第六話〜2

 俺が一歩踏み出すと、ドクは怯えからなのか弾かれるようにして手を離した。

 温もりが消えていく手のひらをじっと見下ろしてから、それでも俺はまた踏み出す。

 広がる赤の中、横たわる二人は、動かない。




 公共の交通機関なんてまだ動いている時間じゃなかったから、俺は彼女の自転車の後ろに乗せて貰って高校へと向かった。

 どのくらい時間が掛かったのかは定かじゃないけれども恐らく、十分やそこらだったように思う。

 到着した高校には門がなく、敷地を囲むように松が植わっていた。

 そこから進んだ先にはまだ足場が組まれているもののほぼ出来上がっているらしい大きな校舎と、それより離れた位置に、外壁が所々剥がれた小さめの校舎が見える。


 近付いて行った小さめの校舎は、生徒用玄関の扉のガラスが一枚割られていた。

 恐らく、一度やって来た彼女が割ったのだろう。

 彼女は俺を外で待たせると、その割れた所から玄関内へと入り込んだ。

 そして、少し離れた位置の扉を開け、俺はそこから玄関へと入った。


『ここが玄関で、ここで靴を履き替えるのよ。でも、今日はそのまま入っちゃおうか』


 白衣のポケットへ収まる二枚目の紙切れが落ちていたそこで、彼女は言った。


 まだ暗い校舎は薄気味悪く、それ自体が生きているのではないかと思えてならない。

 けれども、手を繋いでくれる彼女の存在があれば俺はどこまでも行けるとそう思って、うなずいた。


 彼女は、俺の手を引いて歩き出した。

 案内してあげるからと、玄関の目の前にある階段を上った彼女は、右手へ折れてゆっくりと話し出す。

 もうすぐ学校が統合され、名前が変わってしまうこと。

 夏前には新校舎へ移り、この旧校舎は使われなくなってしまうこと。

 この校舎を離れる前に、皆の心に残るような思い出を作ろうと思っていること。


 何をするのかは教えて貰えなくて、拗ねた顔をすれば彼女は困ったように微笑んだ。

 突き当たりまで歩くと彼女は戸の前でしゃがみ込んで何かを――今考えると、いわゆるピッキングというやつをしていたのだと思う。

 そんな知識をどこからとも思うけれども、彼女は前にも言ったが読書家で、何より博識だったから何かの本で見たのかも知れない。


 俺は読めない漢字が三つ並んでいる室名札を眺めていた。

 何事もなく鍵を開けると、彼女はまた俺の手を引く。


『いっちゃんは大きくなったら先生になるんだっけ。どうして先生になりたいの?』


 六枚目の紙切れを受け取った場所で、彼女は問うた。

 俺はそれに何と答えたのだったろう。

確か、今度は僕がお姉ちゃんに教えてあげるんだとか――そんな言葉だったように思う。

 彼女はまた困ったように微笑んで『いっちゃんが先生になった時にはもう、学校にいないんだけどなぁ』なんて言って、頭を撫でた。

 『頑張って、良い先生になってね』とも言っていた。

 何も知らず無邪気にはにかんだ俺に微笑んだ彼女は、そこで鍵を手に入れると、目の前の階段を上がって左手へと折れる。

 見晴らしが良いんだと、手に入れた鍵で教室の戸を解錠すると、俺達はそこでが上るのを待った。

 俺がこの見覚えがないと思っていた校舎で、初めて目を覚ました教室だった。


 時間は、確か五時から六時の間――月が落ちていく、彼は誰時かはたれどき

 まだ短針の大まかな時間しか俺は理解していなかったから、長針と秒針のことは全く覚えていない。

 結局、朝日が上がるのはまだだった。

 けれども、彼女は満足したらしかった。

 俺の手を取り教室を出て右へ、生徒用玄関から繋がる階段を過ぎて校舎を回ると、直前までいた教室の吹き抜けを挟んで丁度反対側へ位置する教室へと入る。

