第六話〜1
階段の、最後の段を下りる。
足取りがいやに重く感じるのは――ドクの足取りが重いのは何故だろう。
ここから抜け出せるのに、帰ることが出来るのに、これで終わりだと言うのに。
ドクがそうしなければならないと俺を促したというのに、何故。
そう考えて、しかしそんなことはもうどうでも良いのだと俺は自らに言い聞かせた。
何せもう終わるのだ。
ドクが何を思い、それを見て俺が何を考えようとも、中庭に落ちているあの紙切れを拾えば全てが、ようやく終わる――それなら、もう何も考える必要はない。
階段を下りきって左へ二回折れた長い廊下、
細く長く、息を吐き出す。
ようやくだ。
ようやくここまで辿り着いた。
真っ直ぐを向いたまま、中庭へ通じるガラスが嵌まったアルミの引き戸へ、二人分の姿を映す。
小さく細い黒いセーラー服の少女と、白衣の俺。
白と黒。
まるで喪に服しているようだ――頭の中へ過ったそれを一笑に付すかのように俺は、緩く首を振ってから口を開く。
「ここが最後なんだな?」
「……ああそうだとも、一路くん」
芝居がかったドクの声は硬質で、今までの感情を隠しきれていなかった言葉とは、あまりに違う、いやに淡々としたものだった。
読みたくないのに読まされている台詞、そのような雰囲気だ。
ドクは嫌なのだろうか、ここから離れることが――自分で、ここから出なくてはいけないと、俺を諭したくせに。
ゆっくりと目をしばたたく。
万一嫌だと言ったとしても、ずっとここに、ドク曰く狭間の世界にいるわけにはいかない。
ガラスに映るうつむく黒い少女から視線を外して、引き戸へと繋いだままの左手を伸ばした。
なにせ、右手は少しも上がらない。
『何かの地図のよう』
そう称した、中庭の弱った芝と、露出する黒っぽい土。
その上にぽつりと存在を主張する、白。
上靴のまま踏み出せば、靴底の溝に土が入り込む感触がして、ああいささかぬかるんでいるのだと、大した感慨もなく思った。
ドクはじっとうつむいていて、何を思っているのかは分からない。
「これで――」
白を、正確にいうなら乳白色のそれを見て思わず溢れた言葉を、俺は途中で飲み込んだ。
まだだ、まだ早い。
心に言い聞かせて俺は、左手を繋いだまま、上体を倒して上手く利かない右手で紙切れを拾い上げた。
――その瞬間だったように思う。
何かを蹴る音がして、同時に、ぎちぎちと何かが軋む音がし始めたのは。
怯えているのか、ドクの手から震えが伝わってくる。
その間にも音は徐々に大きく、激しくなっていく。
どこから音がしているのか。
考えなくても分かるのに、本能が見てはいけないと叫んでいるかのようで上手く身体を動かすことが出来ない。
軋む音が、頭上からしているのか、それとも自分の身体から響いているのか。
いや、恐らくはどちらもだろう。
錆び付く金属に似たぎこちなさで、顔を上げる。
――窓と、窓と、窓と、足。
もがく。
宙を蹴る。
ローファーと、紺色のソックス。
プリーツスカートが翻り、壁に擦れ、
セーラー服だ。
身体の影で見えないけれども、腕は、首にある。
そして袖を掴む、子供の手――小さな俺の、手。
宙に浮かぶ少女を――いや、首をくくって、もがく少女を引き上げようと、必死に引っ張っている。
紐は見えない。
見えないが、俺は、少女の首に回る紐の存在と、その紐がどこに繋がっているのかを知っている。
「あ、あ」
掠れた声が漏れた。
俺からなのか、少女からなのか、俺からなのか、ドクからなのか――分からない。
何故だろう、静かだ。
少女がもがく音ばかりが、極々小さな中庭に響いて、いやに静かだ。
左手が握り締められた。
右手は動かない。
見上げていることしか出来ない俺には、いや、ドクにも何をする力もなく、ただ大きく後退った。
少女はもがいている。
小さな俺は少女を引っ張り上げようと、泣き叫びながら袖を引いている。
そんなことをしても、無駄だ。
小さな、小学校にすらまだ入っていないような小さな子供が、女とはいえ、高校生を持ち上げられるはずがないのだから。
――俺は分かるが、俺は知る由もない。
相変わらず軋む音がしていて、しかし少女の動きが鈍くなっていく。
いや、むしろ、少女に反比例して軋みは大きくなっていく。
ひゅん、と何かが空気を切る音がした。
少女の身体が地面に引き寄せられ、小さな俺はバランスを崩す。
「あ」
発せられたのは、そんな短い音だけだった。
袖を掴んだままの俺の身体が、窓の外に投げ出される。
少女は、朦朧とする意識の中で、俺を抱き締めた。
「ひっ……」
怯えたような、ドクの声。
重いものが、地面に叩き付けられる音。
同時に響いた、何かが折れるような、砕けるような音。
吐き出された赤と、動かない二人。
ゆっくりと目をしばたたく。
目眩がしたが、デジャヴだとは思わなかった。
当たり前だ、何せこれは既視感ではなく俺が確かにあの日既に視た事柄なのだから。
ああ、そうだ、ここは、これは――
「――俺の記憶」
そんな俺のつぶやきに、答える声はなかった。
俺は一人っ子だが、小さい頃に姉のように思っていた人がいた。
十と少し離れた、隣に住む女子高校生だ。
家族ぐるみの付き合いがあったわけじゃないし彼女の親と顔を合わせる機会なんかほぼなくて、ただ単に、うちの両親が彼女のことを気に入っていたから彼女も懐いていたのだろうと思う。
