02-01-04:目覚める彼女と粘滑かなるモノ

 結果として。


 飲める水を得ることは成功したが、期待通りには行かなかった。


 まず近場に水場や植物がないからか、水の集まりがとても悪い。

 集まっても文字通りの手酌しかないから、一口に少し足らない分しか集める事が出来なかった。また気温と同じ温度で集まる故にぬるい。


 なら冷たくしようと考えた所、なんと手が凍った。濡れそぼる手を冷やしたのだから至極当然の結末である。

 解凍できたのは本当に運が良かった。もうあんなことしないよと彼女は心に誓った。


 そしてなにより不味いのである。


 彼女が集積したのはつまり蒸留水、純水である。それもミネラルを含まない純度100%の超純水となっており、味がない上喉に引っかかってかなり飲みづらい。

 最早水とラベリングされた液体と言うべき代物であった。


 やはり水に関しては、素直に川や湖を見つけるべきであろう。次はしくじるまいと彼女は頷く。



「さて、すすもっと……」


 そうと決まれば槍を持ち、意気揚々と一歩進めると、


――ぶヌゅう……


 という得体の知れぬ悍ましい感触が足裏に伝わった。瞬間背筋がぞぞっと凍える。


「ぃひっ?!」


 声にならない悲鳴をあげる。あまりの異様さに一瞬で混乱状態に陥ったが、1つだけわかることがある。


(なななな何か踏んだ、何か踏んだ、なんかふんだああああ!!)


 何もなかった場所に何が、若干涙目になりつつ足を上げれば……ネう゛ァッとした何かが糸を引いて足裏にくっついているではないか。


「ひぃ?!」


 いや、目を凝らせば見ればそれだけではない。彼女の正面の通路が、何かてらてらと濡れたが覆っているのだ。


「ひゃぃああっ!」


 たたらを踏んで飛び退り、バランスを崩して尻餅をついた。


 取り落とした石の槍が手から離れ、カランと2度、3度音を立て跳ね消えていく。


 あわててネトネトから離れようとするが、体がうまく動かずただ埃を巻き上げるばかりだ。


「わっ、わっ、やっ、なん、やだっ、あっ、あっ……」


 足をバタバタと動かすが、黒い粘りがどうしても剥がれない。床に足をこすりつけるも、積もった埃で滑って拭い去ることが出来ない。


 不快、気持ち悪い、嫌悪。言い様のない不安が彼女に圧し掛かる。


 どうしたらいい、なにができる。分からない。解らない。ワカラナイ……。


「や、うぁ、ひっう、はう゛っ、うう゛、ううう゛う゛ー!」


 混乱する彼女はついに泣き出した。なんとも悲しくて、如何様にも辛く、感情が溢れて止まらない。


「うっ、うぐっ、ぁっ、うえぇえっっぐ、う゛ぅーう゛う゛う゛ぁーーん!」


 ぽろぽろと滝のように涙を流す彼女はだ。自分でも制御できない激情に、ただ流されるまま嗚咽を吐き出す。




 故に何者かが近づいていることに、彼女は全く気が付かなかった。



◇◇◇



 影が存在に気づいたのは、ある筈のない風が吹いたからだ。


 原因は彼女が行った水の集積。空気中の水分とは即ち水蒸気であり、動かすなら同時に風の流れが生まれるのは道理である。

 故に寂れた遺跡において、己の存在を影に証明してしまった。


 影は警戒を強めた。


 この殿に自分以外の誰かがいる等。盗賊や山賊も此処には絶対に居る訳がないし、魔物は此処に入ってこられない。


 では正体とは何なのか。少なくとも確認する必要があった。


 影は音もなく腰の物を抜き放つ。現れたのは抜身の白銀、よく手入れされた無骨なロングソードだ。


 慎重に風の向きを辿り、魔法の気配に冷や汗を流し、何か叫ぶような声を聞いて、影は遂に諸元にたどり着いく。


 やあれ潜むは如何なる悪鬼羅刹なるや……そう身構えていたのだが、覗き込んだ先に居たを見て訳がわからなくなった。



「あ゛ぁーう゛ぃひっ、ぐっうう゛ぇゲッッホ! げぇっふ! げっふっぉぅあぁあ゛ぁあああん!」



 明かりの先、通路のど真ん中。子供のようにギャン泣きする目麗しいエルフ……いや、が存在した。


 なぜこんなところで泣きわめいているのか、影は頭を抱えて悩む。


(まさかハイエルフのバンシー……?)