 窓から二列目の前から三番目、そこの席へ俺を座らせた。


『ここで私は勉強してたんだよ』


 五番目の紙切れがあった場所だ。

 教科書の代わりに本を出して実演してくれたけれども、小さな俺は平仮名しかまだろくに読めない。

 そこにあるのに意味を成さず、虫食いのように見えたことを覚えている。


 朝日が徐々に上って来たのか、月明かりだけしかなかった教室がほんのわずかだけ明るくなってくると、彼女ははっとした様子で立ち上がり俺を急かした。

 教室を出て、教職員玄関がある側の階段を上がる。

 彼女は、焦っているようだった。

 何故そんなに焦ることがあるのか、俺には分かるはずもなく、しかしそんな焦りを見せる彼女を見る内に、俺の心へ途端に不安が込み上げる。


 もう進みたくない。

 この先に行くのが怖い。


 そんな不安が、校舎を最初に見たときに感じた恐怖をも煽り始める。

 けれども、どこか鬼気迫る様子の彼女に声を掛けることすら、俺には出来なかった。

 手を握る強さは決して、振り解けないほどに強いものではない。

 あくまでも手は優しかったのだ。

 それでと俺は、彼女に着いて行くことと、暗い階段へひとり残されることとを天秤にかけて、着いて行くほうを選んだ。


 階段を上りきり左手へと折れて、これから何が起こってしまうのだろうと足を踏み出すことを一瞬躊躇った俺に、そこで彼女はようやく気付いたのだろう。

 不意に足を止めて振り返ると、青くなっている俺にはっとしてしゃがみ込んだ。


『かえろうよ、おねえちゃん』


 セーラー服の袖を引く俺に、彼女は言葉を詰まらせる。


『こわいよ、かえろうよ』


 唇を噛んで、そしてうつむく。


『おねえちゃん、ねぇ、おねえちゃん』


 どうしても俺は帰りたかった。

 彼女を連れて、帰らなければいけないと思った。

 これがきっと、自分の第六感を使い果たした瞬間だったろう。


 彼女は何事かつぶやくと、顔を上げた。

 微笑むその表情に、第六感を使い果たした俺は安堵してしまった。


『いっちゃん、ねぇ、追いかけっこしよう』


 ここからお家まで、いっちゃんは逃げてね。

 さっき入ってきた玄関の前の道を真っ直ぐ行って、大きな道を右に曲がったら交番っていう、お巡りさんがいるところがあるから、そこで道を訊いてね。

 お姉ちゃんの方が走るのが速いから、お姉ちゃんは十をたくさん数えてから行くね。


『じゃあ、よーい、どん!』


 俺は、彼女に背を向けて走り出した。

 四番目の紙切れが落ちていた場所で、彼女は俺を見送ったのだ。


 階段を駆け下りる。

 侵入した玄関へ辿り着いた俺は、そこではたと立ち止まった。

 振り向いてみたところで、彼女はいない。

 分かりきったことではあったけれども、それがどうしても嫌だった。


 十をたくさん数えてからっていうのは一体どのくらいなのか、いつになったら来るのか。

 追いかけっこだと言っていたけれども、ちゃんとした道が分からないし、警察官に話しかける勇気は、小さな俺にはなかった。


 それなら一緒に帰ればいい。

 追いかけっこには負けてしまうけれども、負けることとひとりで帰ることを考えれば、後者の方がいいに決まっている。

 そうして俺は、その場で待つことにしたのだ。


 玄関を彷徨うろついて下駄箱の戸を開けたり閉めたり、『平仮名とか片仮名とかアルファベットとかに変換するよりも、一番簡単で一番覚えやすくて一番良いね』なんて彼女が言った、一の字を作ってみたりして、あの三番目の紙切れがあった場所で俺は時間を潰して待っていた。


