第四話〜2

 ドクの目――というより体ごと――は、廊下の先へと据えられていた。

 人を思い切り転ばせておいて、もはや他へ興味をそそられているのか、それともを見るのも嫌だということなのか。

 ともかくも、ドクはじっと日の当たらない仄暗い廊下の先を見つめていて、他に目をくれることもなかった。


 ああ、こういう性格なのだと、冷たい廊下へ座り込んだままに思う。

 今までに何か一つでも完遂したことがあるのかと問うたら、恐らく肯定は返って来ない。

 いや。

 いくら教師で、この年頃の生徒達を見ているとはいえ、さすがにただの偏見だろう。

 それに――こう言っては何だけれども、ドクの性格について今はどうでも良いことだ。


 廊下の先には、目に見えて興味を引かれるものはないように思う。

 例えばあの手足のように、俺が見えていないだけなのかも分からないけれども、それであるなら、俺には確かめる術がなかった。

 とはいえ、ドクもただ佇んでいるだけなのだから、どの道何もないのだろう。


「一体何をしたいんだ」


 強か打ち付けた腰と、捻ってしまったのか痛む右手を気にしながら、溜め息混じりに立ち上がる。

 ドクがこちらを向く前にと、横目で窺った吹き抜けの向こう側は、相変わらず窓が一枚だけ開いているものの、レールを掴む手はもうすでに見当たらなかった。

 どこへ行ってしまったのだろうか。


「……いっちゃん」


 振り向いたドクは、俺の顔を見ることなくじっとうつむいた。

 声は少し、掠れている。

 初めて顔を合わせた時の、覇気とも呼べそうなものはわずかにも感じられなかった。

 そこまで気にするのなら、あんなに強く手を引かなければ良かったのに。

 怒りよりも何よりも、呆れにも似た感情が沸き上がった。

 そして、同時に納得する。

 彼女の旋毛つむじを何となく見つめながら、俺は口を開いた。


「もしかして、あの手が嫌だったから右に行こうと言ったんじゃないか」


 本当にわずかだけ、ドクの指先が震えたのに気付く。

 心理学だとかそういったものに対する知識を、俺は持ち合わせていないけれども、俺の予測は間違ってはいない。

 どうやららしい。


「何かあるのか、あの手に」

「……何もない、何もないよ、何にもないさ」

「どうだか」

「いいや、いいや。いっちゃんが気に留めるべきことなど毛先ほどもないんだ。さぁ先に進もうじゃあないか、ほら、廊下の先に何か落ちている。あれはいっちゃんが探している紙切れじゃあないかな」


 あまりにも饒舌に、ドクは捲し立てた。

 相変わらずうつむいたままではあるものの徐々に語気は強くなって、口を挟む隙間など少しも与えない。

 何をそんなにえているのか――そんな疑問を言葉にすることは出来なかった。

 ドクは急にぴたりと口を噤むと、俺の左手を引いて歩き始める。

 冷たい手だ。

 

