第一話〜1

「きりーつ、れーい」


 間延びした男子生徒の声に合わせて、脊髄反射的に軽く——まるで偉ぶっているようだと自分でも思いながら——頭を下げる。

 ファイルや生徒名簿をまとめてから顔を上げれば、帰る準備を終えるどころか、今まさに席を離れようという状態の生徒すらいた。

 こういうときの行動だけは本当に早いと、ついつい苦笑しそうになる。

 いつでもこうしてテキパキと動いてくれたらいいけれども、まぁ、何でも思い通りになるなら誰も苦労などしないだろう。

 扉を潜り抜ければその背後は途端に騒がしくなり、すでに廊下は生徒で溢れていた。


 ほとんどは特に反応しないけれども、時折いる真面目に挨拶をしてくる生徒にはきちんと返事をして、もし覚えていれば多少成績に加味しようかなどと考える。

 まぁ、ほんのわずかな違いだ。

 そもそも自分が受け持っていないクラスの生徒だって多いし、正直なことを言ってしまえば、全員の顔を覚えているわけでもない。

 ただ、せめて自分だけは、他の教師陣があまり記憶に留めていないだろう、真面目で特に何の問題も起こさないような生徒こそ、気にしてやりたいと思う。

 そういう生徒は、単に大人しく真面目であるというだけではなくて、声を上げる方法を知らない子供が多いに違いないと、そう思っているからだった。


 廊下で話し込む生徒や、急いで部活に向かう生徒、ひとりただ黙々と家路につく生徒。

 様々な音が混じり合い、ざわめきとなって校舎全体に蠢く。

 その中から耳が拾い上げた、カラオケ行こうよという声には、気付かないふりをしておいた。

 カラオケボックス云々というより、そもそも、学校帰りにそのまま遊びに行くこと自体、生活指導の先生は良い顔をしないけれども、このくらいの年代の子供たちなら普通は、遊びたい盛りだろう。

 自分だって、彼らと同じくらいの頃には用事さえなければ毎日でも友人と出かけたり、アルバイトをしていたのだし、本心を言ってしまえば、面倒事さえ起こさないなら何をしたって良いとすら思っていた。

 とはいえ、危険なことを推奨するつもりなどは更々ないし、限度だってある。

 わざわざ申し送りなどはしないけれども、他の先生方だって、ある程度している部分はあるだろう。

 むしろ、そうでもしなければやっていけない。

 きつく締め付けるだけでは反発ばかりが生まれるだろうし、その反発がそれをする大人に向けられるのならまだしも、もし子供達だけの世界で歪められ現れたとしたら、目も当てられないことになるのだから。


 


「いっちゃーん、バイバーイ」


 つらつらと考え事をしながら階段を下りる途中、背後から声がかかった。

 振り返った三階と四階を繋ぐ踊り場には、大きなはめ殺しの窓がある。

 西向きのそこからは、時期と時間の関係か、太陽光が斜めに射し込んでいて、何も考えずに振り返った無防備な視界を、その瞬間で焼いた。


 かすかなうめき声とともに、思わず顔しかめる。

 ちかちかと存在を主張する残像が、現実を侵食する。

 視線を落とした先、階段に染みを作っていた。


 目をまたたく。

 それでもまだ、青白い光が居座っている。


 それでも顔を上げたのは、軽やかな足音と共にわずかだけ、日が陰ったことに気付いたからだ。

 視線の先、踊り場に立つのは――逆光ではっきりとは窺えないけれども――自分が授業を受け持つクラスの生徒であるらしかった。

 いかにも今時の、それも、不真面目な方の女子高生といった風貌で、校則で規定されているよりいくらもスカートを短くしている。

 この位置からだとスカートの中が見えてしまいそうだけれども、本人は何も気にしていないらしく、どこか小狡そうな――いや、これは全くの偏見かもしれない――笑みで手を振った。


