桜吹雪の舞った道で

古田 沢音

桜吹雪の舞った道で

 エッセイを書いてみたらという声をいただいたので、応えてみることにした。

 ところでエッセイって何を書けばよいのだろう? なんでもいいのだという答えが返ってきた。

 テーマも特に設けられていない状態で書く文章。「不安は自由の眩暈である」。自由だとどっちに向かって歩けばいいのかわからなくて、かえって一歩も踏み出せなくなる。自由って怖いね。踏み出せなかったので、今いる地点を掘り返して――すなわち昔の自分の文章を発掘して――みた。

 エッセイぽいと思える文章を発掘してきたので転載しますね、これどうです? こういうのがエッセイですか? と方向性を尋ねようとしたのだけど、まるっと転載は芸がないし、そもそもその文章、添えた写真がないと全体の文意が伝わらず、私はこちらに写真を転載するすべを知らないのだった。写真で表現した部分を言葉で描写しようとして画像を見たら、幼稚園年少さんから年中さんに上がった頃の息子が桜の下、ボートに座って、腰に手をあてて、眉を煙らせほっぺをふくらませ唇をつきだしてこちらを見ており、その写真がめっちゃくちゃかわいかったので作業が止まった。

 あの頃はまだ、赤ちゃん服の名残のような、肩にスナップボタンのついたTシャツを着ていたのだ。Tシャツには電車の絵。電車大好きっこで、そのTシャツがお気に入りだった。そろそろサイズアウトのはずなのだが、華奢で肩幅も狭いせいか普通に着られて、本人も好んでヘビーローテーションしていた。ふくらませたほっぺをひっこめて唇を開けば、まだ発音が明瞭ではなくて。当時の動画などを見ると「見せて」が「みしぇて」に聞こえる。母親である私のことを「まんま」と呼び、ひらがな・カタカナが書けるようになった頃、よその子は「ママ」と書くところを「まんま」と書いた。「まんまだいすき」と太いサインペンで書かれたおてがみが量産された時期もある。ハートマークもちりばめて「まんまだいすき」。

 なつかしい。


 mixi日記に書いてあったその文章では、さくらの辻公園につながる川沿いの道と公園の桜が、工事のため伐られてしまうことを嘆いていた。「来年は咲かない桜」というタイトルだったのだが、翌年までに伐採されるのがガセ情報だったらいいのになあという思いと、感情的にガセ情報を流してしまっていたらどうしようという不安とが半々で、でもその日記を書いてから、さくらの辻公園に確かめに行く機会もないままで。日記の日付を見たら五年前。

 mixi日記を発掘した翌日、公園近くに用事ができた。

 用事を済ませた帰り、もう肌着もポロシャツも汗だくだったのだけど、ついでだからと思い立って、公園に自転車を走らせた。五月から六月に暦も変わる時期、当然ながら桜は咲いていない。夾竹桃のピンクが目を惹いた。

 桜の葉のついた木は残っていたけれど、大人の背より高い柵に囲われていた。柵は公園の半分を覆い、公園の外の、私が通ろうとした道にも設置され、看板には、工事のため河川管理用通路が閉鎖される旨書かれていた。

 看板の先には、川――といっても河川敷のない、鉄骨の壁の間を流れる水路のような「川」――にさしかけられていた無数の枝も、太くて節くれ立った幹の列も、まるごと、見えなくなっていた。

 やっぱり伐採されてしまったのだ。


 ガセではなかったよ、公園は半分残っていたけど、河川管理用通路の見事な桜並木はなくなっていたよ、と残念さを当時の自分と分かち合いつつ、汗だくのまま自転車で帰ってきた。

 五年前の自分の言葉を、ぽつりぽつりと通訳しながら、この後つづってみようと思う。


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 先週、空き時間で自転車を漕いで、一人で花見に行った。桜吹雪が舞っていた。


 川面にさしかけられた桜の枝は、そのまま私の頭上を越え、フェンスの向こう側の幹につながっている。幹のてっぺんからも、枝のはるか上からも、花びらが散っていた。ひらひらと、ひらひらと。音もなく。褪せた緑色のフェンスに左右を挟まれた細い道は、桜の花びらに染まって、白い。道の端の方は積もってほんのり赤みもある。

 薄紅混じりの白い道がまっすぐ延び、頭上を枝の焦げ茶色と花びらの薄紅がどこまでも並ぶその道を、私は自転車でゆっくり走る。

 この道の左側が石神井川。右側が駐車場。

 駐車場の敷地は川沿いの公園に続いている。

 目の前の桜並木は公園をつっきった果て、車道に突き当たるまで連なっている。


 その公園がさくらの辻公園と呼ばれていると知ったのは、ついこの前。

 公園は、傍を流れる川の整備のために、もうすぐ取り壊されるらしい。桜の木も伐られてしまうのだと聞いた。


 おととし、公園の近くの図書館によく幼児連れで出かけていた。

 図書館帰りにふらっと立ち寄ったら、桜がものすごく綺麗でびっくりした。二歳かそこらの息子が桜の花びらを拾って珍しそうに見つめていたのを覚えている。


 今年も桜がものすごく綺麗で。

 薄青い空を埋め尽くす枝は、生き物の血管のように広がって、花びらを降らせている。枝のはるか下で、ぼんぼりの骨組みに似た街灯が、薄雲のかかった空と同じ色の脚を、すっと地面に下ろしている。花びらをつまんで観察していた頃の息子と、同じくらいの高さになるようしゃがんで頭を低くして見れば、桜並木の下は、花びらの雲の海。

 この景色はもう、来年には見られないのだなあ。


 傍の砂場で、二年前の息子のような小さな子が、同じように桜の花びらを拾って遊んでいた。


 桜を伐ってしまうのが桜に申し訳なくて、週末には雨だと聞いていて、子供とまた桜を見に来たいと思っていたのに叶わなくて、二年前がなつかしくて、……

 いろんな感情がごちゃまぜになったまま、桜吹雪の中、ふらふらと自転車を漕いで帰った。



 桜の移植は難しいから伐ることになったらしい。整備後、新たに桜を植樹するそうだ。

 教えてくれた人は、今の桜を植えたのが三十年前だとも教えてくれた。

 いま幼稚園に通う息子が、ええ年のおっさんになった頃、また今のような景色を見せてくれるだろうか。


 息子はよく「息子くんがおとなになっておとうさんになってー、まんまが子供に戻ったらー、」と言う。

 大人が子供に戻ることはないよ、と教えたいけど、万が一私が早逝し、万が一人間が生まれ変わることがあるのなら、私は息子の娘になっているかもしれないし、などと妄想して、妄想しているうちに教えるタイミングを見失う。

 ええ年のおっさんになった息子が、小さな女の子に戻った私の手をひいて、さくらの辻公園の桜の下にいる遠い遠い未来を、夢想している。

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