 いや、死人呼びバンシーはこんな泣かない。悲しい気持ちを露わにしているのは同じだが、バンシーは乙女が悲しむが如くのだ。こんな無様には泣かない。


 通常ならそのまま去る所なのだが、で泣きわめく等尋常の類ではない。


 影は困った挙句、声をかけることにした。ただし不審な動きをすれば事を心に構えて。


 見慣れぬ黒い水溜りは避ける。彼をして正体がわからぬものに触れるなど正気の沙汰ではないし、それこそが目的やもしれない。


 おおよそ影の剣の間合い……3メートル程に迫ろうとしたところで、女はピタリと泣くのを辞めた。


(ッ!)


 流石にさとられたか。


 影はより精神を研ぎ澄まし、彼女が何をしようが飛びかかれるよう剣を構えた。白銀が怪しく煌めき、解き放たれる時を今か今かと伏して待つ。


「はふぅー……」


 女はゆっくり頭をあげた。その顔はスッキリしたように満面の笑みを浮かべている。


 ただその顔は涙と鼻水と埃が混ざってぐっちゃぐっちゃであり、奇跡的にの形へとまとまっていた。それを見た影は息を呑む。


(邪教徒?!!?!)


 そう、彼女の美しいはずの顔には、デスメタルバンドのボーカルが如き悪魔的化粧のように埃が付着して固まってるのだ。素地たる白い肌と相まって、見てくれは完全に邪教徒である。


 影は飛び退り剣を正眼に構えた。如何にハイエルフとて邪教徒はんぎゃくしゃならば油断ならないし、事実なら聖域とも言える神殿に於いて赦してはならない。



 影は得物の白銀に魔力を流し込むと、銀光を纏い輝いた。決め打つ境界線だ。彼は刃を解き放たんと剣を振りかぶり、足に力を込め――。


 ただ女はそんなことはお構いなしに背伸びをする。


「んゆーー、スっとしたなー!」

「!?」


 斬りかかろうとした影が大きく飛び退る。床からにちゃ、と鳴る音は粘度がある。やはりただの水たまりではない。


 影は内心で舌打ちする。もし女の罠であれば影は術中にあり、状況は悪いと言わざるをえない。だが焦ってはならない、だがゆっくりもしていられない。


 影がもたつく間にも女は埃塗れの体を払って立ち上がって――。


「はあ、もうっ。なんでないてしまったのかなー?。まったく、わけがわからな――んフぉあっ?!」

「っ!」


 まさに今気づいたとばかりに女が影を見る。誰、どこから現れた、一体何物。金の目は如実に語り、視線がつつと下がってやたら輝く剣へと注がれる。


 明らかな凶器であり、差し向けられるのは鋭い殺意。


 向き先は考えても彼女……状況明快、故に青ざめて叫んだ。 


「ギェアアアアアゥウウウ!!!」

「は?! 山賊?!」


「おおっ、おそわわれるぅゥウうーわバああああああ!!」

「え?! なっ?!」


 敵対すると思われた彼女は目の前でわたわたと踵を返し、ぎこち無いスプリントを開始……したと同時に盛大にひっくり返った。


 思い切り踏み出した足には未だ黒いネトネトがこびりついていたが、慌てた彼女は完全にすっぽ抜けていたのだ。


「に゛ゃん゛?!」


 ズルんと勢い良く半回転をする彼女、続けて後頭部が石畳へ吸い込まれるように落ちていき……


――ドギャッ!!

「お゛っ…………う゛!」


 押しつぶしたカエルのような断末魔、岩が砕ける強烈な音と衝撃。


 ベクトルのすべてが脳を揺らし意識が飛ぶ。同時にくたりと力を失った四肢は紙風船のように潰れ、ぺしゃりと手足が石床に落ちて静かになった。


「……えぇ?」


 この間僅か5秒の出来事である。影はあっけにとられて1ミリも動くことができなかった。所在なさげに明滅する脅威の白刃が物悲しげに揺れている。


「なんですかねこれ?」


 影の問いに応えるものは無く、しんと静まる石の通路に染み入り消えていった。

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