1〜1

 人は、薄氷の上に生きている。

 何でもない顔をして踏みつけるそれは脆く、いつ崩れてしまってもおかしくないというのに、しかし誰も、顧みることをしない。

 割れないと信じているのだろうか。

 それとも、薄氷の上にいることすら気付いていないのだろうか。




「きりーつ、れーい」


 間延びした男子生徒の声に合わせて、脊髄反射的に軽く——まるで偉ぶっているようだと自分でも思いながら——頭を下げる。

 ファイルや生徒名簿をまとめてから顔を上げれば、帰る準備を終えるどころか、今まさに席を離れようという状態の生徒すらいた。

 こういうときの行動だけは本当に早いと、ついつい苦笑しそうになる。

 いつでもこうしてテキパキと動いてくれたらいいけれども、まぁ、何でも思い通りになるなら誰も苦労などしないだろう。

 扉を潜り抜ければその背後は途端に騒がしくなり、すでに廊下は生徒で溢れていた。


 ほとんどは特に反応しないけれども、時折いる真面目に挨拶をしてくる生徒にはきちんと返事をして、もし覚えていれば多少成績に加味しようかなどと考える。

 まぁ、ほんのわずかな違いだ。

 そもそも自分が受け持っていないクラスの生徒だって多いし、正直なことを言ってしまえば、全員の顔を覚えているわけでもない。

 ただ、せめて自分だけは、他の教師陣があまり記憶に留めていないだろう、真面目で特に何の問題も起こさないような生徒こそ、気にしてやりたいと思う。

 そういう生徒は、単に大人しく真面目であるというだけではなくて、声を上げる方法を知らない子供が多いに違いないと、そう思っているからだった。


 ――いや。


 思っているというより俺は、知っている。

 俺なんかは高校生の頃、基本的に周囲にあまり興味がなかった。

 繙多はんだの言葉である『子供染みた癇癪を、諦観で覆い隠し、日々殺しながら生きている』というのは、その頃に言われたことだ。

 ともかくも、そうして俺のように思春期独特の病にかかって斜に構えているタイプとは違い、本当に、呆れるほど気の弱いタイプの人間はいくらでもいる。

 何がどうしてそこまで怖がっているのか、正直な話を言えば理解出来ないけれども、だからといってそれを否定するつもりはないし、教師としては寄り添ってやりたいと思うのだ。

 声が聞こえないなら、聞けばいい。

 手を伸ばすことを躊躇っているのなら、手を取ってやりたい。

 

 ――そうしていれば、もっと何か、変わったはずなのだから。 


 廊下で話し込む生徒や、急いで部活に向かう生徒、ひとりただ黙々と家路につく生徒。

 様々な音が混じり合い、ざわめきとなって校舎全体に蠢く。

 その中から耳が拾い上げた、どこか遊びに行こうよという声には、気付かないふりをしておいた。

 学校帰りにそのまま遊びに行くこと自体、生活指導の先生は良い顔をしないけれども、このくらいの年代の子供たちなら普通は、遊びたい盛りだろう。

 自分だって、彼らと同じくらいの頃には用事さえなければ毎日でも友人と出かけたり、アルバイトをしていたのだし、本心を言ってしまえば、面倒事さえ起こさないなら何をしたって良いとすら思っていた。

 とはいえ、危険なことを推奨するつもりなどは更々ないし、限度だってある。

 わざわざ申し送りなどはしないけれども、他の先生方だって、ある程度している部分はあるだろう。

 むしろ、そうでもしなければやっていけない。

 きつく締め付けるだけでは反発ばかりが生まれるだろうし、その反発がそれをする大人に向けられるのならまだしも、もし子供達だけの世界で歪められ現れたとしたら、目も当てられないことになるのだから。


 子供同士だけではない。

 大人同士であろうと、くだらない足の引っ張り合いは存在するし、悪意を持って接してくる人間はいくらでもいる。

 けれども俺は思うのだ。

 教師であるからには、やはり、子供達に目を向けるべきだろうと。

 大して夢もなく教師になった俺ではあるけれども、なった以上は責任が伴う。

 それを放棄はしたくない。

 もう、後悔はしたくないのだ。


 こんなことを言う俺を、古くからの友人である繙多はんだなどは鼻で笑ってみせる。

 その責任感の強さは、お前の美点だろうなと。

 繙多はんだは残念ながらと言うべきか、言動が一致しない男だった。

 言葉では素直に褒めているくせに、そのお綺麗な顔――事実ではあるけれども、これは嫌味でもあった――を見ると、馬鹿にされている気分になる。

 因みに、本当に綺麗に笑うときは、大概が相手に全く興味がないか、さっさと離れたいと思っているかだ。

 この繙多はんだの性質を分かっている人、たとえば、繙多はんだに度々事件の話を持ち込んでくる刑事の渡会わたらいなどは、繙多はんだが嫌味のない表情をするとすぐ俺に目で助けを求める。

