GANGSCHATTEN
金村亜久里/Charles Auson
Prologos/事件の初め
花の匂いがした――
月の出る夜だった。川崎の、閑静ないち住宅街の、狭い庭にいくらか植樹を施す家の並ぶ、欝蒼とした夜の闇の一部を白い街灯の光が照らして、アスファルトと植木のクチクラに覆われた小さな円い葉が同色に光る地区の一角で、八木大我は異様な黒い人影に出くわした。
黒く、白い。衣服は牛革のジャケットから破れたジーンズ、丈の長い角形のシルエットのブーツ、アクセサリーとしてはやや太めの鎖にいたるまで
その影は彼の住処である古いアパートの入口のすぐ前に陣取っていた。狭い路地の奥にあるので、一人で簡単に道を塞ぐことができたのだ。
八木は即座に危険を感じた。取り落としたのか、あるいは手を放したのか、とにかくその場にコンビニの袋を捨て置き、来た道を逃げるように駆け出す。男は「呵」と一声鴉めいた笑い声をあげて追随する。
男は飛ぶような動きだった。路地を三つ曲がると、左の建物の上から飛び降りてきた。彼は言う……逃げるってことは何か心当たりがあるんだろう? ……笑い声を鴉のようといったが、その声すらも、どこか鴉を模した人工物めいたところがあった。
そうこうするうちに足がもつれて転んだ。下履きのスウェットが濡れた。起き上がろうとして、上から頭を押さえつけるものの感覚に、八木は震えあがった。何か尋常ならざる気配を湛えたその足には、異様に固い外皮があり、三本の枝分かれがあり、鋭い爪があった。
頭の上で、腕の霧状の広がりがあった。霧の中で金属のこすれあう音が聞こえた。
『むやみに抵抗しなければしないほど傷は少ない。少なくとも死にはしない』
八木にはドイツ語の知識はなかったので、次いで男が何と言ったかわからなかった。細い三本の指が坊主頭を撫でて全身がいやましに総毛立つ。
何が目的なんだ? 自分は、こんな輩に命を狙われるような真似なんて、一度も……いや、随分やんちゃはしてきたし、これからもするだろう、しかしここまで異質なものとかかわった経験は、彼にはたえてなかった。
それから男は黙ったまま動かないので、しびれを切らして一気に前に転がった。男は転がった八木の頭を後ろから押さえつけていたので、かろうじて前方には動ける余地があった。
だが、やや前にずれて転がったところで、何も変わらない。前転と同時に脇腹を蹴りとばされ、あおむけになったところで胸を踏みつけられる。男の脚を見まいと視線を上げようと努めたが、それでも男の、天邪鬼を踏み潰す四天王のように胸の上に重々しく載せられた、膝下の箸のように細く爪の先は楊枝ほどになっている脚を視界に収めずにはいられなかった。夜の闇の中でいっそう不気味に黒く広がった霧の中では、無数の
……携帯を貸せ。
男が言った。聞き返すと、携帯電話だ、スマホだ、と繰り返す。渋る八木を見て、右腕をつきつけがらがら声で催促すると、震えあがった八木はすぐさま携帯電話……最新機種であった……を手渡す。パスワードを聞き出し、中学のいちグループに向けてアプリケーションを介してメッセージを送信、これで大方の仕事は為った。
男はぽいと、実に軽い調子て、携帯電話を宙に放り上げる。そしてきらきらとした光を走らせて、八木の目の前で瞬く間に機体を粉砕した。
あとは、この男を《巣》に連れ帰るのみ。
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