 ――けれど、彼女はいくら待っても降りては来なかった。




 一歩一歩、重い足取りで進む。

 少しぬかるんだような土の感触に次いで、大して柔らかくもない枯れかけの芝。

 横たわる二人の横へとしゃがみ込めば、ドクが背後で引き攣れたような悲鳴を上げた。




 追いかけっこという単語に誤魔化されたはずの不安が、三月のまだ冷たい朝の空気と共に足元から這い上がる。

 寒さか、不安か。

 どちらともつかないまま俺は身震いをして、堪えきれずに階段を駆け上がった。

 日が上り始めたとはいえ、そこはまだ暗い。

 彼女ではなく見えないに追いかけられているような気がして、何度も何度も後ろを振り返るけれども――そこにあるのは、仄赤い空間だけだ。


 不安感が息を切れさせる。

 怖い。

 ひとりは、怖い。

 恐ろしい。

 助けてと上げる手を握ってくれる人は、ない。


 四階まで駆け上がって、彼女と別れた所へ行こうと少し悩んでから右手へと折れた。

 仄赤く染まる廊下を駆ける。

 すぐに、その先に彼女の姿がないことには気付いたけれども、だからといって今更立ち止まることも出来なかった。

 立ち止まって、また振り向いて、そうしたら何か恐ろしいものに本当に飲み込まれてしまいそうな気がしたから。

 そうして吹き抜け部分に差し掛かったとき俺は、黒い影を見た。

 窓枠に腰掛けて、足を投げ出す影を。


 影が傾く。

 重力に引き摺られるまま、ちていく――一瞬光ったのは、玩具の指輪。


 そのとき俺自身が何を思ったのか覚えていないけれども、ただ、絶叫したことだけは覚えている。

 だって、高い所から物を落とせばそれが壊れてしまうことは、もうちゃんと知っていたから。

 反対側の廊下へと走って初めに見えたのは教室から伸びる紐で、戸とその上の小さな窓を開け放ち鴨居にくくられた紐は、正面の吹き抜けに面した窓の先へと落ちている。


 ぎいぎいと嫌な音がした。

 軋んでいた。

 たわんでいた。

 壁を蹴る音がして、微かな唸り声がした。


 まるで悪夢だ。

 走りたいのに足が進まず、まるで逆向きのベルトコンベアの上を走っているような、全てが静止画になってしまったかのような。

 犬のように短い呼吸を繰り返しながら、俺は必死に走った。


 『死』という言葉を知っていた。

 けれども実際に『死』がどんなものなのかは理解していなかった。

 その時の俺は、高い所から落として割れてしまった卵のように、彼女が割れてしまったのではないかと思って恐怖していたのだ。

 足をもつれさせながら、紐を伝うようにして窓から顔を出す。

 彼女はしかし、そこに存在していた。


 ただ、いつもの彼女はどこにもいなかった。


 微かな呻き声と、軋みと、撓みと。

 自らをくくる紐を押さえて、苦しみもがき、見開かれた黒い瞳に俺の姿が映る。

 彼女は、失敗したのだ。

 首が折れてしまえば、あんなにも苦しまずに済んだのに。

 それは叶わず――心を置き去りにして、身体は生きようともがいていた。




 俺達から顔を背けるような状態で横たわる二人へそっと手を伸ばせば、ドクが背後で小さく悲鳴を上げた。

 何と言っているのか、聞こえているのに、どうしてか理解出来ない。




 俺は彼女の袖を掴んだ。

 どうにか引き上げなくてはいけないと思って、必死に引っ張ったのだけれども、しかしそんなものは全く意味を成さない。

 紐を引いても、取り縋っても、何の効果もなく、ただ目の前で彼女がもがき苦しんでいる。

 耳の奥で血が渦巻き、自分の鼓動ばかりが響いた。

 袖を掴んだ手は冷えていき、握り締めた状態のまま動かせなくなる。


 俺の力ではどうにも出来ない――俺では何の役にも立たないのだ。

 子供が感じるには、あまりにも救いのない絶望が、はらの底へと湧き上がる。

 それでも手を離すことが出来ない俺の耳元で、ひゅん、と空気を切る音がした。

 紐が解けてしまったのだ。


 反応する間もなく、彼女の身体が落ちていく。

 全てがスローモーションに見える。

 手が離れず、引き摺られるまま宙に投げ出された俺は――縛り付ける全てのものから解放された彼女の腕に、抱き締められた。

 ああ、墜落する。


『いっちゃ――』


 俺の右腕と、足と、俺の下敷きになった彼女のあばらから、砕ける音がした。


 ――その後のことは覚えていない。


 けれどもそれは、七枚目の紙切れのあった場所だった。

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