 渡会わたらい刑事は俺のことを折衝せっしょうと呼ぶけれども、そんな大したものではない。

 無理に間に放り込まれてご機嫌取りをしなくてはいけないのだから、緩衝材で充分だ。


 階段を降りて、職員室へと向かう。

 受け持っているクラスの生徒が『いっちゃんバイバイ』なんて、どう考えても敬いの欠片もない言葉をかけながら急いで階段を駆け下りていく。

 走るなよとその後ろ姿へ言うけれども、恐らく聞いていないだろう。

 右手首の時計を見るに、もうすぐ最寄り駅に電車が来る時間だ。

 それに乗るつもりなのだろう、走らなければ間に合わない。

 とりあえず、事故に遭ったりしてくれるなよと考えながら、俺もまた歩き出した。


 職員室に規則的に並ぶスチール製の事務机は、毎年あてがわれる位置が変わってしまう。

 まだ夏前の今は、さすがに目をつぶってしまうと自席へは辿り着けないだろうと思った。

 勿論、慣れたあとだってやるつもりなどは少しもない。


 何の気なしに他の教師陣の机に視線を滑らせながら、自席へと向かう。

 相変わらず、机上の整理の仕方には良く性格が出ていて、面白い。

 この高校に長く勤めている古文の先生なんかは、そのおおらかで福々しい見た目の通りなどと言ってよいのか何なのか、自分が使い良いようにまとめてある。

 新しく来た英語の先生は独特なこだわりがあるようで、大きさや高さではなく、色味に順番をつけて並べているらしかった。

 女性の先生だとたまに可愛らしいグッズが置いてあって、中には鳥を模した某有名キャラクターの物が置いてある。

 昨年度に定年退職された先生から譲り受けたものということだ。

 俺も実はひとつ貰ったけれども、正直あまり趣味ではないから机の中にしまってある。


 職員室に入って左手の窓際にある自分の机はといえば、相変わらず至ってシンプルで――特別綺麗好きというわけでもなく、単にこだわりがないという意味で――必要な物しか置いていない。

 しかし、今日に限っては、自分のものでない何かが積み上がっていた。

 いや、何か、と悩むほどのものでもない。

 あれは、放課後までにと提出させたノートの山だ。

 このクラスは明後日の午前中に授業があるから、今日中に全てをチェックして、明日の内に返却しなければならない。

 自席に着くなり早速とパソコンを立ち上げて、そのクラスの名簿を開く。

 じっくりと読むわけではないし、五時半からちょっとした会議があるけれども、それまでには恐らく終わるだろう。


 ざっと目を通してから、パソコン上の表にチェックを入れ、ノートには確認済みという意味で丸と、その中に漢数字の一を書き入れる。

 ギリシア文字のシータを思い浮かべれば近いだろうか。

 仮名片仮名漢字アルファベットと、自分の名前を様々変換したとき、漢数字の『一』が何より簡単な文字だから、効率的だとずっとサイン代わりに使っているのだ。

 一番簡単で、一番覚えやすくて、一番良いね――そう笑ってくれたあの人は、もういない。


 彼女のことを思い出したのは、一連の出来事があったからだった。

 あれがなかったなら、俺は恐らくいつまでたっても、主に繙多はんだの世話をしながら――こんな言い方をしたら繙多はんだは気分を悪くするだろうけれども――事なかれ主義に生きていただろう。

 良かったのか、悪かったのかは分からない。

 何も覚えていないまま、何も抱えないままでの方が遥かに楽だったはずだ。

 重いと、思う。

 背負うのは、とても。

 それでもになってしまったのだから、もう投げ出したりはしない。

 あの『こんいんとどけ』に誓おう。




 ちょっとした会議――というか、ミーティングだ――を終えて、仕事を片付けるとようやく帰路につくことが出来る。

 この時点でもし、渡会わたらい刑事や繙多はんだから連絡が来ていれば、そっちへ向かわなければいけないけれども、どうやら今日は何もなかったらしい。

 ちなみに、この連絡は八割がた渡会わたらい刑事から受けるものだ。

 何せ繙多はんだは、携帯電話というものを生まれてこの方持ったことがない。

 仕事場兼自宅である建物全体が書斎と化した平屋建ては、基本的に家電類がないのだ。

 パソコンもなければ、テレビすらない。

 家事能力もないとくれば、キッチンなどにも何もなさそうに思えるけれども、それはまた別だった。

 通いの家政婦がいるから、その人が支障がないように揃えてある。

 ちなみに、それらを買ったのは俺なのだから、繙多はんだがどれだけ社会に不適合な人間かが少しは分かって貰えると思う。

 とはいえ、ないならないでアイツは好きなように暮らすのだろう。

 繙多はんだがいないと困るのは、渡会わたらい刑事や周りの人間なのだ。


 自宅へ向けて――繙多はんだとは違って至って普通のマンションだ――車を走らせながらふと、俺はどうだろう、と考えていた。

 繙多はんだがいなければ困るか否かではなくて、俺は、周囲に必要な人間だと思われているだろうかと。

 勿論ここで急に消えてしまえば、勤め先の高校には多大な迷惑をかけることになるだろう。

 けれども、いくらでも代わりになる人間はいる。

 生徒達だって、気楽にあだ名を呼べるある意味貴重な教師ではあるかもしれないけれども、違う教師が来ればすぐに気にせず慣れていくはずだ。

 渡会わたらい刑事達には、生徒達よりかは必要とされているとは思う。

 とはいえそれも、繙多はんだという唯一無二の存在があってのことで、緩衝材となる他の人間が現れたら別に俺でなくてもいいのだ。

 赤信号を眺めて、ふと息を吐く。

 いい歳をして、思春期のような感傷に囚われるとは情けない。

 緩く首を振って、車を走らせる。

 繙多はんだ曰く、俺はデュアルタスクすら出来ない人間なのだ、今だけは何も考えず、運転だけに集中しよう。

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