03-17-05:ヘクラリトアス/テスタメント
3階、の差す日当たりの良い窓辺、気持ちのよい風そよぐ部屋。
シオンは甲斐甲斐しく母を看病していた。
あの後すぐにカスミは目を覚まし、か細い声で『おはよう』と挨拶したのだ。
それから屋敷は大騒ぎである。たかが5人でもざわめきも相応である。
ステラは気絶して居たのでベットに寝かせ、程なく目覚めたハシントは感涙の余り泣きじゃくり、朝食の準備をしていたヴァグンはあっちこっちに走り回り、庭師のデルフィは……ちゃんとカスミに叱られて許しを得た。
騒がしく屋敷が回る中、シオンはカスミのそばにずっといた。ただ昼過ぎの今となって、彼は少し困っているようだ。
「か、母様……少し食べ過ぎでは?」
「――そうかしら? とてもお腹が空くのだもの」
未だ包帯だらけの身で頬も痩けて居るが、その目には生命の活力で満ち溢れている。
「……良いじゃないか、ヴァグンさん特製のパン粥だよ? そんなん幾らでも食べられるだろ」
窓際に立って言うステラは、壁に背を預けて腕を組んでいる。先程目が覚めた彼女は真っ直ぐ部屋にやってきて、2人を見て驚いた。すこし眉を潜め、小さく息を吐いた彼女はカスミの回復を祝うと、そのまま窓際に行ってしまったのだ。
やはり少し調子が悪いのだろうか、その面持ちは少し暗い。
「ですが、これ3杯目なんですけど?」
「なら、君も食べたほうがいいよ。そうした方がいい」
「??」
首を傾げる彼はその手のパン粥に目を落とす。小ぶりな椀だが、小柄なカスミには多すぎる量だ。その身体のどこに入っていくのか、彼はさっぱり見当がつかない。
今もまた嬉しそうに笑顔を浮かべ、小鳥がせがむように小さな口を開けて匙のパン粥を待っている。彼が仕方なくふぅふぅと冷ました匙を差し出すと、ぱくりとそれに食いついて、ちゅるりとパン粥を含むと、むきゅっむきゅっと味わうように噛んで、こくりこくりとゆっくり飲み込めば、
「――はふぅ……」
とても嬉しそうにため息をつくのだ。
それを見るのは作った本人のヴァグン。彼はそのヒゲの奥で潤む瞳をそのままに、うんうんと頷いている。至極のパン粥である、喜ぶ顔を見る彼の感激たるや
手厚く看護をしたハシントは、また笑顔が見られたことに笑いながら泣いている。ただ少し力が入りすぎているきらいが有るが、其れを指摘する野暮はここには居ない。
また部屋の端、気まずそうに佇むデルフィはその頬が殴られたように腫れている。カスミが目を向けると、彼はビクッと肩を揺らした。
「――きにしなくていいのよ?」
「しかし……」
「――もうっ、しゃっきりなさい!」
「ッはい!」
ピンと背筋を伸ばすデルフィは、ステラが目を覚ます前に部屋にやってきて、行った事のすべてを打ち明け懺悔した。罰を求める彼に対し、カスミはほっぺをつねる事で応える。
酷く消耗した彼女のそれは全く痛くないし、つまむ力もない程に弱々しい。だが何より痛いそれにデルフィははらりと涙をこぼし……周囲は口に手を当て顔を背けた。
この先走った使用人に思うところはある。だが女主人の様子があまりにも可愛すぎてどうでも良くなった。
『――んん~~……ふぅ、ふぅ、んん~~~~!』
と、一生懸命つねろうと頑張るのにうまく行かなくて、でも諦めずにふにーっとつねるのだ。
傷だらけの女主人は、正に『橋より重いものを持ったことがない』状態だった。痛ましいことはたしかに痛ましい。だが元々少女然としたカスミがそれを行えば、帰結するのは即ち
『『『『(可愛い)』』』』
の一言であり、同時に彼女がその呪縛から解き放たれた事をアルマリア家の皆が知ることになったのだ。
ただ嬉しさと切なさと申し訳無さが合わさるデルフィは、自罰として自ら頬を拳で撃ち抜いた。即座にカスミが『めっ』して止めたが、それでもぷっくりと頬が晴れてしまっている。
心配そうに見つめるカスミを受けて、使用人2人が『何お心を砕かせてる訳?』と睨みつけるので更に肩身が狭い。ただ構われた事に、少しの嫉妬も含むかもしれないが。
シオンが補助してパン粥を食べ終えると、カスミは赤子のように『けぷっ』と
在るべきものが収まるべき場所にカチリと嵌り、今の屋敷には和やかな空気が流れている。
「――
「いえ、そんな事はございません……でも、戻ってきて、よかった……」
口に手を当て目を伏せたハシントは、枯れぬ涙をはらりと流した。
「――ヴァグン。いつも美味しい料理をありがとう。貴方は私の誇りよ」
「……」
目頭を抑えるヴァグンは、エプロンをぎゅっと握りしめて肩を震わせた。
「――デルフィ。貴方はもっと心をかるくしてちょうだい? 世はもっと華やかで輝いているものだから」
「はい……奥様……」
主人の労りに、デルフィが歯を食いしばり涙をこらえる。
「――3人とも。これからはしたい事をちゃんと見つけて、前に進んで歩いて頂戴ね?」
「勿論お仕えさせて頂きます!」
「……!!」
「最早愚を犯すことありませぬ!」
3人がそれぞれ声を上げ、彼女はやはり困ったように笑う。
「――シオン、ありがとう」
「いえ、当然のことですから」
「――おいで?」
そう言ってカスミが両手を開き、シオンを招く。少しの躊躇いの後、彼はか細い腕に包まれていた。
骨と皮となった体は思った以上に冷たく硬い。それでも小さく聞こえる鼓動は、包まれるこの柔らかな香りは、何時かそうしてもらった時と同じ、安心する場所であった。
とん、とん、と叩く背に、いつしか自然止を閉じていた。
「――貴方は自慢の息子だわ。私には勿体無いくらい」
「……そんな、ことないです」
「――これから先、貴方は沢山の事が起こるでしょう。辛いこともままあるわ」
「……大丈夫、です」
「――でももし道に迷ったら、空を見上げなさい? きっと星が導いてくれるわ」
「……は、い……」
そうしてカスミが良し良しと頭を撫でると、彼はすぐに眠りに落ちた。ここ数日の疲れ故か、またはこうして元気を取り戻した故か。その寝顔はとても穏やかであった。
支えるには少し重い彼を何とか抱きとめるカスミはステラに振り返った。
「――ステラさん」
「……はい」
「息子を、シオンをよろしくお願いね?」
「ッ!」
ステラは一瞬唇を噛み、息をひゅうと吹いて胸に手を当てた。
「我が
「――ありがとう……」
その硬い言い回しにハシント達が首を傾げる中、カスミが嬉しそうに頷く。ステラがカスミからシオンを受け取り、横抱きに持ち上げて彼の寝室へと運んでいった。
その背を見るカスミはぽつりとつぶやく。
「――皆、本当にありがとう。私は幸せ者だったわ」
パタリと閉まるドアの向こうで、カスミは何処までも儚く、しかし何時までも嬉しそうに笑っていた。
3階、朝日の差す日当たりの良い窓辺、気持ちのよい風そよぐ部屋。
女主人カスミ・アルマリアは皆に見守られ、眠るように逝った。その顔は大変穏やかで、微笑みさえ浮かべていたと言う。
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