うちの両親は共に教師で、俺が預けられていた保育園の迎えに来られない日もままあった。
そんな両親の代わりに彼女がやって来るなんてこともあったくらいには、彼女と俺と俺の両親には付き合いがあったのだ。
そんな彼女は、未だほんの小さな子供だった俺には事情なんてものは分からないけれども、学校も家もあまり好いていなかったように思う。
何か深いわけがあったのか、それとも思春期特有の病のようなものだったのか、今となっては問う術はない。
それに、どんな理由が彼女にあったとしても俺は彼女のことが大好きだったし、彼女も俺のことを大切にしてくれた――小さな俺は、それだけで良かったのだ。
あるとき俺は、両親に訊ねたことがある。
お姉ちゃんとずっと一緒にいるにはどうしたら良いのか、と。
母は『じゃあお姉ちゃんに一路のお嫁さんになって貰うしかないわね』なんて楽しげに笑って、わざと真面目くさった顔をした父には『良いか一路、お嫁さんになって貰うには給料三ヶ月分の指輪を持って行かなきゃいけないんだ』なんて言われて――そして、婚姻届っていうのに名前を書いて貰うんだと習った。
まぁその他にも、お互い大切に思っていないといけないし、プロポーズしたり、挨拶に行ったり云々と、当時四歳になったばかりの俺にはさっぱり分からない事柄を並べ立ててくれた。
給料が何なのか分からなくて、三ヶ月という単位も、婚姻届も何なのか分からない。
けれども面白がった親の入れ知恵の結果、家の手伝い――といっても小さな子供、おもちゃを片付けるとかその程度だ――をして、その度に五円だ十円だと給料という名目で貰っては、それを貯めて駄菓子屋で玩具の指輪を買ったのだ。
彼女は大層読書家で、彼女の部屋には沢山の本があった。
本について聞かせてくれた内容なんか、これっ許りも覚えてはいない。
確か、幼児向けの有名な絵本の話などをしてくれていたような気はするけれども。
ともかく、何も覚えていない俺でも、彼女が本について話すその笑顔を眺めるのが好きだったことを、はっきりと覚えている。
そんなに本が好きなら婚姻届はそれに書いてしまおうと思ったのは、小さな俺にとっては道理だった。
うちの両親が帰ってくるまで彼女の家に上げて貰った俺は、彼女の目を盗んで、特にお気に入りだと言っていた本を勝手に引っ張り出し、そしてその巻末の遊び紙に覚えたての下手くそな文字で書いたのだ。
こんいんとどけ、と。
その下には彼女の名前と、俺の名前、判を押す為の丸。
『い』が『り』に見えたり、そうかと思えば『り』は『ソ』に見えたり、濁点が半濁点だったり、文字が左右逆転していたり。
そんなぐちゃぐちゃな落書きにしか見えないそれに気付いた彼女は大層お怒りだった。
当たり前だろう、触っちゃ駄目だよと本棚の高いところへしまっていた本に、ぐちゃぐちゃとボールペンで落書きをされたのだから。
けれども俺が大真面目な顔で指輪を出してお嫁さんになって欲しいと言えば、毒気を抜かれたように目をしばたたかせてから、彼女は笑った。
左手の薬指に玩具の指輪を填めて、楽しそうに笑って――『これでいっちゃんのお嫁さんだね』と頭を撫でてくれたのだ。
数メートル離れた場所へ横たわるそれを見ていると、広がる赤と比例するように、蓋をしていた記憶が次々と溢れてくる。
顔を背けるドクは小さく震え、どうやら怯えているらしい。
怯える必要はないと言ったのはドクだったけれども――そんなことを言うのは、意地が悪いだろうか。
それは、小さな俺のプロポーズから一年ほど経った、春もまだ浅い日のことだった。
いつもならどうやっても七時くらいまでは起きない俺が、その日に限っては、五時よりずっと前に目を覚ました。
前もって何かがあって、そのせいで予感がしたというよりも、単に第六感が働いた結果だったように思う。
どうにも目が冴えてしまって、何の気なしにカーテンを少しだけ開き外を見ると、制服で家を出ていく彼女の姿が見えた。
三月だったからまだ外は暗く、街灯に照された少しの間しか確認出来なかったけれども、間違いなく彼女だと確信した俺は――何を思ったのか、しばらく悩んだあと、親にばれないように静かに着替えると家を抜け出した。
とはいえ、彼女がどこへ向かったのかなんて知るはずがなくて、彼女の家の前で途方に暮れることとなったのだけれども。
そんな俺の前に、彼女は再び現れた。
俺の姿に驚いて、こんなところで何をしているのかと問うて来る彼女の言葉を遮る。
『どこかいっちゃうの』
『ずっといっしょにいて』
それは、咄嗟に出た言葉だった。
今考えてみるとその日俺は、自分の第六感を使い果たしてしまったのだと思う。
だから今となっては件の古くからの友人に、お前の勘は当たらないと言われてしまうのだ。
ともかくも、そう言い募る俺に彼女は困った顔をしてしばらく悩んだあと、俺にその場で待つように言って家へと引っ込んだ。
大切なものを忘れてしまったからと。
すぐに出て来た彼女は、左手に玩具の指輪をしていた。
鞄の中にはあの本が入っていたのだろう。
彼女は俺の手を取ると、私の通っている学校に連れていってあげるよ、と、儚げに微笑んだ。
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