1 浮
「いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
いつもの朝、妻に送られ、家を出る。
門扉に向かう前、玄関ドアを閉める妻に微笑みを向ける。
ついで方向転換、歩き始める。
立派な自宅の門を抜け、いつもならば会社に向かう。
会社員だから当然だ。
が、本日の予定は違う。
出張なのだ。
それで少し早く家を出る。
気持ちが良い朝だ。
時間が早いから人も少ない。
が、早過ぎないから鳥も鳴く。
都会の街だが、結構多くの鳥がいる。
近所に昔のお屋敷が数件残るせいで鳥が来る。
庭に梅の木があったりするので鶯が寄る。
季節的に木蓮なども咲いている。
白い花も赤い花も……。
やがて私鉄の駅に着き、改札を通る。
ターミナル駅に向かい、ついで東京駅を目指す。
電車に乗ると、朝なのに、そう若くもないカップルが妖しげな空気感を醸し出している。
一つ先のドアのところで……。
若ければ可愛げもあろうが、五十代に見える頭皮の薄い男とアラサーの女では興も醒める。
女のスタイルは良い。
が、顔は見えない。
脹脛の細さが印象的か。
聞くとはなく聞いている二人の会話から、まだ酒が残っているらしいとわかる。
それに夫婦でもないようだ。
……とすると、飲み屋の客とホステスか。
あるいは行きずりの関係とか……。
おれには、まったくどうでも良い話だが……。
そのうち電車がターミナル駅に到着する。
改札を出てJR線に向かう。
おれの目の前を酔っ払いカップルがノロノロと歩く。
追い抜いても良いが、急ぐこともあるまい。
おれはノンビリと歩を進める。
新幹線の発車時刻には余裕がある。
おれは焦ることが嫌いなので――それに焦るとお腹の具合が悪くなるので――、いつも早めに行動しているのだ。
が、本日の行動予定は、おれにとって例外となるかもしれない。
部署は違うが会社の後輩、霧島佐知を旅行に誘い、OKが出たからだ。
「珍しいわね。臆病者のくせに……」
廊下ですれ違うとき、佐知がこっそりとおれに言う。
「会社でそういうことを言うのは止めてくれ……」
「はいはい」
素早く言い置き、霧島佐知が、おれから離れる。
おれは独り冷や汗をかくが、気づいたものはいないだろう。
が、何処に目や耳があるかわからない。
「何よ、出張と抱き合わせなの、呆れた……」
おれが旅行の詳しい日程を佐知にメールで送ると、佐知から怒りの返事。
「で、わたしの方には会社を休ませるわけ」
「半休くらい取ってくれてもいいだろう」
「翌日の土曜日からじゃダメなの」
「おれは構わないが、夜が一日減るから……」
「わたしのことを、いっぱい愛したいのね」
「まあ、そんなところ……」
「じゃ、いいわ」
話は纏まり、おれが佐知にホテルの部屋番号を教える。
「仕事は遅くなるの……」
「先方は酒を飲まないから、誘われても食事だけだよ」
「ふうん」
そんな会話をスマートフォンでする。
スマートフォンに残る佐知からの着信履歴はすぐに消す。
佐知にも、おれからの着信履歴をすぐに消すようにと言ってある。
佐知とは、そろそろ一年四ヶ月の関係だ。
一昨年の会社の忘年会で偶然席が近くなり、世間話をしたのが、そもそものきっかけ。
社長の訓示や上司の仕事話が面白くないので、忘年会には、すぐ飽きてしまう。
酔いのせいもあり、冗談で佐知を飲みに誘う。
すると、
「いいですよ」
と二つ返事。
だから会社の二次会に流れず、家に帰るフリをし、佐知と二人で電車に乗る。
普段、おれはまっすぐ家に帰るから、情けないことに、飲みに誘ったくはいいが入る店に惑う。
すると佐知から、自分が知っているから、と店に誘われる。
「山下課長って、案外、頼りない人だったんですね」
店のカウンターに座り、それぞれに飲みものを注文すると佐知が呟く。
「でもまあ、そういう課長も嫌いじゃないです」
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