第一話〜2
「なぁんだ、せっかく肝試ししよーと思ったのに」
すねた声に、思わず苦笑をもらす。
若い内は、何故こうも無鉄砲なのだろう。
かくいう自分だってまだ教師になって五年目の若造なのだけれども、さすがに肝試しだとかそんな遊びはもうしたいとは思えなかった。
世の中の同年代がどうなのかは、分からない。
けれども、大抵はそんなものだろう。
少なくとも自分が知る限りの同年代の人間に、そういう人間はいない――いや、昔から付き合いのある奴などは元々、そんな遊びを好むようなタイプではないのだけれども、それは置いておくとして。
考えなしに何にでも突っ込んでいけるのは、十代という人生の中ではほんのわずかな、どこか鬱屈し、それでいて爆発的なエネルギーを有する頃だけなのだと、自分はそう思っている。
保護者の庇護を離れ全ての責任を自らが背負わなくてはならなくなった瞬間に、そのエネルギーは、ただ真っ当に生きるためだけに使われるように――いや、使わなければいけなくなるのだ。
まぁ事実そうだとして、そもそも皆が皆真っ当に生きているわけでもないのだから、大人だから云々と偉そうに語ることは難しい。
それに何より、こう淡々と生きているだけの自分のエネルギーが全て正しく使われているのかと問われれば、甚だ疑問でもあった。
――ああ、いや。
そっと心の内でつぶやく。
自分の場合、それらエネルギーの大半は自分自身の責任へでなく、違うところへ使ってしまっているのだろう、きっと。
溢れかけた溜め息を、口の中で噛み殺した。
「肝試しなんかやめておけよ、祟られてもしらないぞ」
気を取り直してそう釘を刺せば、女子生徒はその注意の仕方は間違ってるんじゃないと、ころころ笑った。
確かにそうかともしれないと思うけれども、しかし、どうだろう。
発散しきれないエネルギーを向ける先を求めている高校生相手に、夜間は出歩くんじゃあないとか、不法侵入はいけないと云々かんぬん言ってみたところで、どうせ聞きやしない。
その点で言えば、完全に間違っているわけでもないような気がするのだ。
何よりもまずそれを、許容するかしないかの問題なのだろうけれども、まぁ、ある程度の寛容さは必要だし、肝試しについては諦めたらしいのだから今回は問題ない、はずだ。
まぁ、恐らくは。
そんな心情が顔に表れてしまったのかはしらないが、女子生徒はまた笑う。
最初感じた小狡さはどこかへいって、ただただ無邪気な笑顔に見えた。
「まぁいいや。んじゃね、いっちゃん」
無理矢理リュックのように背負ったスクールバッグを揺らして、女子生徒は横をすり抜け、階段を下りていく。
結局最後まで一度も生徒と呼ばれなかったけれども、生徒との付き合い方を改めるべきだろうか。
いや、しかし。
即、自分自身にいいわけをしていることに気が付いて、内心で苦笑をもらした。
これだから、諸先輩方にお叱りを受けてしまうのだ。
女子生徒の姿が完全に見えなくなったところで
それに気を取られながら、右手首の腕時計を見る。
十五時四十七分。
ああ、早く、職員室に向かわなければ。
職員室に規則的に並ぶスチール製の事務机は、毎年あてがわれる位置が変わってしまうけれども、徐々に日が短くなってくる今の時期となってはもう慣れたものだった。
恐らくは目をつぶってでも自席へたどり着けるだろうと思う――勿論、そんな馬鹿なことはやらないけれども。
何の気なしに他の教師陣の机に視線を滑らせながら自席へと向かえば、今更ながら、整理の仕方には良く性格が出ているようだと気が付いた。
この高校に長く勤めている古文の先生なんかは、そのおおらかで福々しい見た目の通りなどと言ってよいのか何なのか、自分が使い良いようにまとめてある。
四角四面な英語の先生は、本や必要なものを机の縁から内側へ向け、大きいものや背の高いものから順に並べていて、更にチリひとつ許さないとでもいうかのように、余計なものは何も置かれていない。
女性の先生だとたまに可愛らしいグッズが置いてあったりするし、意外や意外、定年間近なとある男性の先生は所々に鳥を模した某有名キャラクターの物が見え隠れして、そういえば以前好きだと言っていたことを思い出した。