 俺が他に気を取られないようにしたいのか、それとも、ドクが何も見たくないと思っているのか。

 ともかくも、ドクは足早に先へ進んでいく。

 先程までは何も変わっていないように見えた景色が、今度は早回しにしているように見えた。


 確かにあの紙切れらしきものが、廊下の真ん中に落ちている。

 先程は気付かなかった。

 いや、もしかすると、気付かなかったのではなくてなかったのかもしれないけれども、俺には確かめる術はない。


 吹き抜けが途切れ、反射光がなくなったせいなのか廊下は暗さを増した。

 特別教室のドアに付いた小さな窓から覗き見た、教室の更に向こうの空は未だ、赤い。

 時計を確認しようとして、やめた。

 ドクの言うの時間軸が同じなのか分からないし、ここの時計は短針しかない。

 それに、今が何時なのかはどうでも良いことなのだ。

 さっさと事態を片付けることが先決なのだから。


「さぁ、いっちゃん」


 ドクに促され、足を踏み出す。

 爪で引っ掻くようにして拾い上げたのは、やはりここまでで三枚ポケットの中へ押し込んだものと同じものらしい。

 乳白色でざらつきがあり、少し厚めの紙切れだ。

 ひっくり返して見ればボールペンで線が引かれている。

 けれども、他のものと同じく何が書いてあるのかは分からない。


 確認しなかっただけで、途中に拾った二枚の紙切れにも書いてあるかもしれない――むしろ、書いてあるはずだと確信がある。

 ポケットの中をひっくり返し、全て取り出してくっ付けたなら、何か分かるだろうか。


 そんな俺の思考はしかし、肩へ置かれた手に遮られた。

 同時に、いっちゃん、と声がかかる。

 ドクだ。

 もしかすると、ドクはこの線が何を表すのか知っているのだろうか――そんな疑問が沸き上がったけれども、こうしてノン・プレーヤー・キャラクターを気取っているのだから、勿論知っているに違いない。

 とはいえ、知っていようが、知らなかろうが、どの道無駄ではあるのだろう。

 なにせここまでの道程で、ドクはまともに俺の問いに答えないということが分かっているのだから。


 紙切れをポケットにしまい込んで立ち上がれば、すかさず左手を繋がれる。

 もはや慣れてしまったと言ってもいい、手の感触。

 俺は一体どうしてしまったのだろう。

 吐き気が込み上げて、けれども口の中で強く舌を噛むことで、どうにか堪える。

 鉄の味がした。

 どうやら舌を傷付けたらしい。

 その不快感に眉を顰めて、どうやら俺は、舌を噛み切って死ぬとかそういうことは出来ないだろうとふと思った。

 まぁ俺自身に、死ぬ気など欠片もないのだから、出来なくていいけれども。


「さぁ、降りよう。もうこの階に用はない」


 いつの間にか、恋人のように指を絡ませたドクが急かす。

 その言葉に、やはりドクは何もかもを承知していると思うと同時に、虚しさが込み上げていた。


 ただ手を引かれるままに連れ回されて、言われた通りに紙切れを拾い上げて。

 全て集まれば、どうなるというのか。

 神様でも出てきて一つだけ願いを叶えてくれるとか、そんなどこかで聞いたことのある展開にでもなるのか。

 いや、ドクは確か、ここから脱け出さなくてはいけないと言っていて、それで俺を連れ回しているのだ。

 願いを叶えてくれるとかそんな展開ではなく、それがなされるのだとは、分かっているけれども。


「……あと、何枚あるんだ。もうこの階にはないんだな」

「あぁそうとも、この階にはないよ」


 肝心なことは、やはり教えてはくれない。

 俺は溜め息をついて、またドクに手を引かれて歩き出した。


 目が覚めた後に通った側の階段を、再び降りる。

 とはいえ、俺達が初めにいたのは三階だったから、そのときには通らなかった部分だ。

 特に会話があるわけではなく、それでも手は繋がれたまま、ただただ足を動かす。

 さっき廊下に引き倒されたせいで、腰と右手が痛んだ。

 こんな思いをするならドクが集めて来ればいいじゃあないかと、癇癪を起こす子供のようなことを思うけれども、だからといってやはり、何も言わずに俺は着いて行くだけだった。


