月曜日のラッシュアワー
みらい
月曜日のラッシュアワー
通勤ラッシュ。それは労働者である僕達の【憂鬱】だ。
僕が乗る駅では座れない程度の混雑が、数駅駒を進めるだけで車内は寿司詰め状態となる。労働前のウォーミングアップと言ってしまえば聞こえは良いが、そんな風に割り切れるほど脳筋にもなれない。
一週間の始まり、月曜の朝。
いつも同じ時間帯に乗り合わせる女子高生がいる。
運動部なのか、健康的に焼けた肌とポニーテイルが特徴的で、いつもエナメルバッグを肩からぶら下げている。今日もドア横の手摺を握りしめ、車窓から流れる風景を眺めていた。そんな少女に僕はA子と名前を付けている。
ちなみに他にも、優先席でiPadをいじるi朔、車内で丹念に化粧をするM美、絶対に端の席をキープしているP助がいる。他人に名前を付けるなど、何とも趣味が悪い。
A子の存在を今日も何となく確認し、文庫本を鞄から取り出す。ミステリーの佳境で、主人公が華麗に犯人を追い詰めていた。
15分ほど電車は走り、残り数ページを残す所で僕は本を閉じる。
さぁ、そろそろ混雑ターミナルに到着だ。ドアが開いた瞬間、僕達の戦いが始まる。
パーソナルスペースなど皆無に人々の洪水が僕達を飲み込む。酸素も少しだけ薄く感じる。
脇腹には誰かの肘が当たっており、尻にも誰かの手が当たっている。僕が女だったら事案なのでは?と思いながらも、明日の冤罪容疑者は我が身と、身震いしながら縋るように吊革へ手をかける。
いつもお決まりの急カーブで身体を大きく揺らされる。
その一瞬だった。ある光景が人混みの隙間から視界に飛び込んできた。
瞬きも出来ない一瞬の光景。僕の網膜に半ば強制的に焼き付いてきたのは、お尻を触られているA子の姿だった。
現在進行形な痴漢現場に額から冷や汗が流れる。だが、もしかしたら見間違いの可能性だってある。少し身体を傾け、怖いながらも強引にA子を覗き込む。横の人が僕の事を邪魔そうに睨む。すいません。
しかし、僕の目に映った光景は見間違いでも何でもなく、確かにA子はお尻を触られていた。触っている男の顔に目を向けると、週に2回は同じ車両に乗り合わせる、体育会系リーマンM宮だった。
僕の心が疼く。
さっきまで読んでいた小説の主人公の様に、華麗に犯人を捕まえられたら、一躍ヒーローになれるチャンスなのでは?しかもこの電車は快速急行で止まるのはまだ先だ。
イヤイヤ嫌。臆病な僕がそんな事を出来るわけがない。自慢にもならないが、学生時代イジメられていた僕だ。そんな勇敢になれるはずがない。誰か別の人が助けてくれるだろう。
あっ、すぐ側に座るP助、見て見ぬふりした。
そうか、皆これから忙しい1日が始まるのだ。こんな所で労力など使っていられない。僕も今日から一週間、残業が確定しているせいで朝から溜息しか出ない。
そうだ。皆それぞれやる事があり、人に気を使っている余裕など針の穴ほど無いのだ。そう自分に言い聞かすが、心の最深部がチクチク痛む。これは偽善だ、これは偽善だ。格好つけるな。
目の前の現実を覆い隠すよう、頭の中に霧が掛かる。
【これは偽善だ、これは偽善だ】自分に言い聞かす………だけど…。
何で今日に限って、犯人を捕まえる場面なんだよ…。
霧掛かった頭の隅で小説の主人公が僕に語りかける。
『モナミ、戯言に耳を傾けてはいけませんよ。あなたの灰色の脳細胞で今すべき事を考えるのです』
優しく微笑む彼は、華麗に僕の頭から飛び出し、背中を優しく叩いてくれた。すると、頭の中の霧は一瞬のうちに霧散し、胸の奥で決意が固まる音がした。
そして脳裏に浮かぶ戯言を払い除け、僕は身体を動かした。
人混みを強引に掻き分ける。あっ、今誰かに脇腹殴られた、すいません。あっ…今睨まれた、すいません。
すいません、すいません、だけど今、目の前でA子は涙目じゃないですか。怖がっているじゃないですか。
それを免罪符に少しの迷惑をお許しください。
人混みに身体をねじ込み前へ進む。もう少し、もう少しでA子とM宮に手が届く。
そして…
「おっおはようございましゅ、ま間宮さんっっ。」
M宮の肩に手を掛ける。思わず上擦った声が出てしまった。格好悪い。
「あ?誰だお前?」
M宮がとても不機嫌な声と鋭い眼光で僕を睨みつける。まるで変質者を見る目だ。いや、変質者はどちらかと言わずともこいつだ。
「いっ以前、いっ一緒に働いてたではないでふか?忘れちゃいまひた?」
頭に浮かぶ言葉を必死で並べ、A子とM宮の間に割って入る。
A子に視線で、お願いします。ここから離れてください。と、訴える。
「そそそういえば、たた高橋さんどうしてまふ?こっ今度みんなで飲みに行きましょうよっ」
脳内の言葉を必死に掻い摘む。
あぁ…きっと周りから僕は痴漢の知り合いだと思われているに違いない。
M宮は不信感を丸出しに僕を睨み続ける。すると僕の意図を察してくれたのか、A子は乗客達に謝りながら、その場を離れてくれた。
彼女がその場を離れた安心感が表情に出てしまったのか、M宮の顔が一気に赤面した。
「てめー…」
M宮がそう呟いた瞬間、《○☓駅、○☓駅》いつの間にか次の駅に到着していた。
急いでドアから飛び出す。後ろを振り返ると、M宮も僕を追って降りようとしていた。危機察知能力が作動したのか、反射的だった。両手で思い切りM宮を車内に押し込む。他の乗客の皆様方、すいません、すいません。
そして、鬼の形相で睨みつけるM宮を乗せたまま電車は次の駅に向かって走り出した。
電車を見送ると緊張の糸がプツリと切れたのか、腰が抜けホームでへたり込む。
何て格好悪い助け方だ。もしかしたらA子にも同じ変態だと思われたかもしれない。他の人にも迷惑をかけてしまった…。小説のように上手くはいかないものだ。
終いには、下半身に力が入らず上手く立ち上がる事すら出来ない。何処まで情けないのだ僕は…
すると。
「あっあの…」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、綺麗な姿勢でA子が立っていた。
「先程は…先程はありがとうございました」
深々と頭を下げ、お礼の言葉を口にするA子。顔を上げた彼女は真っ赤な顔で僕の瞳をじっと見つめた。
僕を見つめる瞳には涙が浮かんでおり、A子は今にも泣き出してしまいそうで……けれど、その表情はとても安堵しているようにも見えた。そんなA子を見ていると、僕も心の底から安堵した。
「うん…うん…本当に…本当に良かった」
大の大人が駅のホームに大の字で寝転がる。あぁ、きっと今日は遅刻だろう。怒られるだろう。憂鬱だ。
けれど…限りなく透明に感じる空を見つめていると、こんな憂鬱があっても良いではないか?
そんな風に思える一週間の始まりだった。
月曜日のラッシュアワー みらい @debukinoko
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