彼女がいうには、

下道溥

あっちの土の下の話なんですが、

 紅茶のポットがなみなみと注がれたティーカップと一緒に給仕された。2人とも手はつけないけれど、それでなんとなく話を始める雰囲気になった。私は雑記帳と黄色い鉛筆を構えた。

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 然るお嬢様にお仕えしている従者の子がいたんですよ。

 文字は読めないし、書けないし、計算も彼女には難しい。

 でも、家事はできるし、何より、お嬢様のお世話なら誰にも負けないんです。

 私の友達、知り合い——そんな感じの子です。


 誰より細かいお嬢様の変化に気付き、影のように付き添いながら、でも、遠巻きにお嬢様を守っているんです。それは、旦那様が雇っているから、というのもないではないですけれど、ずっと長い間、一緒にいたから、単純に愛していたということだと思います。

 一方のお嬢様も彼女のことが好きでした。正確にいうなら、気に入っていた、というのが正しいのかもしれませんけれど、それは結局好意で、それを「従者」としてだけでなく、「彼女」も好意として受け取っていたんです。

 ある時、その家の旦那様が、お嬢様が育ってきたので、と言って教育係をつけたんです。やっぱり、読み書き、計算はできないとって。

 そこの旦那様が雇ってきた方は、うん、はっきり言ってしまえば、先生らしからぬ人でした。本を一緒に読んで少しずつ覚えていこうって、言ってたとかなんとか。厳しくなかった「先生」はもちろん、お嬢様のお気に入りになりました。


 たくさん面白いお話をしてくれるの、って。従者の子にも結構その話、したみたいです。影だった彼女は、いつのまにか、たくさんある部屋のお人形の一つになってしまって。

 従者である彼女はだんだんお嬢様のお心が離れていくことによく、本当によく、気がつくことができたわけです。お嬢様のことなら、どこのどんな誰よりもよくわかっているのですから。

 彼女はそのことを気にしていない風でした。変わらず、遠巻きにお嬢様をお守りしていました。


 お嬢様が硬貨を数えるとき、2枚ずつ数えると素早く数えられる、という技を披露して旦那様を喜ばせた頃、その時でもやっぱりお嬢様の従者だった彼女は、料理の最中にぼうっとしていて、鍋つかみを忘れたまま鍋を持ち上げようとしたのです。


 偶然にも結構な高温だったその鍋は、左手を鋭く灼きました。そこにやっぱり偶然お嬢様が通りかかったわけです。育ちのいいお嬢様は、それを見て、人を呼びました。そして、その人に手当てをさせたわけです。従者の左手に包帯が巻かれました。見るだけで怪我をしたんだ、と分かるその有様のせいか、お嬢様は包帯が取れるまで、従者のところへ、ちょっぴり頻繁に、お話をしに行くようになりました。


 まあ、多分それがよくなかった、結果論ですけど、よくなかったんでしょうね。それ、というよりそのあと、がでしょうか。包帯が取れると、お嬢様は遠のきました。元どおりです。従者の見た目も元どおりになりましたが、彼女はそれ以来、よく怪我をするようになりました。どれもちょっとした不注意の賜物。そんな程度のものでした。その度に、彼女はちょっとした治療を自分でしました。それまでなら、あかぎれと区別のつかない切り傷に包帯を出してきて巻くことはなかったのですが。ああ、ええ、それは最初だけの話でした。その頃のがましだったのではないか、と言われたら、そんなことない、と言い返すことは難しいでしょうね。


 お嬢様は、だんだんと、要は、慣れておしまいになられたのです。体の末端のどこかしらに、怪我を示す白い帯を入れるようになった従者の存在は、お嬢様にとって驚くに値しない存在になっていきました。お嬢様の足は、また、従者から遠のきました。


 一体それから何があったのか。話してはくれなかったですね。なんでしょう。やっぱりかな。やっぱり、誰にも言えないことってあるのかもしれません。いずれにせよ、従者としての時間が少なくなったあの子は、思い切って、思い詰めて、思い余って、自分の太ももの、その肉を、子供のこぶし大ほど削り取ってしまいました。

 包帯に慣れたお嬢様も、さすがに松葉杖には慣れてらっしゃらなかったようで、どれほど驚いていらっしゃったことか。お父様であるところの旦那様が、足の多い奇形の鳥を狩ってらっしゃったときにも、それほどまでではありませんでした。そのせいでしょうか。お嬢様がそれまで従者の彼女に抱いていた愛情らしきものは、どうやら姿を変えることにしたようでした。


 彼女はそれに気づいたのでしょうか。どうだったのか。誰かが何かに気づいているかどうか、どうやったら確かめられるものでしょう。自分が気づいたことに気づけたら。自分が気づいていないことに気づけたら。ひょっとして他人のそれも分かるのかも。いえ、でも、少なくとも、それは、後悔に形の似た、憐憫の色をした、そういう何かの源なのかなと思います。

 それでもどれでもなにがなんでも、彼女は信じていたようでした。誰をというより、何をというか。信じていたようでした。信じていたのでしょう。


 歩くことも難しい、彼女のどこに気力があったのか。足裏、二の腕、指3本。左胸に右胸に、いったい左右どちらのだったか、耳とか目とか手の甲とか。ともかく、彼女は彼女の、彼女のものである彼女のための体から、それらを切り外してしまいました。それらを贄にしても欲しいものがあったのでしょう。

 その頃のお嬢様はといえば、先生と一緒に過ごす時間が増える一方でした。そのせい、というのはお門違いでしょうけれど、彼女を最後までなぶったのは、肩を押したのは。増えに増えていくその時間でなかったはずもありません。

 最後の贄は生け贄で、自分の首に縄をかけ、お嬢様のお部屋で、旦那様の脚立から、地面へ。結局、足は地面につかなかったわけです。


 あの子、それで、あがなったつもりだったのでしょうか。いえ、どうでしょう。どうだったのかな。



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 雑記帳には、意味のつながりのわからない、いくつかの単語だけが、増えた。

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