世界の裏側の音

 もう先月の話になる。


 吐き気を伴う頭痛に見舞われて、めまいの時にお世話になった神経内科に駆け込んだ。後頭神経痛と診断された。神経痛を緩和するお薬と、神経の傷みを修復するお薬、それから胃薬が処方された。

 神経痛を緩和する薬が、眠くなるお薬だった。眠気に耐えて、家事や仕事をこなして数日。録画してあった深夜アニメを再生しながら洗濯物を干していたら、オープニング曲から聞こえるはずの音色が聞こえなかった。立ち位置が悪くて、スピーカーから音が届かなかったのかな、とやり過ごした。

 翌朝、洗濯機から聞こえる音も、電子レンジから聞こえる音も、なんだかおかしい――洗濯や温めが完了してピーピーと鳴る音が、いつもの音ではない。普段より低く聞こえる。そこで昨日のアニメのことを思い出した。パソコンが起動していたので耳慣れた曲を再生してみた――これも、なんだかおかしい。低く聞こえる。

 絶対音感のない音痴ゆえ絶対の自信はないが、半音階低いと感じるのだ。音の高さがいつもとは違って気持ち悪い。音楽を聴いていると、楽器によってはぼわんと間延びして聞こえるものもあり、整った旋律が乱れて耳障りになっていた。

 ……もしかして、高い音が、聞こえなくなっているのだろうか。

 数日前に突発性難聴の記事を読んだばかりだった。異常が見つかって四十八時間以内に受診しないと治りが悪くなると読んだ。アニメ曲に違和感を感じてから何時間経ったろうか。不安になった。大好きな曲も、もしかしたら、この先一生こんな聞こえ方をするのだろうか。

 出社二十分前、居ても立ってもいられず、電話で先輩に泣きついた。


 代わりのいない仕事が午前いっぱい、その後のは代わりの人がいるから、お昼前に耳鼻科に行っておいで。なんとか先輩が取りはからってくださったので、自転車をめいっぱい漕いで耳鼻科に急行した。

 聴力検査の結果は異常なし。

「突発性難聴ではないよ」

喉の腫れが神経に影響しているのかもしれない、とのことだった。

 あれだけ大騒ぎしたのに結果は喉風邪だったなんて、と先輩に電話で平謝りした。今からでも職場に戻りますと申し上げたのだが、代わりの人が入ってしまったしもう休みなさい喉風邪でしょう、と言われ、私はしおしおと帰宅した。


 人の声も、車の音も、いつもと同じに聞こえる。

 なのに電子音――家電の、作業終了を知らせる音や、インターフォンのチャイム音、音楽なら打ち込まれた音の聞こえ方がおかしい。半音低く、ものによっては間延びして聞こえる。

 耳鼻科の先生の、神経、という言葉がふと、ひっかかった。

 神経内科に電話して尋ねてみた。

「この前処方されたお薬に、音の聞こえ方がおかしくなるといった副作用はありませんか」

「あるよ。一千人に三、四人だけど」

実際に自分がここ何十年処方した中でその副作用が出たのはあなたで三人目、とのことだった。例の眠くなる薬だった。またお前か。

 薬は三十六時間で半減期が来るから、服用期間が終われば数日で元に戻るよ、音楽家なら業務に差し支えるからすぐ処方を止めるけど……と口ごもられた。

 残念ながら音楽家ではありません。ただの音痴です。


 音が鳴るたびに二十年物の電子レンジが新調されたかのような幸福感を味わうし、いつもと違う聞こえ方をする音色の中で、かえって今のほうが素晴らしく聞こえる旋律があるかもしれない。同じ聞こえ方をする者がいない世界で、私だけの素敵な音色。

 俄然わくわくしてきたのだけど、聞き慣れた曲はしばらく聴けなかった。

 翌週、受診した際、眠気が業務に差し支えると訴えたら投薬量が減り、気づいたら周りの電子音が元通りになっていた。大好きな曲も、これでやっと聴ける。聴けるが仕事が繁忙期。そしてこのまま帰省である。

 落ち着いて音楽を聴きたい。

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