職員室に入って左手の窓際にある自分の机はといえば、至ってシンプルで――特別綺麗好きというわけでもなく、単にこだわりがないという意味で――必要な物しか置いていない。
しかし、今日に限っては、自分のものでない何かが積み上がっていた。
いや、何か、と悩むほどのものでもない。
あれは、放課後までにと提出させたノートの山だ。
このクラスは明後日の午前中に授業があるから、今日中に全てをチェックして、明日の内に返却しなければならない。
自席に着くなり早速とパソコンを立ち上げて、そのクラスの名簿を開く。
じっくりと読むわけではないし、五時半からちょっとした会議があるけれども、それまでには恐らく終わるだろう。
ざっと目を通せばパソコン上の表にチェックを入れ、ノートには確認済みという意味で丸と、その中に漢数字の一を書き入れる。
ギリシア文字のシータを思い浮かべれば近いだろうか。
仮名片仮名漢字アルファベットと、自分の名前を様々変換したとき、漢数字の『一』が何より簡単な文字だから、効率的だとずっとサイン代わりに使っているのだ。
上から順に確認し、終わったものはノートの山の向こう、右側へとよけていく。
その作業を続ける内、机の上に小さな一枚の紙切れが落ちていることに気が付いた。
直前に触れていたノートの、中身よりは厚く、表紙よりは薄く、乳白色をしている。
少しだけざらついた表面には、ボールペンか何かで幾本かの線が、左上には丸が書いてあった。
もっとも、その紙に上下左右を表す印があるわけではない。
そもそも製品として作られた角は一つきりであって、これより幾らも大きい紙から一部のみを千切り取ったのだろう、角から伸びる直線を結びつける歪な曲線には、か細い繊維が毛羽立っていた。
だからこそ、自分が手に取った角度が、本当に左上なのかは分からない。
書かれている線が、何かを表しているような気はする。
自分自身には見覚えがないし、恐らくはノートから落ちたのだろう。
けれども、一見して判別のつく何かが――たとえば全体像の窺える文字だとか――書いてあるわけでもなく、どうにも見当は付けられそうになかった。
捨ててしまおうか。
そう思ったけれども、いかんせん近くにゴミ箱がない。
後で捨てればいいか――そう考えて、白衣のポケットへその紙を突っ込んで作業へと戻った。
時計は四時を過ぎている。
ノートはあと半分程だ。
しばらく経ったとき不意に仕事を中断させたのは、空があまりにも赤かったからだ。
ずっと机に向かっていたせいで、肩は鉛の塊にでもなってしまったかのように重い。
冷たさすら感じるのは恐らく、血の流れが滞っているからなのだろう。
机の上には既にノートの山はなく、一番下の、大きな引き出しの中にどけてある。
向かっていたパソコンから顔を上げるついでに壁に掛かっている時計に視線を向ければ、画面上のデジタル表示に違わず、長針は斜め上を向いていた。
会議まであと二十分。
今日中に片付けなくてはいけないものは、ほとんど終わっている。
思ったより集中していたらしいと、細く長く、溜め息を吐いた。
再びパソコンの画面へと視線を戻せば、背後から射す赤く低い夕陽が机に向けて、自分の影を落としていることに気付く。
パソコンの画面は明るいから、肩の辺りまでしか見えない。
ただ、影が差していることにも気付いていなかったのだから、溜め息混じりに眉間のあたりを揉んだ。
これでは道理で目も疲れるはずだ。
ついでとばかりに上半身を捻れば、腰だけでなく背骨も、何とも鈍い音を立てた。
振り向いた視界いっぱいに赤く広がる、窓の向こう。
グラウンドの端に植わっている松が――確か松だったと思う――いやに黒く見える。
「いっちゃん」
背後から唐突に掛けられた声に、思わず肩を跳ねさせた。
極々小さく、声の主が笑う。
「いっちゃん」
何故だろう――静かだ。
運動部の声も、吹奏楽部の楽器の音も、同僚である教師達のざわめきも、何もかもが遠い。
「いっちゃん」
殊更ゆっくりと、俺は振り向く。
「ねぇ、追いかけっこしよう」
誰かがそこに佇んでいる。
ああ、今のような時間帯を
ぐるり、と世界が揺れた。
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