05-07-02:クラーケン
『ギフソフィア生花店』を出て暫く街路を早歩きで進み、程なくステラは隣のシオンに話しかける。
「さて、シオン君。魔法を使うが良いな?」
「構いません、むしろそうして下さい。解決は早ければ早いほど良い」
「よしきた、任せてくれ」
ステラがマントの下に隠れた腰の得物に手を添えた。ステラの得物、グラジオラスはステラの心象魔法の精度を上げ、またロスラトゥムはゆらぎを抑制する機能が備えている。この状態で魔法を使うならそれは確実に発動し、効果をもたらしてくれるものとなる。
「――
紡がれた縁はステラの視界に線として描かれ、彼女の居場所をつぶさに知らせてくれる。
「よし、急ごう。もし泣いてたらことだからね」
「ということは……猫の道を使うのですか?」
「当然! 勿論シオン君が通れる道を選ぶよ。付いてこられるかな?」
「誰に物を言っているのですか。これまで追い付けなかったことがあるとでも?」
「フフフ、頼もしい返事だ。じゃあ行こうか!」
そうしてステラの先導で、糸をたどりルサルカの街を走りだした。
◇◇◇
普段なら走りながら小咄の1つもするところであるが、現在の2人は全くの無言で街を、運河を、船を飛び跳ねて走っていた。まるで猫のごとくであるがそんなことは2人にとっての日常である。原因はまた別……向かっている先に拠るものだ。こらえ切らなかったのかシオンが口火を切る。
「……ステラさん」
「なにかな?」
「これ、港区に向かってますよね?」
「そうだねぇ」
誰がどう見ても一直線に港へと向かっていた。それが意味するところとはつまり――。
「もう1つ質問良いでしょうか」
「構わんよ」
「……沖に出港している船が見えるのですが」
「居るね。ハハハ、小生の幻覚じゃないみたい」
桟橋の上からも、ざあざあと遠ざかる船がよく見える。順風満帆、航路は快調いい船日和だ。もちろん出港する船はただ1隻……目立つ姿を目に止めた街の人もざわざわと騒ぎ立てている。
「これまずいんじゃないか?! まさに今クラーケンが居るだろ!」
「ええ不味いですね、このままだと――」
シオンが言い切る前に遠く沖合の海が盛り上がった。港にも響く大きな音を立てて、遠くに白く巨大な触手が現れた。ぬめる地肌はうぞうぞと色めき立ち、トゲ付きの吸盤がおぞましく震え上がる。背筋に怖気が走り、その正体がクラーケンなのだとすぐに知れた。
いや、この2人に限って言えばクラーケンの正体を理解したというべきか。
「な、なあ、シオン君?」
「なんですか……?」
「我々はあれを知ってる、でいいよな?」
顔を見合わせた2人は目を見開き頷きあった。どちらも顔色はひどく悪い。
「……この悪寒はたしかにあれと同じものです」
「小生もそう思う。そいつの名は――」
「「ジャバウォック」」
声を揃えた2人は眉間に皺を寄せ頭を抱えた。感じた悪寒はたしかにジャバウォックと対峙したときと同じものだ。違和感が在るとすれば無差別に襲わないことぐらいであろう。以前遭遇した個体と似通っているならば、存在するだけでルサルカの街は『餌場』になっているはずなのだが……。
しかし違和感以前に不味いのは『船』が『沖にいる』事実ただひとつ。
「マジやべえじゃないか! あんなもん確実に沈められるぞ!」
「あ……見てください。船が反転しようとしてますが、完全に引っ張られていますね」
「ちょっ不味いじゃん……早く助けに行かないと!」
思わず駆け出そうとするステラの腕をシオンが掴んで止める。
「な、なにするんだ?! エーリーシャちゃんはあそこに居るんだぞ!」
「ステラさんは戻ってください。僕が行きます」
「へ、なんで?! 君だけじゃ向こうには……」
「もうじき出番でしょう?」
「『ウタウタイ』か?! そんな場合じゃ――」
「そんな場合なんです。ルドベキアの
「な、何いってんだそんな、相手はジャバウォックだぞ?!」
「直戦闘するわけでもありませんし、いつもの作業分担ですよ」
「でもっ……」
相手は油断せずとも人をすりつぶす、人食いの巨体ジャバウォックだ。前回は初戦ということもあり特に怖さは感じなかった。だが今彼はたった1人で向かおうとしている。
だからこれは1つの可能性の話だ。
ヴォーパル・イフェイオンに
脳裏によぎるのはプリムラの話、そして忠猫エドワルドの最後、そして目の前にいる彼の母の最後。生きとし生けるものは簡単にその生命を散らす。
如何に彼女が信頼を置く彼とて絶対ではないのだ。それがステラにとって、心の底から恐ろしくてたまらない。失われる可能性を考えるだけで、現実に起こり得るという事実を前に足がすくんだように動かなくなった。
できるなら一緒に行きたい、行くべきだと心が叫ぶ。
しかしここで分かれるのが最適解であることを理性が諌める。
体の芯が冷えるような思いで彼女が決めた結論は――。
「……必ず戻ってくるよね?」
「余裕ですね」
「絶対だからな」
「約束しましょう。だからステラさんは思うように歌ってください」
「死んだら許さないから……」
「じゃあ帰ってきたらキノコ食べましょうキノコ」
ずいぶん余裕なシオンに、ステラが泣き出しそうな顔でシオンの顎に手をやりキスをする。シオンは一瞬驚いたようだが意図を組んでぬるりと入ってくるステラの舌を受け入れた。
「んっ……」
痛みは魔力となって口をつたい、シオンの風が絡む舌を通してステラに溶け込んでいく。
その爽やかな魔力が心に刺さって悲鳴をあげた。
それでも求めるように、貪欲にシオンを求める。
そして……魔力が溶け合って彼と彼女に
だからもう口を離さねばならない。でも出来なかった。この時が過ぎれば、彼はもう行ってしまうだろうから。
故に彼が少しだけ体を離した時、彼女は一瞬だけ追いかけ……すぐに離れて彼に背を向ける。
「……ぜったい、だからね!」
駆け出すシオンを振り返らずステラは走り出す。こんな顔は、彼に見せたくなかったから。見せてしまえば彼は心配し、己の決意がすぐに揺らいでしまうと知っていたから。
見送るシオンは唇にそっと手を触れて、先程まであった甘い香りを想いヒュウと息を吐く。
「……よし、行きますか」
海に目を向ける彼は振り返らずに駆け出した。
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