩を踏み出すことができなかった。何故? 彼女は恐れたのである。何を? 目の前にいる暴力の渦の中心、笑いながら切っ先を肉体に突き刺し続ける女の、その楽しそうなさまを。かつて自らの腹に拳を打ち込み、首を絞めながら己の罪を告白したあの少年の
黒い衣の白い兎の赤い瞳が瞬く。跳躍の二歩で矮躯の指先、そこに展開された、触れたすべてを切り刻む抹殺の《爪》は女の首筋すれすれまで迫った。しかしそこに至って目の前の女は、退くでも横に跳ぶでもなく、一歩前に踏み込む。すり抜け。着地回転し真後ろに二十センチ長の爪を振り回す追撃を、ほとんど飛ぶような動きで振りきって更に四歩距離をとる。表口に近付く女を逃がすまいと、武藤はとんと一歩高く跳んで白い頭上を越える。パルタイ(?)がその落下点に合わせて剣の一突きを見舞うも、今度は武藤を守る《呪い》によって阻まれ、着地した武藤は下がってこの女を見た。
被服は全身革で統一しているようだった。滑らかな曇った光を放つパンツと、てらてらと濡れた艶やかな調子の上衣とブーツ。金具という金具が自ら白い光を放っている。
一瞥しただけではそれがパルタイであるか測りかねた。目を引くのは奥の光を隠す大きなサングラスで、女がパルタイであるなら髪色と同じ白に、人間ならば白とは何か違う色に瞳が光っているはずだった。
白い髪の女は日向の老猫のように背中を丸め微動だにしない姿勢をとっていたが、突如として魔女を思わせるしわがれ声で言った。
『おや、あんた……あのアリスだね。するとこういうのも効かないわけなんだろう? いや、困った』
下げていた剣の切っ先をすっと上に向ける。
『パルタイに属する力で人を殺すことはできない。でもそのお陰で……裏を返せば……死ぬ寸前まで痛めつけることができる』
手首を返して、ふっ、と剣を小さく真上に投げる。投げ上げたのだと分かったのはもっと後で、武藤にはあたかも剣がひとりでに浮遊したかのように見えた。そして浮き上がる白い剣と正反対に、瞬く間にぐっとパルタイは姿勢を低くして、武藤の右を狙って走ると同時に、取り出した(どこから?)もう一本の剣を横合いから殴りつけるようにして彼女の顔目がけて振りぬく。突然視界に現れた二本目の剣を受け止め一二歩下がった頃には、もうパルタイは倉庫の外へ抜けて走りだしていた。爪は剣を受け止めるだけで、まっぷたつに両断することはかなわなかった。
武藤は戦闘のプロからは程遠いし、和久田のような者が持ち合わせる一種の野生的な勘にも恵まれていなかった。彼女の武器はただ、高い跳躍能力と《超常》を感じる拡張された知覚、そしてありとあらゆる超常を斬り裂く《爪》の一揃いである《黒兎》のみであった。そして致命的なことに、彼女の感覚は真正のパルタイと、《ザイン》……パルタイが人間に与えた疑似生物の力……を纏った人間とを区別することができない。
必然、後手々々になる……住宅街を走るパルタイは余裕の表情で、逃げながら武藤にテレパシーを投げつけてきた。
『わたしが一番よく刺してたあの男の子がいるだろう。あれの名前は大川……というらしい……とにかく! 一番手ひどく傷め付けたから、どうなったかよくよく見ておいてくれると、大変に嬉しく思う!』
後は電話口で武藤が和久田に語った通りである。
パルタイについて世間で流布する情報はそう多くない。高校を覆った黒い壁も、ホログラム・プロジェクションマッピングの一種だといわれたり、未知の物質による集団幻覚の一種だといわれたりして、ワイドショーを賑やかすだけ賑やかして話題から消えてしまった。公共空間ではじめて大々的に力を行使した先日の事件でも、それをしっかりと見ることができた人間は表向きはいないことになっているため、パルタイについての実際的な情報は、ボイスチェンジャーを通したような声と、視界を覆った黒い壁、中空に浮かぶ橙色の文字、ダヴィドが披露したわずかばかりの「変身」ほどしかなかった。
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