「気を付けて帰れよ」


 苦笑をひとつ。

 せめて先生と付けろと前置きしてから返した言葉に、女子生徒はつまらなそうに唇を尖らせて、はぁい、と返事をした。

 この生徒が抱いたのが一体何に対する不満なのかは、いまいち解らない。

 それと同時に、特に理解したいとも思っていない自分に気が付いた。

 先程までは、目立たない生徒を気に留めてやりたいなどと偉そうに考えていたくせに、こんなことを思うなんて、教師失格だろうか。

 少なくとも他の誰か――特に、教師陣や親御さんなどには、知らせない方が無難だということは間違いない。


 勝手に気まずくなって、またひとつ、まばたきをする。

 こちらの心情を知るはずもない女子生徒は、たん、たん、と軽い靴音をさせて下りてきた。


 近付いたその肌はどうやら、やはり校則で禁止されているにも関わらず、化粧が施されているらしい。

 注意、するべきだろうか。

 いや、そもそも校則違反を正すのも教員の職務の内なのだから、悩むべくもないのだけれども、今日は服装の点検があったわけでもないし、もう放課後だ。

 それにこの程度の化粧なら、他にもしている生徒はいる。

 今ここでひとりを注意するなら、以降、何人もの生徒達を注意して回らなくてはいけない。

 規則だ校則だと言い過ぎても反発を受けるだけだし、あまり目立った真似をすれば教職員の中でも居づらくなってしまうだろう。

 そう自分に言い訳をして、結局、数秒もしない内に見ないふりを決め込んだ。


 自分のこの教師らしからぬ緩さが、生徒からの人気の一因になっている自覚は、正直なことを言えば、ある。

 けれどもきっと、彼等が大人になった頃に語らう思い出の中では、自分のことなどは大したウェイトを占めてはいないのだろうとも思った。

 自分なんかは物分かりの良い、子供達にとって都合の良い大人ではあるけれども、恩師と慕って貰えるようなタイプではない。

 大人になっても深く心に残るのは、大抵は口うるさい人だとか、当時はわずらわしく思っていても、自分のことを慮ってきちんと叱ってくれるような人なのだろうから。


 女子生徒が同じ高さに立つ。

 平均身長より数センチ高いくらいだろうか、自分の目線辺りの所にちょうど、脳天がきている。

 受け持っているクラスの生徒だとは分かるのだけれども、どうしても、名前が思い出せない。


「ね、ね、いっちゃん」


 だから先生と付けろと。

 溜め息混じりに告げたそんな言葉は、拾われることなどなく、綺麗にスルーされた。

 大人になっても心に残る、どころか、今現在の威厳すら皆無であるらしい。

 しかしこれが、都合の悪い事柄には見ないふりをするという、自らの事なかれ主義なが招いた結果なのだと思えば、仕方がないとしか言いようがなかった。

 だが、それと同時に何より、情けない。

 それなのに直さないのは何故だろうと、自分でも思う――しかし情けなや、それもまた、思うだけなのだ。


 当たり前といえば当たり前だけれども、心なしか肩を落としている教師よりその女子生徒は、ブレザーの袖から出ているカーディガンの解れた毛糸の方が、よほど大事おおごとらしい。

 袖を横に引っ張ってみたり指でもてあそんで、そうしてからようやく、見上げてきた。


 背後から射す太陽光に、透けた肩まである髪が、薄茶色にきらめいている。

 髪も染めているようだなと思いつつも、また今度、機会があれば注意しようという、相変わらずの事なかれ的な結論にいたるまで、そう時間はかからなかった。

 見下ろした女子生徒の、薄赤く染まっている唇が楽しげに引き上げられる。


「このガッコにさ、旧校舎があるってホント?」


 ――きゅうこうしゃ。


 反射的に自分の唇からこぼれ落ちたのは、その一連の音を持っていながら、何の意味も成さない記号の羅列だった。

 さすがに様子がおかしいと思ったのだろうか、目の前の女子生徒は、器用に片方だけ眉を引き上げ首をかしげている。


 きゅうこうしゃ、キュウコウシャ、旧校舎。


 舌にざらざらと残る不快感を吐き出すように、努めてゆっくりと呼吸する。

 一瞬の目眩に襲われて、女子生徒の輪郭がそれに合わせて酷く曖昧な形に歪んだ。

 慎重に、目をまたたかせる。

 何度もしない内にすぐ曖昧さは消え去って、初めと変わらずその場に立つ、怪訝そうな女子生徒のはっきりとした顔立ちが映った。

 やはり、名前が分からない。


 逃れるかのように、視線を宙に投げた。

 何気なく眺めた廊下の天井は、どことなく煤けた色をしている。

 築年数でいえばこの校舎は、十年経っていないはずだ。

 それでも初めよりずっと白さを失っただろうそこへ、誰がどうやったのか、青いペンキらしきものがついていた。

 ぽつんと、青い点。

 焦点をそれに合わせて、いや、とつぶやいた。

 敷地内にそんな建物はないだろう、とも。

 戻した視線の先にいる女子生徒は、どうやら納得していないようだった。

 けれども、それでも確かに見たことがないと判断したらしい。

 いや、疑っているとかいう話ではなく、もしかすると、期待を裏切られたことを面白くないと思ったのかも分からない。

 それでもとにかく、女子生徒はつまらなそうに溜め息を吐いたのだった。

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