こんぎつね

ふだはる

第1話

 昔ある所に兵十ひょうじゅうという名の青年がいた。

 彼は山での猟を主な生業としていた。

 ある日、兵十は獲物を狩りに入った森の奥で、罠に掛かっていた狐を見つける。

 自分が仕掛けた罠では無かった。

 罠に掛かった狐の側に小さな狐がいた。

 右の耳だけ真っ白な毛に覆われた変わった狐だった。

 子供だろうか?

 兵十が罠に近付いても、その子狐は逃げようとしなかった。

 易々と二匹の狐が手に入る。

 一匹は罠を仕掛けた兵十の猟師仲間で同年代の弥助やすけの獲物だが、子狐は捕まえた者に権利があるだろう。

 猟師であれば誰もが、そう考える事だった。

 しかし兵十は、しゃがんで罠を外して狐を逃がしてしまう。

 一緒にいた兵十の母親の知り合いで、彼の亡くなった父親代わりの猟師仲間である茂平もへいという名の老人が言う。

「いいのか? 弥助に、ばれたら酷く怒られるぞ?」

 兵十は微笑んで答える。

「まだ幼すぎる狐だ。母親が育てなければ生きるのも辛いだろうと思って、つい身体が動いてしまった……。殴られるだけで済まないかもしれないが、やっちまったもんは、仕方が無い」

 兵十は立ち上がると猟銃を担ぎ直した。

「弥助には別の獲物を渡して、それで勘弁して貰うさ」


 しかし結局その日の兵十は、別の獲物を仕留める事が出来ずに、罠が働いた形跡を確認した弥助に問い質されて殴られてしまうのだった。


 それから幾日かが過ぎた。

 狐の親子は巣で一緒に仲良く暮らしていたが、ある日を境にして母親が病に伏せってしまう。

 子狐は繰り返し外に独りで出て小さな鼠などを狩り、母親に与えて必死に看病していたが、容態は悪くなる一方だった。

「もっと母様かあさまには栄養のつく物を食べさせてあげないと、いけない」

 優しい子狐は、そう考えて大きな獲物を狩る決意をして巣穴から出た。

 しかし大きな兎などを狩ることは、まだ子供である彼女には厳しく、途方に暮れていると、川の方から何か良い獲物の匂いがしてきた。

 近づいてみると、人間が何やら魚を獲っている最中の様だった。

 その人間に子狐は、見覚えがあった。

 兵十だ。

「あの優しい人間だ」

 自分の母親が掛かってしまった罠を外して、逃がしてくれた人。

 あの人がいなければ、母親は捕らえられて、自分も捕まるか、飢えて死んでいただろう。

 とても大きな恩のある人間だった。

 ゆっくりと去ろうとする彼女の目に地面に置かれた大きな桶が、映った。

 良い匂いは、その中から漂ってくる。

 子狐は兵十に気付かれないように、そっと中を覗いて確認した。

 桶の中には……とても大きな鰻が、一匹だけ入っていた。

「これを母様に食べて貰いたい」

 彼女は、そう思ってしまった。

 その瞬間に鰻を咥えて、走り出してしまう。

 がさごそと小さな音が聞こえて後ろを振り返った兵十の目に、逃げる子狐の白い右耳が見えた。

「あの時の!?」

 兵十は慌てて叫んだ。

「待て! 待ってくれ! その鰻だけは盗って行くな! それは大事な物なんだ!」

 彼は彼女に向かって大きな声で呼び掛けた。

 しかし子狐は、振り返る事なく走り去っていく。

 走りながら彼女は、都合の良い言い訳を心の中で繰り返した。

「大丈夫……あの人間は優しい……時間が経てば、きっと許してくれる……」

 それは願望に近い思いだった。


 巣穴に戻った子狐は、喜んで母親の元へと鰻を持って行く。

 しかし母親は、既に息を引き取っていた後だった。

 口に咥えた鰻を地面に落とすと彼女は、しばし呆然とした。

 母親の死への悲しみと同時に高く大きな後悔の波が、子狐の心に押し寄せてくる。

 これは天罰だ。

 恩を仇で返す様な事をしてしまったから、神様に怒られてしまったのだ。

 子狐は、そう考えて自分の行いを悔い、そして深く悲しんだ。


 翌日。

 巣の中で母親の亡骸に寄り添っている子狐の耳に大勢の人間の声が、聞こえてきた。

 村の方から聞こえてくる様だ。

 ここまで聞こえてくるなんて何事だろう?

 気になった彼女は、巣穴から出ると村の様子を見に行く為に歩き出した。

 森の中から出ると、遠くに見える田んぼの畦道あぜみちを喪服姿の村人達が歩いている姿を確認する。

 誰かの葬式が、行われている様子だった。

 先頭を見覚えのある人間が、歩いていた。

 兵十だった。

 子狐は周囲の人間に気付かれない様に畦道に向かって近付いていく。

 そこで二人の人間の話し声が、聞こえてきた。

「兵十の奴……母親が死んで、とうとう一人になっちまったなあ」

 茂平が悲しそうに溜め息をついた。


 兵十の母親が、死んだ?

 ひとりぼっちになった?

 私と同じだ……。


 子狐は、そう考えると奇妙な一体感に包まれた。

 しかし、それは次の二人の会話によって簡単に打ち消されてしまう。

「それにしても兵十の奴、更に悲しそうな雰囲気だったが……何か、あったのか?」

 弥助が茂平に尋ねた。

「母親が最後に鰻を食いたいと言っていたんだが……食わせられず仕舞いでな……」


 鰻……?

 あの時のっ!?

 なんということ!?


 後悔などという言葉では足りない感情が、子狐を襲った。


 自分は、なんという罪を犯してしまったのだろう!?


 彼女は罪の重さに恐ろしくなって震えてしまう。

 畦道の向こう側から歩いて、こちらに近づいてくる兵十……。

 その顔は青く、生気が無かった。

 子狐は逃げるように森の中へと戻った。


 どのくらい森の中を彷徨っていたのか?

 気が付くと夜になり、子狐は森の中の開けた草むらの、その中心に出てきてしまった。

 満月が彼女を照らす。

 子狐は夜空に浮かぶ月を見上げて吠えた。


 ああ、神様。

 もし願いが叶うのならば……。

 どうかどうか、私の罪を兵十に償う為の力を、お貸し下さい……。


 彼女は、そう願いながら、歩き疲れたのか草むらの上で倒れる様に眠りについた。


 翌朝、目が覚めると子狐は、人間の女性の姿に変えられていた。

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