「左手はさっき通ったからね、また右手に行こうか」


 わざとらしく抑揚を付けたドクの声に、俺は特に何を考えるでもなくうなずいた。

 無言のままの行動に気付いたのか分からないけれども、ドクは振り返ることなく、三階へ着くなり右手へと折れる。


 陽が当たらない側だから、こちらの廊下は仄赤く染まってはいても大分暗い。

 幾つも並んだ引き戸と室名札――室名札には漢数字が記されている。

 数字だと、そう分かるのに、それが何かと聞かれたなら俺は答えられないようだった。

 最初の数字は一か二か三。

 ハイフンが続いて、その後には一から、まぁ多くても九とか、その程度だろう。


 ――そう知っていて、重ねてそう視認出来ているはずなのに。


 目玉から視神経が上手く繋がっていないのか、視神経から脳味噌への回路がイカれているのか、上手く理解出来ないのだ。

 二人分の足音が響く廊下を、どこか夢見がちに歩く。

 あの玄関で遭遇した足音も、こうして歩いていたのだろうかとふと思った。

 まぁ、どうでもいいことだ。


「なぁ」

「なんだい一路くん」


 俺の呼び掛けに振り返ることなく返事をするドクの、お下げ髪が揺れている。

 赤が時たま反射して、編み込みの陰影を作る。

 ついじっと眺めて、呼びかけたことを忘れて口を閉ざしそうになるけれども、はっと気付いて掠れる呼吸に音を乗せた。


「ドクは、その……ドクっていうのは、何なんだ。単なるあだ名にしちゃあ、もっと、こう……意味があるように聞こえる」

「Correct」

「……は」


 どこか楽しげな声で短く返ってきた英単語に、一瞬面食らう。

 まるで探偵にでもなったようだと――どちらかというと、俺はホームズではなくワトスンタイプだ――この奇妙な状況の中にありながら考えては、暢気な思考回路に苦々しく眉根を寄せた。

 ともかく。

 ドクがその通りだと言ったのだ。

 つまりは『ドク』が名前やあだ名であるにしろ、それ以外の意味も兼ね備えているということなのだろう。

 まぁ、それが分かったからといって事態が好転するわけでも、進展するわけでもない。

 本当の君の名は何か、と、訊ねたところでそれこそ何になる。

 ドクはドクのまま、本当の名など今は知らなくていい。


「ここは狭間だと、そう言ったな」

「ああ、言ったとも」

「ドクは……何故ここにいる? 元々いたのか?」

「まさか!」


 肩を竦めて大袈裟に言うドクの、その背中を眺める。

 ここが俺の世界でないなら、ではここにいたドクの世界はどこだというのか。

 ずっと考えていたことだけれども、受け答えがあんまり芝居染みていて、まるで古い外国映画の吹き替えのようだと暢気に考えた。

 意図しているのだろうか。

 俺には、ドクがドクであるということを、ドクというキャラクターを意識し演技しているように思えた。

 ドクのお芝居に巻き込まれている、そんな疲労感。

 『直接的な原因は私ではない』と言っていたけれども、間接的な原因ならばあるということなのか。

 便乗してお芝居を続けているのだろうか。


 それに、だ。

 『追いかけっこしよう』と言ったのは、誰だったのだろう。

 あれは……あれを、俺はドクなのだと思っていたけれども、本当にそうだろうか。

 どうも、顔が思い出せない。

 幾つもの思考が絡まって、余計な謎を産み出していく。

 しらなくていいはずの事柄を脳が勝手に暴き出そうとして、俺の意識の領域を浸食していくのを感じた。


「私はね、いっちゃん。いっちゃんの為にこの場に存在しているのだよ。迷えるいっちゃんの側に寄り添う為にいるのさ!」


 うふふ、なんて。

 この状況にそぐわない、無邪気で可憐な笑い声が、その雑じり気のなさのせいでむしろ邪気を孕む。

 手を振り払い、この場から逃げ出すべきじゃないのか。

 そう思うのに、謎に意識を浸食されているせいなのか、身体は思いに反してただ素直にドクに従ってしまう。


 ――どうせ、俺の為に存在していると公言しているのだから、逃げたって意味はないだろう?


 短く息を吐き出す。

 諦め、なのだろうか。


「俺に、寄り添う為」

「そうともそうとも! 私が、このドクである私が、いっちゃんの為に、寄り添う為に」


 何気なく反芻しただけの言葉。

 ドクは高ぶる気持ちを押さえられないとばかりに、空いている左手を高々と持ち上げる。


「私は決して、いっちゃんを一人ぼっちになんかしないよ。ずっと、ずうっと側にいてあげる」


 聖女が神の啓示を受けるように、それでいて、狂信者が魔を崇め奉るように、清廉ないのりと侫悪ねいあくおごりの両極に揺れながら、ドクは振り向いた。

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