知恵の真実

冠梨惟人

第1話

 これは知恵の真実についての随筆。


 ふれるとは触れるで、解けるためには大きく振れないとならないので、感じることが激しくなればそれは心の芯が揺れたということになるから、物は零度でも止まることはないらしいから、冷の力が静の力に変るのだろうとぼくは予測している。


 だから涙にもどしたい、感涙の雫に。


 自身が描いたものを読んだことで気持ちに変化が起ってくれたら、嬉しく思う。ぼくが小説を描くのは小説を読ませるためではなく、読んだ者の現実を理想に変えるためだから。


 もしもこころというものが霊なのだとしたらその霊を感じられるのは零という数の領域でしかないだろう。その状態を虚とか空とか、つまりむなしいという感覚として悟りを得た者は捉えている。それはおそらく物質を作り出す前の状態ではないかとぼくは考えている。


 物事は極まると答えが問いかけの前にある。それを回答とか返答とかいうが、生命の起源を調べると藻に行き着くらしい。


 草食動物はやさしく、肉食動物はにくらしいとかそんな道理はない。


 やさしいとは優しいで人を憂うとかくが、また優しいとは優れるともよむが人を憂うものが優れているのは憂うべき者が病んだ者であり、病んだ者にはやさしくするべきだから。病んだ者は誤解した者で、誤解とは正解を理解できないから起る現象である。


 因果の法則で語るなら因という病みは過ぎることで起る。


 及ばないのはこれから辿ることができるが、過ぎると戻るしかない。誤解を引き起こしたらそこは理解の領域で貪欲が起きた解き明かしだから知恵まで戻って自分が知らないことがある事実を見つめて隠れている知恵に戻る必要がある。


 そこからはじめないと信じることはできないし、知ることもできない。そこが信仰であり信仰とは仰ぎ見るものでその言は上から降りてくるから御言葉という。


 御言葉はあなたの口、あなたの近くにあるからお前なんかに、と気持ちが動いた時には御前にある者が神の使いであると理解できないと面倒が起ることは覚えておいた方がいいと思う。


 面が倒れたら面白いということにはならないから、知ることができない、隠れた知恵の真実を。

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